2014年1月9日木曜日

第19章 17世紀-オランダの世紀

 



1.ネーデルラントとフランドル

2.オランダの生い立ち

3.覇権国家-オランダ

4.オランダの衰退

付録.ジャガタラお春について















1.ネーデルラントとフランドル

 
 ネーデルラントとは、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、北フランスの一部を指す地域で、ライン川の河口地帯の湿地帯に位置しており、「ネーデルラント」とは、低い土地」という意味です。前1世紀にカエサルがライン川南部を支配してローマ帝国に併合したため、南部は文化的にも言語的にもラテン系の影響を受けたのに対し、北部はゲルマン系の文化・言語の影響を残すことになりました。そして、南ネーデルラントは現在のベルギーにあたり、北ネーデルラントは現在のオランダにあたります。

 1515年にスペイン国王であるハプスブルク家のカルロス1(神聖ローマ皇帝カール5)がこの地を継承しましたが、その子フェリペ2世の圧政に対して独立運動が起こきました。結局、南部は独立戦争から脱落しましたが、北部はネーデルラント連邦共和国として1581年に独立を宣言し、1648年のウェストファリア条約でその独立が国際的に承認されました。そしてネーデルラント連邦共和国は、南部と区別するために、中心となった州名であるホラントの名をとってオランダと呼ばれるようになりましたが、正式には「ネーデルラント連邦共和国」であり、現在では「ネーデルラント王国」が正式名となっています。

一方南部は、その後もハプスブルク家の支配を受け続け、19世紀には一時オランダに併合されますが、1830年にベルギーとして独立しました。ベルギーの国名の由来ははっきりしませんが、この地方に住んでいたケルト系の民族「ベルカエ」に由来するとされ、カエサルが「ベルギカ」として帝国の属州に編入したことから、この名称が定着しました。ルクセンブルクは、ベルギーとほぼ同じ歴史をたどりますが、1867年に永世中立国として独立が承認されました。今日、ベルギー・オランダ(ネーデルラント)・ルクセンブルク三国は、合わせてベネルクス3国と呼ばれています。

 フランダースの犬

フランドルとは、現在ではベルギーの一地方の一つですが、歴史的には、これにオランダの一部や北フランスの一部を含んでいます。英語ではフランダースです。そして16世紀までは、このフランドル、つまり主として南ネーデルラントが主役であり、17世紀以降は北ネーデルラント、つまりオランダが重要な歴史的役割を果たすことになります。

 













フランドルは、11世紀頃からイギリスの羊毛を原料にして毛織物工業が発展し、さらにバルト海との交易やライン川の水運を利用した内陸部との交易が発展しました。14世紀にはブリュージュ(ブルッヘ)はハンザ同盟にも加わり、交易と毛織物工業の中心として繁栄しますが、15世紀末に港に泥が堆積して衰退しました。ブリュージュに代わってアントワープ(アントウェルペン)が国際貿易港として繁栄しました。1531年には世界最初の商品取引所が設立され、ポルトガルかアジアからもたらす香辛料が取引されるなど、ヨーロッパ随一の商業・金融の中心地となりました。そのため、アントワープにはフッガー家などの金融業者やイタリアの商人たちが集まり、さらにポルトガルから追放されたユダヤ人職工らが移住してダイヤモンドの細工工業も盛んになりました。しかし16世紀後半に独立戦争が起きると、アントワープはスペイン軍に攻撃され、やがて衰退していきます。アントワープの衰退とともに、経済発展の中心は北ネーデルラントに移り、南ネーデルラントも衰退していきました。


2.オランダの生い立ち

オランダの堤防

 北ネーデルラントの歴史は、南部に比べて惨めな歴史でした。現在のオランダは日本の九州とほぼ同じ面積ですが、国土の4分の1は海面の下にあり、中世おいては今の半分程度の面積しかありませんでした。人々は堤防を築いて海水をさえぎり、排水して干拓地をつくり、土地を耕しました。もともと資源に恵まれませんでしたから、早くから漁業やバルト海交易を行い、13世紀頃には都市も発展するようになりますが、フランドルに比べれば貧弱なものでした。しかし、オランダはこうした不利な条件を克服することによって、やがて近代世界システムの最初の覇権国家に成長しいくのです。

