2014年1月9日木曜日

第23章 綿織物とパックスブリタニカ




1.綿織物について―新たな国際商品

2.イギリスの産業革命-工業生産の効率化

3.地主支配の発展-農業生産の効率化

付録.ハイチの悲劇



 
 
 








1.綿織物について―新たな国際商品
 
綿花
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  綿織物は、木綿(もめん)・綿(めん)・綿布、英語ではコットンと呼ばれ、吸湿性と保温力にすぐれ、丈夫で洗濯にも耐えるため、今日にいたるまで、衣料品をはじめ寝具や日用品類などに広くもちいられています。綿織物の原料は綿(わた)であり、綿は綿花から採取されます。綿花の種は硬い殻でおおわれ、成熟するとはじけて綿が現れます。内部は隔壁によって数室に分かれ、それぞれに種があって綿が密生しています。
 
=インディゴ                                                                               日本の藍染(江戸時代)






 
                                                  
 綿から布を織ることは、すでに前2000年頃のインドで行われており、紀元前後には西アジアに伝えられ、ヨーロッパにも綿織物が輸入されましたが、まだ貴重品でした。中国には唐末から宋代に伝えられ、元から明にかけて綿花の栽培が本格化し、綿織物工業も発展しました。日本には9世紀頃に伝えられましが、江戸時代になると衣服革命が起き、美しく染色した綿織物が民衆に普及しました。

ヨーロッパへは17世紀頃から本格的に輸入されるようになり、インドのスーラトやカリカットの地名から、更紗(サラサ)・キャラコなどと呼ばれました。とくに、藍(あい)からとれるインディゴと呼ばれる染料で染色された綿織物は、その鮮やか()な青と、色ちのよさによって、ヨーロッパで大流行しました。こうした中で、イギリスでは、毛織物業者や羊毛を生産する地主などの間で綿織物に対する反発が強まり、18世紀には地主が支配する議会が綿織物の輸入を禁止したこともありましたが、西アフリカでの黒人奴隷貿易の対価として綿織物に対する需要はますます高まっていきました。つまり、綿織物は大西洋三角貿易の一端を担っていたわけです。

今やイギリスは、綿織物なしに海外貿易を発展させることは困難となりつつあり、可能であるならば、イギリス国内で綿織物の生産を発展させたかった。ところが、インドに比べてヨーロッパでは物価が高く、労働賃金が高いため、ヨーロッパ製の綿織物は品質のみならず価格の面においても、インドの綿織物に太刀打ちできなかったのです。労働賃金が高くてコストがかかるなら、労働賃金を低くすればよいわけですが、そうすると労働者が生計を維持できなくなるから、それは非現実的です。もう一つの方法は、機械で大量生産を行ってコストを減らすことです。これが産業革命であり、イギリスで起きた産業革命は綿織物の革命をきっかけに起こったのです。


2.イギリスの産業革命-工業生産の効率化


  18世紀半ば頃からイギリスで始まった産業革命は、砂糖プランテーションの発展と黒人奴隷貿易という世界貿易の連鎖の過程で起こった、一連の技術上の革新です。まず出発点はジョンケイが飛び梭と呼ばれる織機を発明したことです。この発明により、従来二人で行われていた仕事が一人で行われるようになり、綿織物生産の能率が大幅に向上し、コストを下げることが可能となりました。ところが、問題は紡績、つまり糸の生産が布の生産に追いつかなかったことです。そのため、イギリスの綿織物業は30年以上にわたって糸の不足に悩まされ続けたのですが、1760年代にハーグリーヴズ・アークライト・クロンプトンがあいついで紡績機を発明し、さらにカートライトが力織機を発明することにより、イギリスはインドの綿織物に匹敵する高品質の製品を、より安価に生産できるようになったのです。

  一方、機械工業の発展に不可欠なのは鉄の大量生産であり、それはコークス製鉄法によって達成されていました。そしてこの製鉄法には大量の石炭を必要としましたが、ここで別の問題が発生しました。石炭の需要が増大すると、従来のような露天掘りでは需要をまかなうことができなかったため、地下深く穴を掘る必要がありましたが、その際地下水が流れ込むため、これを汲みだす作業が必要となりまた。そのために発明されたのが蒸気機関で、1761年にワットが改良した蒸気機関は、カム軸(クランクシャフト)との組み合わせによって回転運動に転換されるようになり、ポンプだけではなく機械・鉄道・蒸気船などさまざまな動力として利用されるようになりました。ここに人類は、従来の人力・畜力・水力・風力に代わる新しい動力を手に入れたのです。

 



 









 蒸気機関車=ロケット号
 工業が発展すると、物資の大量輸送が求められるようになりますが、従来の馬車による輸送には限界がありました。そうした中で蒸気機関車が発明され、鉄道が建設されるようになります。こうして、1830年にマンチェスター・リヴァプール間に世界最初の営業鉄道が建設されますが、この場所に最初の鉄道が建設されたのは決して偶然ではありません。リヴァプールは18世紀の奴隷貿易で繁栄した港町であり、マンチェスターは綿織物工業で勃興した新興工業都市で、ここでも奴隷貿易と綿織物工業との深い関わりを見ることができます。

