2014年1月10日金曜日

第11章 イスラーム・ネットワークの成立

 




1.7世紀初頭のユーラシア

2.イスラーム教の成立

3.イスラーム・ネットワークの成立

4.イスラーム世界の都市













1.7世紀初頭のユーラシア

7世紀の世界
 













 
世界の宗教














玄奘(三蔵法師)

629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。以後600年頃の死に至るまで仏典の漢訳に努めて東アジア世界への仏教の普及に計り知れない影響を与えるとともに、『大唐西域記』を著して、当時の西域事情を紹介しました。
彼は、遊牧民族の活動に伴う不安定な世の中を救済するために、仏教を広めようとしました。








 聖徳太子 厩戸(うまやど)皇子
豪族同士の争いが絶えない中で、彼は十七条憲法を定めて天皇を中心とした国家のあり方の基礎を築くとともに、仏教をあつく信仰して仏教による統治を主導しました。ただし、彼は半ば伝説的な人物で、実在を疑う人もいるようです。実在を疑う必要はないと思われますが、彼について知られているエピソードの多くは、後世につくられたもののようです。







 7世紀初頭、すなわち622年ムハンマドがメディナへの移住を行って本格的なイスラーム世界の形成が始まった頃、ユーラシア大陸では3世紀以来の混乱を収拾して新しい秩序の構築をめざす動きが随所に見られました。中国では、618年に唐帝国が成立し、漢帝国を上回る中華帝国の樹立に向かい、同じ頃玄奘(が新しい秩序原理を仏教に求めてインドに向かいました。それより少し前に日本では聖徳太子が仏法に基づく政治の実践に情熱を傾けていた、とされます。一方、西方世界では、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアという古代帝国の名残ともいうべき二つの国家が併存し、激しい対立を続けていました。ビザンツ帝国はローマ帝国の直接の継承国家でしたが、この頃から国家の再編成を進め、事実上ローマ帝国とは別個の国家・文明を形成しつつありました。これに対してササン朝は、エフタルの侵入を阻止したものの、衰退の一途をたどっていました。

2.イスラーム教の成立

アラビア半島















メッカ















 アラビア半島は大半が砂漠地帯で、細々と遊牧や隊商交易が行われていました。ところが、ムハンマドが生まれる半世紀ほど前から、隊商による遠隔地交易が急速に発展しつつありました。その理由については諸説ありますが、一般にはビザンツ帝国とササン朝との長期の抗争のため新しい交易ルートが必要となったと、説明されています。いずれにせよ、隊商交易の発展により各地に中継都市が形成されますが、その中でもとくに発展したのがメッカでした。メッカは、アラビア半島のほぼ中央部、紅海沿岸から70キロほど東の内陸部に位置しています。メッカは小さなオアシスの町で、周囲を岩山に囲まれ、農耕に不向きな土地でした。

 
5世紀末頃に遊牧生活を行っていたクライシュ族がメッカに住み着き、6世紀半ばから隊商交易を行うようになり、交易の規模は急速に拡大しました。ムハンマドが商業活動を始めた頃には、冬には南のイエメンに、夏には北のシリアへ隊商を派遣することがならわしとなっていました。ときにはラクダ2500頭、300人もの人員が派遣されたとされ、アラビアの乳香・没薬、インド・東南アジアの香辛料、アフリカの金・象牙・奴隷などがシリアにもたらされました。その結果、メッカは人口1万人ほどの、誰もが自由に出入りできる都市へと発展していきました。こうしたなかで、従来の遊牧的価値観から都市的・商業的価値観へと、社会が大きく転換し始めていました。すなわち、遊牧的価値観とは部族の血のつながりを重視する価値観であり、都市的・商業的価値観とは個人の契約を重視する価値観です。
                         ハデイージャの求婚

ムハンマド                   

















ムハンマドは570年頃クライシュ族ハーシム家に生まれましたが、幼くして両親を失い、叔父に育てられ、彼は叔父とともに何度も隊商に参加して商売の方法と見聞を広めました。ムハンマドが25歳になった時、メッカの富裕な未亡人ハディージャは、ムハンマドの誠実な人柄に惹かれて彼と結婚しました。当時彼女は40歳に達していたと伝えられていす。ムハンマドの風貌については、200年ほど後に記述されたものが残っている。
 ムハンマドの肌は赤みがかった白で、目は黒く、頭髪は長く柔らかだった。口ひげとあごひげはともに濃く、薄い毛が胸から腹のあたりまでのびていた。肩幅は広く、足どりはしっかりとしていて、その歩き方は坂道を下るようだった。背丈は低くもなく高くもない程度だった。いつも丈の短い木綿の服を身につけ、バターとチーズは好きであったが、トカゲは食べなかった。よく悲しげな顔をすることがあったが、思索にふけるときには、いつまでも黙っていた。人に対しては誠実であり、すすんで人助けを行い、常に優しい言葉をかけるのを忘れなかった。(中央公論「世界の歴史8」から引用)
 610年、ムハンマドが40歳の頃、彼はメッカの郊外のヒラー山で瞑想していた時、大天使ガブリエルが現れ、次のような神の啓示を伝えたとされています。
 ()め、「凝結()から人間を創造し給うた汝の主の御名において」
 詠め、「汝の主はペンによって[書くことを]教え給うたもっとも尊いお方」
「人間の未知のことを教え給うお方」であると(中央公論「世界の歴史8」から引用)
 「詠め」とは、声を出して詠むことであり、コーラン(クルアーン)は「声を出して読むもの」という意味である。ムハンマドは自分が悪霊に取り憑かれたと思い、恐れおののきましたが、妻のハディージャは、断続的に出される言葉を神の言葉と信じ、ムハンマドを励ましました。その後メッカで弾圧されたムハンマドは、622年メディナへの移動、つまり有名な聖遷=ヘジュラを行います。