オランダの風車
 オランダは風の強い地域だったため、14世紀に排水のため風力を用いるようになりました。それはやがて農業や製材、造船、織物、染色などあらゆる工業の動力として用いられるようになり、やがてそれは優れた帆船の開発とも結びついていきました。また16世紀後半から、特にアムステルダムには南部の富裕な商工業者、スペイン・ポルトガルのユダヤ人などが、通商目的あるいは宗教的迫害を逃れるために多数移住し、人口と資本が急増しました。こうして17世紀のオランダは、ヨーロッパ最大の工業国にして、通商国家として登場することになります。さらに、アントワープが没落した後、その商品取引・金融のシステムを継承し、17世紀にはオランダのアムステルダムは国際金融の中心としての役割を担うようになったのでする。
オラニエ公ウィレム
 16世紀後半に、スペインのカトリック強制策と重税に対する抵抗は独立運動に発展し、抵抗する人々は自嘲(的に「海乞食()党」と呼ぶ組織を作りました。そのリーダーとなったのが名門貴族オラニエ公で、ここに、「80年戦争」とも呼ばれる「オランダ独立戦争」が勃発します。反乱軍は堤防を切って町や村を水に沈め、小船でスペインの軍艦を襲うなど、ゲリラ戦で戦いました。1579年に反乱軍が制圧する北部7州は、「団結してスペインと戦う」ことを誓ってユトレヒト同盟を結成しました。これに対してスペインはリスボンヘのオランダ船の寄港を禁止しましたが、これは東洋や新大陸貿易に携わるオランダ人には大打撃となり、これを契機に自ら航路の開拓に進出することになります。

 その頃、南部ではアントワープなどの都市がユトレヒト同盟に同調しましたが、スペインはこれらの都市を次々と攻め、1585年にアントワープも占領しました。占領軍は市民の3分の2を占めた新教徒を改宗させ、宗教弾圧を行いました。これに対して、共和国軍はアントワープの海に通じる河口を封鎖し、その結果、1世紀以上にわたって世界商業の中心だったアントワープの繁栄は致命的打撃を受け、新教徒の大商人・毛織物業者・金融業者が大挙して北部に移住しました。彼らはオランダの商工業を凌駕(りょうが)する資本力・企業家精神を持ち、また世界各地に商業チャンネルを持っていました。この頃ドイツ各地の新教徒の職人もオランダに移住し、さらにスペインやポルトガルからもユダヤ人が移住し、これらがその後のオランダの繁栄の原動力となっていきます。

3.覇権国家-オランダ

 オランダ独立戦争は、スペインによる植民地支配への抵抗、信仰の自由を守るための抵抗であったと同時に、商業・貿易の自由を守る戦いでした。そこでは都市の商人が重要な役割を果たしました。彼らの信念は商業の発展にとって自由こそが基礎であるということだったのです。商人が国家を作った例はヴェネチアなどに見られますが、地主・農民・教会などを抱え込んだ国家が、商人の主導権の下に生まれたのは、オランダが最初です。そして、17世紀初め、オランダはまだ独立戦争の渦中()にありながら、商工業が空前の勢いで発展しつつあり、その中心舞台となったのは商業ではアムステルダム工業ではライデンでした。

現在のアムステルダム


アムステルダムは世界貿易の中心地となり、全世界から様々な商品が運び込まれ、再び全世界に向けて積み出されました。本格的な銀行が設立され、手形の授受や通貨の発行を始めました。それまで多種多様な通貨が流通していましたが、信用できる銀行の出現と通貨の発行は、大きなメリットでした。また株式会社も出現し、証券取引きも発生しました。さらに海運のリスクを補償するための保険組織も作られました。当時のアムステルダム商人達は、貿易のもたらす利益と同時に、サービスによって得られる利益にも気付いたのです。また風車を中心とした土地干拓が進み、牧畜を中心とする農業や乳製品の製造業も成長しました。