 





蒸気船クラモント号



 


 

 







ミシシッピー川
蒸気機関は船舶にも利用されるようになりました。すでに、アメリカのフルトンが蒸気船を発明し、1819年にフルトンが大西洋の横断に成功しますが、当時の木造船で石炭を燃やすことには危険がともなったため、大洋横断のための船舶としては鉄の船が登場する19世紀後半までは実用化されませんでした。19世紀の前半は、快速帆船=クリッパーの全盛時代だったのです。ただ、蒸気船は川をさかのぼるのには有効で、事実ミシシッピー川では蒸気船を用いて西部と南部の経済的な結びつきを強めることになりました。いずれにせよ、蒸気機関を交通機関に利用することによって、距離と時間が一気に短縮され、世界の一体化による近代世界システムの発展が加速化されることになりました。

綿花と綿織物
 とはいえ、近代世界システムの発展という点で最も重要なのは、綿織物です。なぜなら、綿織物は毛織物と違って国際商品だったということ、さらにヨーロッパでは綿花を栽培できないため、輸入に依存せねばならず、その結果、綿花の輸入と綿織物の輸出という経済関係が形成されていったのです。この関係が最初に成立したのがインドです。長く全世界に綿織物を供給し続けたインドは、今やイギリスに綿花を輸出し、綿織物を輸入するようになり、インドはイギリスを中心とする近代世界システムにしっかりと組み込まれていきました。従来、ヨーロッパとアジアの貿易は、常にヨーロッパの輸入超過であしたが、今やこの関係が逆転し始めたのです。

3.地主支配の発展-農業生産の効率化

 産業革命は、工業における労働力の効率的利用をめざすものでしたが、この時代に、イギリスやアメリカ大陸で、農業における労働力の効率的利用が進められて行きました。

イギリスでは、綿織物工業の発展は、羊毛生産で利益をあげている地主=ジェントリの利害と対立します。ところが、18世紀にジェントリの土地経営の方法に変化が生まれました。地主たちは、土地から農民を追い出して農業労働者とし、牧畜と穀物栽培を組み合わせた大規模な農業経営を行い、発展しつつある都市に食糧を供給するようになったのです。特に、19世紀初頭にナポレオンが大陸封鎖令を発すると、大陸の安価な穀物が輸入できなくなったため穀物価格が高騰し、地主たちは大きな利益をあげることができました。そして彼らは、利益を金融市場に投資し、その資金は綿織物工業など新興工業に投資されたので、工業はますます発展するようになります。その結果、ジェントリによる農業の資本主義的な経営と都市の資本主義的な工業が結合し、イギリスは「世界の工場」として発展し、パックス・ブリタニカを形成していったのです。

 アメリカ合衆国の南部では、17世紀以来奴隷労働に基づくタバコなどのプランテーションが発展していましが、18世紀後半にはタバコの価格が下落し、タバコに代わる商品作物を模索していました。最も需要の大きな商品は、イギリスの綿織物工業の発展に対応した綿花でしたが、アメリカで栽培できる綿花の品種は、種から糸を繰り出すのに手間がかかり、採算がとれませんでした。そのため、1887年の合衆国憲法制定に際して、将来における奴隷制の廃止についての方向性が示され、とりあえず19世紀初頭には奴隷貿易が禁止されました。これによって、アメリカ合衆国における奴隷制は消滅するかに思われたのですが、事態は思わぬ方向に転換しました。

ホイットニー
 1790年代にホイットニーが発明した綿繰り機により、綿花の繊維を種から効率的に分離することが可能となり、綿花は合衆国南部の最も重要な作物となったのです。その結果、奴隷制は再び強化され、商品作物として大量の綿花が栽培され、イギリスに輸出されるようになりました。これによって南部のプランテーション経営はよみがえり、南部はイギリスを中心とする近代世界システムに組み込まれることになりました。これに対して北部では、しだいに商工業が発展するようになり、イギリスと激しい競争を展開するようになっていました。その結果、イギリス経済に組み込まれた南部と、イギリス経済と対立する北部とが対立するようになり、奴隷制問題をきっかけに南北戦争が勃発します。戦争に敗れた南部は、北部で発展した資本主義経済に組み込まれ、合衆国は南北合わせて独自の経済圏を形成していくことになるのです。

地主による支配
 ラテンアメリカでは、スペイン支配の下でクリオーリョと呼ばれる白人地主階級が、先住民であるインディオを農奴として使役していました。しかしイギリスを中心とした世界的な資本主義経済が発展する中で、クリオーリョたちは商品作物の自由な取引を求めるようになりました。また、クリオーリョはインディオの反抗を恐れたため、スペイン本国からの規制を離れて、インディオに対する支配の強化を望んでいました。こうしたことを背景に、19世紀前半には、ラテンアメリカ諸国が次々と独立を達成し、独立した国々の多くが、市場・原料供給地としてイギリス経済に組み込まれていくことになったのです。

