2014年1月9日木曜日

第22章 イギリス-覇権国家への道

 



1.あいつぐ戦争-覇権の確立のために

2.財政国家の成立-戦争を継続するために

3.最後の戦い‐七年戦争からナポレオン戦争へ




 




1.あいつぐ戦争-覇権の確立のために

 ヨーロッパは、世界的に見て戦争の多い地域であり、とくに近世ヨーロッパでは戦争があいついで起きました。17世紀半ば、三十年戦争が終わり、イギリスでもピューリタン革命の混乱を克服しつつありましたが、その後イギリスとフランスはオランダの経済覇権に対する挑戦を開始しました。三度に及ぶ英蘭戦争が起き、さらにフランス軍がベルギーやオランダに侵入しました。この闘争は、イギリスの名誉革命によりオランダのオラニエ公ウィレムが国王に招かれたことで決着がつきました。すなわち、オランダは軍事的にイギリスの傘のもとにおかれたのです。
しかし、その後も戦争があいつぎました。まさに、名誉革命が始まった1688年はファルツ継承戦争(168897)が始まった年であり、その後スペイン継承戦争(170113)、オーストリア継承戦争(174048)、七年戦争(175663)などが起きます。これらの戦争のきっかけは、「血統に基づく王位継承」という古めかしいものでしたが、実態は、オランダ衰退後の近代世界システムの覇権をめぐる争いでした。

ルイ14





















ファルツ継承戦争



















ウィリアム王戦争
 ファルツ継承戦争は、東方へのフランス領の拡大をめざしていたルイ14世が、ファルツ選帝侯の男系がたえたのをきっかけに領土を要求し、ドイツ領内に兵をすすめ戦争を開始しました。一方、88年の名誉革命によりフランスへ亡命中の元イギリス国王ジェームズ2世は、ウィリアム3世を追い落とすため、ルイ14世の後押しでアイルランドに上陸しました。フランスは30万の大軍を投入し、海軍がオランダ・イギリスの連合艦隊を撃破するなど当初は優勢でしたが、時とともに持久戦に移ってファルツは焦土と化しました。一方北米では、イギリス軍のケベック包囲を撃退し、カナダのフランス軍がニューイングランドに侵入するなど優勢に戦いました(ウィリアム王戦争)。戦争の結果フランスはほとんど得るものがありませんでしたが、この時フランスがスペインからハイチを獲得したことは、その後のフランスの奴隷と砂糖貿易の繁栄の基礎となりまた。一方、イギリスはこの戦争でウィリアム3世の王位が認められた以外に、得るものは何もありませんでした。

ファルツ継承戦争の結果


















アン女王
 ところが、まもなく新たな戦争が起こりました。1700年、スペインでハプスブルク家が断絶し、ブルボン家のフランス国王ルイ14世の孫フェリペがフェリペ5世として、スペイン国王に即位したのです。スペインはかつての勢いを失っていたとはいえ、広大な中南米植民地を所有しており、フランスは当時ヨーロッパで最強の国家でした。この二つの国がブルボン家によって統一されるとするなら、もはやヨーロッパにはフランスに対抗できる勢力はいなくなってしまいます。しかも翌1701年にスペインはフランスに奴隷貿易独占権であるアシエントを与えたのです。海外貿易でフランスと激しく競争しているイギリスにとって、これは受け入れがたいことでした。こうして、スペイン継承問題は、全ヨーロッパを巻き込む戦争に発展していったのです。さらに北米植民地でもイギリス人とフランス人との間に戦争が始まり(アン女王戦争)、双方が互いに虐殺を繰り返しつつ膠着状態に陥って行きました。

  スペイン継承戦争後





















戦争は1713年のユトレヒト条約で一応終結します。これによってブルボン家がスペインを継承することが認められますが、両国が合併することは禁止され、ヨーロッパと北米で若干の領土を失いました。とはいえ、スペインとフランスをブルボン家が支配するということは、ヨーロッパ大陸におけるフランスの地位をさらに強化することになりました。一方、イギリスは、ジブラルタルとミノルカという地中海の要衝を獲得して、東方貿易のための通路を確保するとともに、北米でも植民地を獲得しました。しかし、イギリスにとって何よりも重要な意味をもったのは、スペインからアシエントを獲得したことです。これによってイギリスは、奴隷貿易の全盛時代を迎えることになるのです。結局、ヨーロッパ大陸ではフランスの地位が強化され、海外貿易ではイギリスが優位に立つことになったのです。