バルト海貿易
 しかし、オランダ経済の母はバルト海貿易にありました。16世紀後半、ヨーロッパの穀物不足を背景にバルト海地域の穀物輸入が急増し、それとともにアムステルダムが急成長をとげたのです。バルト海貿易は、かつての地中海貿易や、16世紀の大西洋貿易に比べれば、地味な貿易に思われますが、しかしこれこそが、都市に原材料を、都市民に食糧をもたらしたのです。新世界との貿易がもたらした貴金属は、それによって実質のある商品を買うのでなければ意味は無く、事実、新大陸の貴金属は、スペインの経済の発展に、さしたる寄与をすることはなかったのです。


ネーデルラント内部の政治抗争が終息すると、オランダは単なるバルト海貿易の中心から、世界の貿易センターへと飛躍しましたが、17世紀にはオランダのバルト海貿易の意味はますます増大しました。東欧はオランダに穀物を供給し、オランダの漁業と造船業に不可欠な資材をもたらしました。しかもこの造船業が、オランダ人が成功する鍵となったのです。オランダは木材の中心市場となったから、造船コストを下げることができ、技術革新を進めることもできました。これを背景にアムステルダムは、商品市場、海運、資本市場の中心となったのです。

オランダの世界貿易
 さらにオランダは、スペインに対抗してアジアに進出し、そのために、従来ばらばらに行動していた商人たちの会社を一つにまとめ、1602年に東インド会社を設立しました。オランダ東インド会社は、すでに2年前に設立されていたイギリスの東インド会社と比べ、資本金は100倍以上、連邦議会からの長文の特許状は、取締役と株主の有限責任制、株式の自由な譲渡などを定め、これ以降のヨーロッパにおける株式会社の特許状のモデルとなりました。これを背景にオランダは、バタヴィア・台湾・長崎などに拠点をおいて、日中貿易や香辛料貿易で巨利を得た。さらにオランダは、あまり成功しなませんでしたが新大陸にも進出し、ニューネーデルラント(ニューアムステルダム) 、後のニューヨークを建設しました。かくして世界経済は、徐々にオランダを核とするひとつのシステムに統合されていったのです。

ニューアムステルダム


 














4.オランダの衰退

17世紀前半のヨーロッパ

 国土が狭く、連邦制のため強力な国家権力が存在しないオランダが、17世紀に繁栄することができた一つの理由は、17世紀が危機の時代であり、ヨーロッパの他のほとんどの国が国内問題であえいでいたからです。しかし、状況は17世紀半ばに変わり始めます。三十年戦争が終わり、オランダ独立戦争にも決着がつきましたが、同時にイギリスの内戦も終わり、フランスでも1世紀に及ぶ内戦が終息しようとしていました。宗教的対立も一段落し、国家行政が再び支配者たちの主たる関心事となりました。16世紀の半ばにスペインのカルロス1世とフランスとの対立が終結した後、ヨーロッパは国際対立から国家内対立の時代に入り、戦争も政治も内に向かう傾向をもっていましたが、再び国家間対立を主体とする時代に戻り始めました。17世紀中頃には、イギリスとフランスの関心は、オランダの優位を排除し、自国がそれに取って代わることにありました。その結果、今や、国土の狭さと中央権力の弱さが、オランダの弱点となり始めたのです。

 イギリスは、ピューリタン革命の混乱により経済的にオランダに差をつけられたため、1651年に航海法を発布してオランダに対抗しました。航海法は、アフリカ、アジア、アメリカのイギリス植民地が輸入・輸出する物品は、イギリスの造船業者によって建造され、乗組員の75%がイギリス人でなければならないと定めていました。イギリスがこれらの植民地から輸入する物品もイギリスの船舶で輸送しなければならず、外国から輸入する物品の場合は、輸出国の船かイギリスの船で輸送することとされていました。これはオランダの海上貿易に打撃を与え、その結果、3次におよぶ英蘭戦争が勃発し、この間にオランダは、新大陸植民地ニューネーデルラントを失いました。
 一方、この頃オランダはアジアでも苦戦していました。鄭成功によって台湾を追われ、今や東アジアでは日本の出島での交易しか残されていませんでした。日本との独占的な交易はオランダに大きな利益をもたらしましたが、17世紀末にヨーロッパで香辛料価格が暴落したため、もはや香辛料は大きな利益を生み出さなくなりました。こうしてオランダは、アジアでも新大陸でも後退を余儀なくされたのです。