 このように、イギリスやアメリカ大陸では、地主による土地支配が確立していきました。すなわち、イギリスでは農業労働者によるジェントリの支配が、アメリカ合衆国南部では奴隷制によるプランテーションが、ラテンアメリカ諸国では農奴制によるクリオーリョの支配が確立しました。それぞれ労働の形態は異なりますが、それぞれの地域に最も適合した効率的な生産が行われ、イギリスを中心とする近代世界システムに、しっかりと組み込まれて行ったのです。

付録.ハイチの悲劇

2010年に大地震に見舞われたカリブ海の島国ハイチは、1804年にフランスから独立し、2004年に独立200周年を迎えました。高校の「世界史」の教科書でも、ハイチは「中南米最初の独立国」「黒人による独立国家」として特記されていますが、その後教科書での記述はまったくなく、今日では「世界の最貧国の一つ」に数えられ、世界から「忘れ去られた国」となっています。何故ハイチはこのような状態になってしまったのでしょうか。

 


 コロンブスの到達後にスペイン領となったイスパニョーラ島のうち、17世紀末に西側がフランスに割譲されてサンドマングと命名されました。これが後のハイチです。フランスはスペインによって絶滅させられた先住民に代わって、アフリカから黒人を強制連行して奴隷労に従事させ、サトウキビなどの輸出用作物を栽培しました。その結果、人も作物も完全に入れ替わり、社会経済構造も黒人奴隷制、プランテーション、モノカルチャーに基づくまったく新しい社会ができあがり、「カリブ海の真珠」と呼ばれるほどフランス経済の発展に貢献したのです。

ところが本国フランスで革命が勃発すると、1791年黒人奴隷が暴動を起こしました。「人権宣言」は植民地の奴隷問題を想定していませんでしたから、革命政府の対応は混乱しました。さらに、ナポレオンによる抑圧的な政策に対して、1804年に黒人たちは独立を宣言し、1806年に憲法が制定されて共和制が採用されました。ここに、史上最初の黒人共和国が誕生したのです。そして、これをきっかけにラテンアメリカ諸国の独立運動が本格化し、独立後の中南米諸国はイギリスを中心とする近代世界システムの一環に組み込まれていったのです。

ハイチの森林破壊

一方、その後のハイチの歴史は苦難の歴史でした。「ハイチ」という国名が現地語で「山の多い土地」を意味しているように、この国は資源に恵まれず、経済的に困窮しました。しかも、武力による黒人国家の独立は周辺諸国の地主階級を震撼()させたため、ハイチは独立後国際社会から排除されてしまいました。ハイチが友好関係の構築を最も望んだアメリカ合衆国は、国内に黒人問題を抱えていたため、黒人奴隷によるハイチの独立を承認せず、ハイチを孤立させました。また、中南米諸国は、白人地主であるクリオーリョが主導権を握って独立を達成したため、インディオの反乱を恐れてハイチとの交流を拒否しました。
 こうして、ハイチは国際的に孤立し、まさに完成されようとしていた資本主義的世界経済システムの圏外に追いやられ、国内では権力闘争と独裁政権の成立が相次ぎ、「世界から忘れられた国」となっていったのである。


≪映画≫


オリヴァートゥイスト
2005年 フランス・イギリス・チェコ
これは、1837年にイギリスの作家ディケンズが発表した小説を映画化したものです。この小説は、孤児オリバー・トゥイストが、いじめられたり、盗賊の手先につかわれるなど、世間の荒波にもまれるが、純真で善良な性質をうしなわず、人々の愛情によって最後は幸運にめぐまれる、という物語です。ディケンズは、この孤児の苦闘をとおして、19世紀の初め、産業革命期の悲惨な下層階級の子供たちの姿をえがきだしています。大英帝国の繁栄に苦しめられていたのは植民地の人々だけではなく、イギリス国内の圧倒的多数の大衆も苦しめられていたのです。
 

レミゼラブル 
1998年 アメリカ
これは、フランスのヴィクトル・ユーゴーの小説を映画化したものです。「レミゼラブル」は、一切れのパンを盗んだため19年間も投獄されていたジャン・ヴァルジャンの数奇な運命を描いた長編小説で、フランス革命からナポレオン戦争を経て、1830年の七月革命に至るまでのフランスの歴史的な背景が描かれるとともに、この時代の虐げられた人々の悲惨な生活も描き出されています。この小説は膨大な量ですが、映画では130分強にまとめられており、この時代のフランスの社会や政治を知る上で、大変役に立つ映画です。






 


わが谷は緑なりき
1941年 アメリカ
19世紀末のイギリス・ウェールズ地方のある炭坑町を舞台にして、炭鉱労働者の一家の物語です。男たちが皆働いているモーガン一家の人々を主人公にした人間ドラマです。

















ジェルミナル
1993年 フランス
文豪エミール・ゾラの『ジェルミナール』を映画化したものです。19世紀末の北フランスの炭坑夫たちと機械工、労働者階級の対立と暴動、そして彼らを支える労働者の家族の苦悩を描いています。

 











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