2014年1月9日木曜日

第27章 社会主義の挑戦




1.社会主義とは何か

2.ロシアの歴史

3.ロシア革命とソ連邦

付録.歴史写真のトリック




 
 
 






1.社会主義とは何か

 
戦後の社会主義国家


 20世紀には、社会主義(共産主義)国家の存在が歴史に大きな影響を及ぼしました。第一次世界大戦の末期に、最初の、そして巨大な社会主義国家であるソヴィエト社会主義共和国連邦=ソ連が誕生し、さらに第二次世界大戦後には、中国に中華人民共和国という社会主義国家が誕生しました。この2カ国だけでも、面積にしてユーラシア大陸の4分の3に及び、東欧や北朝鮮を含めれば、13世紀のモンゴル帝国をこえる領域が社会主義化したのです。
 
 ヤルタ会談とマルタ会談
ソ連邦の崩壊

では「社会主義」あるいは「共産主義」とは何でしょうか。広辞苑は次のように説明しています。社会主義について、「生産手段の社会的所有を土台とする社会体制、およびその実現を目指す思想・運動。狭義には、資本主義に続いて現れるとされる共産主義社会の第1段階を指す。」共産主義については、「私有財産制の否定と共有財産制の実現によって貧富の差をなくそうとする思想・運動。…主としてマルクス・エンゲルスによって体系づけられたものを指す。」大変分かりにくい説明なので、もう少し具体的に説明すると、次のようになります。

 18世紀の末に起こったフランス革命は、自由・平等と所有権の不可侵を掲げ、これを新しい市民社会の原理としましたが、その後に生まれた19世紀のヨーロッパ社会は、自由主義の時代であり、所有権の不可侵が強調された時代でした。この二つの原理は、資本主義的な利益追求の原理と結びついて、19世紀ヨーロッパの資本主義経済の発展を促す原動力となりましたが、同時にはなはだしい不平等を生み出し、大きな社会的問題となりました。際限もない自由な競争により、富を所有するものは、ますます富を増やし、富を持たざるものは、ますます貧しくなります。こうしたことから、不平等の原因は「所有」にあると考えられるようになったのです。だとすれば、平等を実現するためには、所有を制限するか、あるいは否定すればよい、という考え方が生まれてくるわけです。これが、社会主義や共産主義の思想です。しかし所有の否定や平等の追及は、同時に自由を制約することになります。したがって、資本主義か社会主義かという選択は、自由か平等かという選択でもあるのです。
 
 国家の内部に不平等が存在すると同時に、国家間にも不平等が存在します。近代世界システムにおいては、法的には主権国家体制という国家間の平等のもとに、経済的には垂直的な支配と従属関係が存在します。そして、ヨーロッパでもっとも後進的な国の一つロシアで、最初に社会主義政権が成立し、資本主義経済を基盤とする近代世界システムに挑戦したのです。

2.ロシアの歴史
 キエフ公国
 
     

モスクワ大公国
  ロシアの歴史をヨーロッパ史の枠組みの中でとらえることはできません。ロシアは、9世紀にスラヴ人地域に侵入したノルマン人によって建国されキエフ公国が起源で、ビザンツ帝国の影響を受けてキリスト教に改宗しましたが、民衆にまでキリスト教が浸透したのは1415世紀頃とされます。13世紀からモンゴル人支配下に入り(キプチャクハン国)、その間にロシア人は、モンゴル人とは異なるアイデンティティとしてキリスト教徒=ギリシア正教徒であることを自覚するようになったのだとされています。15世紀末にモスクワ大公国がモンゴルの支配から自立しますが、17世紀頃までのロシアは、南のオスマン帝国や東の明帝国と並ぶアジアの国家の一つでした。つまりロシアは、モンゴル帝国の継承国家の一つだったのです。この間に、ロシアはヨーロッパで形成された近代世界システムの一環に組み込まれ、他の東欧諸国と同様に、農奴制を基盤とする輸出用の穀物生産地として西欧に経済的に従属することになります。
 しかし、ロシアが他の東欧諸国と異なっていたのは、西アジアや東アジアと直接領域を接し、さかんに交易を行っていたという点です。つまりロシアは、西欧に経済的に従属する後進的なロシアと、アジアの国家としてのロシアという、二つの顔をもっていたのです。そのおかげで、ロシアは近代世界システムに全面的に組み込まれることはなく、別のシステムを形成する可能性をもっていたわけです。17世紀に成立したロマノフ朝のロシアは、18世紀以降、急速に西欧に接近し、ヨーロッパの一員となることを目指しましたが、相変わらずもう一つのロシアは厳然として存在し、絶え間なく南方や東方に領土を拡大し続けていました。
 