ウイリアム3世とメアリー2
 こうした中で、ヨーロッパでもオランダは危機に陥いりました。まず1665年に第2次英蘭戦争が勃発し、この戦争が終結した72年にフランスが南ネーデルラントに侵入しました。さらに1672年にはフランスとイギリスが提携し、第3次英蘭戦争が勃発するとともに、フランスもオランダに侵入してきました。まさにオランダは危機に陥ったのです。オランダはこの危機をよく凌いぎましたが、いかにオランダ経済が繁栄していようとも、集権化を強めつつあったフランスとイギリスを相手に戦うことは困難であり、今や小国で強力な中央権力をもたないオランダの弱点が明白となったのです。その後オランダはイギリスに接近し、1688年にイギリスで名誉革命が起こったとき、オランダ総督ウィレムがイギリス国王ウィリアム3世として迎えられたのである。




17世紀の国際関係の変遷
 両国の同盟で最大の利益を得たのはイギリスでした。もはやオランダは政治的・経済的・軍事的にイギリスに追い抜かれていましが、オランダにはアムステルダムに蓄積された資本と金融のノウハウがあり、これが18世紀イギリスの財政をささえることになったのです。18世紀におけるイギリスとフランスとの長い戦いにおいて、最終的にイギリスが勝利をおさめることができたのは、オランダの豊かな資本だったのです。

 


付録.「ジャガタラお春」について

ジャガタラお春の碑(長崎市聖福寺)
 江戸時代初期、鎖国が強化され、外国人とともに外国人との混血児も日本から追放されることになりました。お春はイタリア人航海士と日本人との間に生まれた子で、1639年に15歳のときにジャカルタ(ジャガタラ)に追放されました。ジャカルタは、20年前の1619年にオランダがバタヴィア植民地を建設した場所です。


追放された人々は日本に手紙を送ることも禁止されていましたが、中国船の乗組員らに依頼して密かに日本に手紙を書き送り、その内4通が残っていて、「ジャガタラ文」と呼ばれています。その中でもとくに有名なのが、「お春」の手紙です。ただし彼女の手紙自体は今日残っておらず、後に伝えられて有名となったものです。「日本恋しや、日本恋しや。もう二度と帰れぬ故郷思えば、なみだにむせび…。」と書かれていたとされていますが、多少芝居がかっているように思われます。「お春」は21歳の時にオランダ東インド会社の職員と結婚し、彼が出世したので金銭的には裕福な暮らしをし、何人もの子供をもうけて幸福な生涯を送ったようです。
当時の世界経済は、16世紀における激しい膨張の時代から、17世紀における急速な収縮の時代に転換しつつありました。「お春」の物語は、そうした激動の中で起こった歴史の一コマです。



≪映画≫
 

フランダースの犬  


1998年 アメリカ合衆国
アニメで有名になった「フランダースの犬」の舞台は19世紀のフランドルです。孤児となったネロは、優れた絵の才能が認められず、愛犬パトラッシュとともに、敬愛するルーベンスの絵の前で、夢を見つつ短い生涯を閉じる、という物語です。










 

真珠の耳飾の少女

2004年、イギリスとルクセンブルクの映画
17世紀のオランダの画家フェルメールが、「真珠の耳飾の少女」を完成するまでの物語














レンブラントの夜景


2007年 カナダ・フランスなどの合作
レンブラントは、17世紀オランダを代表する画家で、とくに肖像画で名声を高めました。当時のオランダは経済的に全盛期を迎えつつあり、市民階級も大きく成長しつつありました。従来肖像画は金持ちが画家に依頼するもので、市民が自費で肖像画を依頼することは困難でした。そのためもあって、何人かがお金を出し合って描かせる集団肖像画が流行していました。こ映画のテーマである「夜警」は、アムステルダムの市警団から依頼された集団肖像画です。












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