2.財政国家の成立-戦争を継続するために

一方、あいつぐ戦争は、イギリスやフランスに大きな財政負担を強いることになりました。9年におよぶファルツ継承戦争の4年後に、12年におよぶスペイン継承戦争が起こったのです。このような長期間の戦争の勝敗を左右するのは、資金の調達能力です。この時代になると、フランスでもイギリスでも、官僚機構が発展して、国民から効率的に税を徴収できるようになっていました。しかし、戦争は短期間に集中的に資金を必要としますから、これをすべて国民の税負担に依存するわけにはいきません。税負担を重くすれば、やがて国民の反発を買い、それは国内不安につながり、戦争が継続できなくなるからです。

戦争はますますお金がかかるようになっていました。今や必要な時だけに雇う傭兵だけではすまなくなり、相当数の常備軍を維持しておく必要がありました。さらに、彼らの能力を高めるための士官学校を整備する必要もありました。また、日々進歩する兵器を大量に維持する必要があり、そのために必要な経費ははかり知れません。18世紀のフランスは農業生産が豊かで、産業保護政策のおかげで工業も発展しており、さらに広大なヨーロッパ大陸市場を握っていましたから、イギリスに比べれば財政的には余裕がありました。

イングランド銀行
  これに対してイギリスがとった方法は、公債制度の採用でした。つまり国家が行う借金です。すでにイギリスでは、1694年にイングランド銀行が設立され、これが政府に代わって公債を発行し、戦争のための資金を調達するようになっていました。そして、この公債を引き受けたのが、イギリスのジェントリやオランダの富裕な商人たちでした。特にオランダは、海上貿易ではイギリスに敗北しましたが、金融面では18世紀を通じて指導的な立場にあり、彼らが大量の公債を引き受けることによって、イギリスは戦費をまかなうことができたのであり、近代世界システムの覇権国家となるためのフランスとの死闘に、イギリスが最終的に勝利を収めた理由でした。

とはいえ、公債は借金であり、借りた金は返さねばなりません。しかもその額は国民負担だけでまかなえる額ではありません。そのためには、新たに海外に進出し、関税収入を増やさなければなりません。こうなると、戦争は海外進出のために行うのか、戦争の借金返済のためにおこなうのか、はっきりしなくなります。いまや、借金を返済するためには海外に進出せねばならず、海外に進出するためには戦争をせねばならない、という悪循環に陥って行ったのですが、その課程で金融制度はますます発展していいきました。

金融制度の発展には、もう一つ大きな背景がありました。それは通貨の不足です。アジアからの輸入がますます増え続けますが、この貿易はヨーロッパからの一方的な銀の流失を招き、頼りの中南米の銀も枯渇し始めました。しかもスペイン領の中南米は今やブルボン家の影響下にあって、イギリスはあまり恩恵を受けることができませんでした。こうした中で、1697年からイングランド銀行が銀行券、つまり紙幣を発行するようになったのです。イギリスにとって幸運だったのは、1693年にポルトガルの植民地であるブラジルでゴールドラッシュが起き、スペインと対立するポルトガルとイギリスが同盟関係を結んでいたため、大量の金がイギリスに流れ込んだことでした。これにより、イギリスは金本位制度に基づく通貨制度を確立することができたのです。こうして、交易発展→通貨不足→経済収縮という悪循環を克服する道が開かれることになったのです。

3.最後の戦い‐七年戦争からナポレオン戦争へ

スペイン継承戦争の後、17年間平和な時代が続きましたが、1740年にオーストリア継承戦争が始まりました。今回の戦争も「王朝の継承」という古めかしい原因で始まり、フランス・イギリスを含めてヨーロッパの多くの国々が参戦する国際戦争となりました。この戦争は一応1748年には終結しますが、8年後の1756年には七年戦争が始まりました。これらの戦争は、イギリスやフランスが直接の原因となった戦争ではありませんが、それぞれ対立する国を支援したため、新大陸やインドで両国が激しく争うことになりました。今やヨーロッパで起こった戦争が世界に飛び火するようになり、それだけ世界の一体化が進んでいたのです。

   これらの戦争におけるイギリスとフランスの相違は、フランスはヨーロッパで戦うための陸軍と、海外でイギリスと戦うための海軍を必要としたのに対し、イギリスは海軍だけでよかったという点です。結局、七年戦争の後のフランスは北米大陸から全面的に撤退し、インドでもイギリスの優位を認めることになりました。そして、1763年に戦争が終わったとき、イギリスもフランスも国家財政は危機的状況に陥っていました。しかしイギリスには海外の植民地がありました。特に、イギリスはインドのベンガル地方などの徴税権を獲得しますが、ベンガル地方だけでもイギリス本国の面積と人口を上回っており、そこから得られた租税収入によって、イギリスは戦争のために発行した公債を買い戻すことができたのです。これに対してフランスには、財政危機を克服する手段を見つけ出すことができませんでした。