コーランア                        アザーン






















  イスラーム教の特質は一神教と偶像否定にありますが、この点についてはすでにユダヤ教やキリスト教の伝統があり、ムハンマドがこれらの宗教を受け継いだことは間違いありません。事実、初期の段階ではムハンマドは新しい宗教を創始したという意識はなく、自己の宗教がユダヤ教やキリスト教と同じ宗教だと考えていたようです。しかし、しだいにその違いが明白なっていきます。ムハンマドは、ユダヤ教徒やキリスト教徒は神の意志を誤解しているのではないかと考え、そのような誤解を正すために神は自分に、新たな、最終的な啓示を与えたのだと考えました。今自分が神から受けている啓示こそ、正しく神の意志を反映するものだと、考えたのです。イスラーム教のアザーンでは、次のような言葉が述べられる。


 神は偉大なり、神は偉大なり、
 私はアッラーのほかに神はないことを証言します
 私はムハンマドは神の使徒であることを証言します
 礼拝に来たれ、礼拝は眠りに勝る
 神は偉大なり、アッラーのほかに神はなし
 しかし、グローバル・ヒストリーというテーマと関連する最も重要な特質は、イスラーム教が本質的に都市的かつ商業的性格をもった宗教だということです。まずコーランの一節を引用しましょう。

 量を減らす者は災いなるかな
 彼らは人から計って受けとるときには、十分にとり
 人に計ってやるときには、少なく計量する者たちである
 これらの者はよみがえることを知らないのか
 偉大なる日に

これは、取引で()をごまかす人への警告であり、最後の審判の日には生前の善行と悪行を、商品を計るように秤にかけられ、天国行きか地獄行きかが決定される、ということでこのような言葉は、われわれの日常的な視点から見れば、とても宗教の教典の内容とは思えない世俗的な内容に見えますが、イスラーム教は神と個人の契約によって成立しており、神と契約した個人と個人の契約も、決して破られてはならないのです。

カーバ神殿
 都市にはさまざま言語や慣習・倫理をもった人々が集まります。そして西アジアでは、すでに数千年前から言語・慣習・倫理観の異なるさまざまな地域との広域な交易ネットワークが発達していました。そのような多様な人々が交錯する世界に、イスラーム教は共通の価値観を提示したのです。そして、イスラーム教は複雑な手続きを必要としない、きわめてシンプルな宗教だったから、瞬く間に多くの人々に受け入れられていきました。しかも、コーランはアラビア語で書かれていたから、イスラーム教が存在する所はどこでも、アラビア語を共通語とすることができました。ここに、イスラーム教とアラビア語を基盤とする、空前の交易ネットワークの形成が可能となるのです。

3.イスラーム・ネットワークの成立

イスラーム帝国

 










8世紀の世界

イスラーム教徒は、7世紀半ばから1世紀にわたって大征服活動を展開し、8世紀半ばにその領域は、西はイベリア半島まで、東はシル川・インダス川まで達しました。もともと西アジアやエジプトには古くから都市と交易が発達していましたが、それに加えてイスラーム軍は征服の過程で各地にミスルと呼ばれる軍事都市を建設し、都市間の道路網の整備を行ったため、陸上・海上交易網が発展し、巨大なイスラーム・ネットワークが誕生しました。そして、ちょうど同じ頃全盛期を迎えていた唐帝国とイスラーム帝国が境界を接することになり、歴史上はじめて西方と東方の大帝国が直接接触して、ユーラシア大陸と東西が二つのネットワークによって結びつけられることになったのです。

  バグダード



 これを象徴するのが8世紀後半のバグダードの建設です。バグダード(正式にはマディーナト・アッサラーム=平安の都)は三重の城壁に囲まれた計画都市で、直径は2.35キロ、その内部には高さ36メートルにも及ぶ緑の巨大ドームに覆われたカリフの宮殿(黄金門宮)や多くの建造物が建てられました。城壁には四つの門が作られ、その門から道路・水路によって世界中の交易路とつながっていました。北東部のホラサーン門を出てティグリス川を渡り、東に向かえばシルクロードにつながり、やがて唐の長安に至ります。南東部のバスラ門を出てティグリス川を船で下れば、ペルシア湾からインド・東南アジアを経て中国の広州に至ります。西南部のクーファ門を出て西に向かえば、聖地メッカに向かい、さらに南下すればアデンに至ります。西北部のシリア門を出てユーフラテス川沿いに遡り、途中から西に向かえばダマスクス、さらにエジプト・コルドバにまでつながっています。