ピョートル大帝
エカチェリーナ2世により建設されたこの銅像は、ペテルブルクのバルト海に瞑する場所にあり、ピョートル大帝は、馬の後ろ足で大蛇という無知蒙昧を踏み潰し、西欧に向かって駆け上ろうとしています。
 









18世紀のロシア帝国(ロマノフ朝)
18世紀初頭にピョートル大帝によって建設されたペテルブルクは、西欧への窓口であり、この都市を通じてロシアはヨーロッパ世界の一員となるための努力を積み重ねていきました。しかし、同時にピョートル大帝は、黒海沿岸やカスピ海沿岸にまで進出し、その結果インドやアルメニアの商人が多数ロシアを訪れるようになりました。さらに、中国との間でネルチンスク条約を締結して国境を画定するとともに、交易も盛んに行うようになりました。ピョートル大帝以降も、ロシアの南方・東方への進出は続き、日本にも通商を求めてしばしば使節を派遣しました。そして、このような広大かつ多様で、しかも絶え間なく拡大するロシア帝国を、一人の専制君主が支配したのです。
 
 19世紀に近代世界システムの覇権国家となったイギリスにとって、ロシアは常に潜在的な脅威でした。確かにロシアは、工業力においてイギリスに遠く及ばず、社会においては相変わらず前近代的な農奴制が存在していました。ほとんどの人々に政治的自由はなく、皇帝はギリシア正教の首長として、前近代的なイデオロギーによって人々を支配していました。しかし、ロシアは、バルカン半島に南下して、イギリス経済の生命線ともいうべきインド航路を脅かし、中央アジアからアフガニスタンに南下してインドを脅かしました。さらに20世紀になると、ロシアはシベリア鉄道を建設して極東にその長い手を伸ばし始めました。こうしてイギリスは、ついにロシアを完全には近代世界システムに組み込むことができなかったのです。

3.ロシア革命とソ連邦

レーニン

















スターリン


 ロシアでは、第一次世界大戦の敗戦が続く中で、その内部矛盾が限界点を越え、1917年に起きた二度の革命で、レーニンらが指導するボリシェヴィキにより、ソヴィエト政権が成立しました。しかしソヴィエト政権は、内乱や列強による干渉戦争などで、厳しい試練に直面しました。ソヴィエトの期待は、ヨーロッパ全体で社会主義革命が起きることでしたが、その期待は実現しそうになかったため、一国のみで社会主義建設に取り組まねばなりませんでした。
 まず、工業を発展させるためには、都市労働者のために食糧を供給せねばならなりません。そこで農民から食糧を強制徴発すると(戦時共産主義)、農民は生産ボイコットで抵抗したため、経済が荒廃しました。そのため新経済政策を打ち出し、農民に定率の現物税を課し、余剰を市場で販売することを認めました。ところが農民は、安い調達価格で穀物を売りたがらなかったため、食料の調達はますます困難となりました。こうした中で、ソヴィエト政権は、工業化を推進するために農村を犠牲にする道を選択したのでかる。すでにレーニンは死に、激しい権力闘争の末にスターリンが独裁権力に握りつつあった時代でした。
 