七年戦争後の北米












七年戦争後のインド
 七年戦争が終わった後、イギリスはフランスより少しだけ優位に立つことができましたが、これで終わったわけではありません。イギリスが財政危機の打開策の一つとして北米植民地に対する支配を強化したのに対し、1775年北米の13植民地がイギリスに対して独立戦争を開始したのです。七年戦争が終わって、まだ12年しかたっていません。独立戦争のきっかけの一つは、イギリス東インド会社による茶の独占販売権に対するボストン茶会事件でしたから、インドも中国もアメリカ合衆国の独立と無関係ではなかったのです。




アメリカ合衆国の独立
  この戦争では、フランスなどヨーロッパ諸国が植民地を支援したため、イギリスは苦境に陥り、結局1783年アメリカ合衆国の独立を認めることになります。その後イギリスはアメリカ合衆国と通商条約を締結し、従来通りの経済関係を維持して被害を最小限度にとどめたのに対し、フランスは独立戦争の援助によって得たものは何もなく、ただ財政危機を一層深刻にしただけでした。



 こうした中で、1789年フランス革命が勃発しました。フランス革命についてはさまざまな議論がありますが、フランスの財政破綻と、イギリスに遅れをとったフランスの富裕層の危機感が背景にあったことは間違いありません。当初、イギリスは革命に対して静観していましが、やがて革命が過激化するにつれて、革命に介入するようになります。革命がイギリスに波及することを恐れたからです。しかも、やがて革命の混乱の中からナポレオンが登場することになります。

ナポレオン
ナポレオンが目指したのは、劣勢に傾きつつあったフランスを立て直し、イギリスに対する優位を取り戻すことでした。まず、イギリス経済の生命線ともいうべきインド航路を遮断するため、1798年にエジプトに遠征しました。エジプト遠征は失敗に終わりましたが、1800年にフランス銀行を設立して、イギリスのような金融制度を確立します。さらにイギリス征服を目指しましたが、1805年トラファルガーの海戦で敗北すると、今度はヨーロッパ大陸を制覇して大陸市場の独占をめざしました。


 この過程で、ナポレオンは大陸封鎖令を発して、イギリスとヨーロッパ諸国との交易を遮断しました。しかし、結局大陸封鎖令はフランスに致命傷を与えることになりました。イギリスは海外との貿易を増やすことによって危機を乗り切ったのに対し、イギリスによる海上封鎖によりフランスの海外貿易が途絶えてしまったのです。しかもヨーロッパの多くの国はイギリスとの交易に依存していたため、大陸封鎖令に対する反発が強まりました。そしてこれが、ナポレオンの没落につながったのです。一方、ヨーロッパ大陸から締め出されたイギリスは、海外に活路を求めなければならず、ますますイギリスは海外貿易に力点をおくようになっていきます。

  1815年にナポレオが最終的に没落したとき、経済覇権をめぐるイギリスとフランスとの長い戦いにも決着がつきました。もはやフランスにはイギリスに対抗する力はなく、イギリスが「近代世界システム」の覇権国家としての地位を確立したのです。パクスブリタニカの始まりである。









≪映画≫

二都物語
1934年 アメリカ合衆国
この映画はイギリスの作家ディケンズの「二都物語」を映画化したものです。フランス革命の時代、ロンドンとパリという二つの都を舞台とした物語で、フランス革命時代の混乱の様子がよく描かれています。













美女ありき 
1940年 イギリス
 ナポレオン戦中、イギリスのネルソン提督と一人の美女との恋の物語です。ネルソンは、ナポレオンとの戦争で片目片足を失うなど傷つきますが、ナポリの大使夫人エマが献身的に彼を介護し、その結果二人は激しく愛し合うようになります。しかし、やがてネルソンはトラファルガーの海戦でフランス軍に勝利しますが、この海戦でネルソン自身は戦死することになります。
 ネルソンはイギリスで最も尊敬されている軍人の一人で、この映画では、トラファルガーの海戦に至る当時の政治状況やネルソンの行動について知ることができます。








戦争と平和
1956年、アメリカの映画
トルストイの小説を映画化したもので、ナポレオンのモスクワ遠征を背景としています。















会議は踊る 
  1931年 ドイツ
ナポレオン敗北後、戦後の問題について話し合うために開かれたウィーン会議を背景とした映画です。ウィーン会議の開催中、連日のようにダンス・パーティが行われていたので、「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られました。映画では、パーティの裏側で行われた政治的な駆け引きが描かれるとともに、ロシア皇帝アレクサンドル1世とウィーンの町娘との束の間の恋が描かれます。しかし、結局ナポレオンが復活したため、アレクサンドル1世はウィーンを去っていくことになります。
















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