長安と平城京


 ちょうど同じ頃、唐帝国では「長安」という国際都市が繁栄していました。バグダード=「平安の都」には、アラブ人の他にイラン人、ユダヤ人、アルメニア人、キリスト教徒など人種・宗教を異にする人々が集まっていたように、長安でもソグド人、イラン人、ウイグル人などが活躍し、ネストリウス派キリスト教・マニ教の寺院や、イスラーム教のモスクが建てられました。しかしバグダードと違って長安では、庶民は城壁の中に居住し、しかも夜間外出禁止などかなり厳しい規制がしかれていました。それに対してバグダードは、権力による規制がほとんどない、自由な都市であした。バグダード以外にも、イスラーム世界には無数の大小の都市が存在し、それらのほとんどがバグダードと同様に自由な庶民の都市でした。

 なお、日本でも、中国の長安をモデルとして、710年奈良に平城京が、794年京都に平安京が建設されました。この時代には、世界各地で、国家により計画的に都市が建設されていたのです。


4.イスラーム世界の都市

 かつては、ヨーロッパ中世の都市は市民による自治組織が発展し自由な市民社会が形成され、これに対してイスラーム世界の都市は専制君主のもとにおかれて自由がなく無秩序である、といわれてきました。しかし事実はまったく逆で、ヨーロッパ中世の都市は自治の名のもとに厳しい統制がしかれていたのに対し、イスラーム世界の都市は一見「無秩序」に見えるほど自由な都市であることが、近年明らかとなりつつあります。

 イスラーム世界における都市の支配者は、都市の防衛、犯罪取り締まりなどの秩序の維持、個人間の対立の調停など以外は、ほとんど何もしませんでした。イスラーム世界の都市生活を機能させていたのは、ワクフと呼ばれる寄進制度です。コーランが定めるイスラーム教徒の義務の一つにザカート=喜捨()というもののがあります。それは、本来神のものである財産の一部を神に返す行為で、蓄積された富を「貧しい者の救済」のために用いよ、ということです。この理念に従って、富裕な人々は、学校(マドラサ)、図書館、モスク、病院、商人の宿泊施設、庶民の住居(アパート)、公衆浴場などあらゆる公共施設を寄進し、あらゆる人が比較的安い料金でこれらの施設を自由に使用することができました。そして、その使用料によって、施設の維持・管理が行われたのです。

 もちろん、「イスラーム教の理念に従って」と言うのは、きれいごとです。一旦寄進されたワクフは、決して第三者に所有権を移転してはならないことになっており、ワクフとは、本来「停止」を意味するアラビア語で、所有権移転の「永久停止」を意味します。そして寄進した者はそのワクフの管理権をもつことができ、それによる収益を手に入れることができるとともに、管理権を子孫に残すこともできます。つまり、ワクフとは富裕な者が自己の財産を保全するための手段でもあるわけです。とはいえ、多くの人々がワクフの恩恵を受けることができるし、ワクフは都市住民の就業チャンスを増やすことにもなるのです。

 権力者の横暴や厳しい競争社会における浮沈は、いつでも、どんな所にでも存在します。ワクフもまた、それによって不当な利益を()る人々もいたでしょう。しかし、イスラーム教の理念が常にそれに一定の歯止めをかけ、どんな人にでも浮上するチャンスを与えています。それがイスラーム世界の都市であり、イスラーム世界とは、そのような都市と都市との間のネットワークによって構成されているの


≪映画≫

聖徳太子
2001年、NHKのスペシャルドラマ。
聖徳太子の一生を、伝説も織り交ぜて描いています。豪族間の対立や朝鮮との関係など、大変参考になります。
このドラマの、いわば続編として「大化改新」「大仏開眼」があり、律令体制の形成過程が描かれています








ザ・メッセージ 

1976年 アメリカ合衆国
ムハンマドの生涯を描いた唯一の映画です。イスラーム教では偶像が禁止されているため、ムハンマドの姿を映すことができません。そのため、180分に及ぶこの映画に、主人公であるムハンマドの姿は一度も映し出されません。したがってこの映画は、主人公が登場しない伝記映画なのです。しかしイスラーム教を理解するには、大変役に立つ貴重な映画です。なお、左の写真の顔はムハンマドではなく、彼の叔父です。

 
 
 
 アラビアンナイト

1999年アメリカの映画
アラビアンナイトが成立したのは16世紀で、それ以前のイスラーム世界のさまざまな説話が集められています。
シェーラザードが王に1001夜にわたって様々な物語を話すという設定で、シンドバッドの冒険、アラジンと魔法のランプ、アリ・ババと40人の盗賊など、日本でもよく知られた物語があります。




















































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