 1928年に始まった第一次五カ年計画では、農民の抵抗を残酷に弾圧しつつ、農業の集団化が進められました。また急激な工業化は、工業労働者に劣悪な労働・生活条件を強いることになりました。そのため、人々の生活は革命以前より悪くなったとさえいわれています。これは、平等社会を目指すという本来の社会主義の精神からの逸脱でした。今や人々の安らかな生活より、国家的利益が優先されることになったのです。
 しかしながら、こうした内部事情は覆い隠されていましたから、ソ連の外部の人々は、ソ連における工業生産力の急速な成長に目を見張はりました。とくに1930年代は、恐慌により世界中の経済が混乱していた時期だっただけに、多くの人々が社会主義に期待を寄せるようになりました。また、ヨーロッパの植民地支配に苦しめられていたアジアやアフリカの人々の中にも、社会主義に目をける人々が現れ、民族運動と社会主義が結びつくようになり、中国の毛沢東やヴェトナムのホー・チ・ミンなどのような優れた指導者が生み出され、その後の民族運動に大きな影響をあたえることになりました。
一方、自由主義に基づく資本主義経済を信奉する人々は、こうした情勢に不安を抱き、ソ連と社会主義を敵視しました。そのため、社会主義を敵視するファシズム運動が生まれ、それが新たな国際対立を引き起こし、第二次世界大戦という破局を迎えることになったのです。しかし、同時に、国内の不平等に対処するため社会政策を実施せざるをえず、自由主義に基づく資本主義経済を前提としつつも、社会主義の原理を導入するようにもなりました。すなわち、ソ連の存在は、資本主義諸国にも大きな影響を与え続けたのです。
 第二次世界大戦が終結し、アメリカ合衆国が世界経済の覇者となったとき、そのアメリカの前に立ちはだかったのがソ連でした。ここに半世紀およぶ米ソ冷戦の時代が始まることになります。そして1989年に冷戦の終結宣言が行われ、1991年にはソ連で共産党が解散され、ソ連邦自身も崩壊したのです。社会主義国家ソ連の存在が歴史上何を意味したのかについて正しく評価するには、なお多くの時間を必要とするでしょうが、ソ連の存在が20世紀の世界に大きな影響を与えたことは、間違いないことです。

付録.歴史写真のトリック

ブラディ撮影の南北戦争の将軍
 写真機は、すでに19世紀前半に実用化され、19世紀後半には、単に肖像や風景だけではなく、歴史的な瞬間をとらえる写真も撮影されるようになっていました。アメリカのブラディは、南北戦争中に戦闘場面など3600枚もの写真を残し、記録としての写真の重要性を世に示しました。

 しかし、写真は、歴史的な瞬間をあるがままにとらえることができると同時に、多くの危険性もはらんでいます。第一に、写真は、ある瞬間を前後や周囲の背景を無視して切り取ってしまうため、かえって誤解を生み出す可能性があります。一瞬の場面から切り取られプリントされた写真は、その瞬間から一人歩きを始め、本来の場面とは異なったイメージで解釈されることが多いのです。第二に、写真は改竄(かいざん)・合成される可能性があるとうことです。とくに政治的な意味をもった写真は、特定の政治的な意図をもって改竄・合成されることが、しばしば行われています

演説するレーニン(1)
















演説するレーニン(2)

















 とくに有名な写真は、ロシア革命時代のもので、レーンが演説している場面を写した写真です。本来の写真は、レーニンが演説している演壇の下にトロツキーが写っていたのですが、やがてこの写真からトロツキーが消えてしまうのです。トロツキーは、レーニンの死後、スターリンとの権力闘争に敗れてロシアから追放され、やがてスターリンの放った刺客によって暗殺された人物で、スターリンの独裁が進む中で、写真からも抹殺されていったのです。

親密なレーニンとスターリン
 また、レーニンは1924年に死亡しますが、その2年前にスターリンとレーニンが仲むつまじく語り合っている場面が撮影され、1930年代に公表されました。この写真は合成写真であることが判明していますが、このような写真を合成してまでスターリンがレーニンとの「親密な関係」を誇示しなければならなかった理由は、「レーニンの遺書」と呼ばれるメモの存在にあります。このメモの存在は長く秘密にされていましたが、現在では公表されており、次のように書かれています。「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者同士の関係では十分に我慢できるのだが、書記長の役目についた場合には耐えがたいものになる。」スターリンは、このメモの存在を否定するために、このような合成写真を必要としたのです。
 このように、歴史写真は、しばしば改竄され、合成されて、歴史の真実を覆い隠す役割も果たしてきたのです。




≪映画≫

バトル・キングダム 宿命の戦士たち
2010年 ロシア
時代背景は、キエフ公国のウラディミル1世がギリシア正教に改宗してキリスト教を受け入れ、ようやくロシアがその原型を形作り始めた時代です。ウラディミル1世の子ヤロスラフが、無法地帯だった蛮族と戦いながら、町を建設するという物語です。ロシア史の中では、最も初期の時代を扱った映画です。製作年の2010年は、彼が活躍してから、ほぼ1000年がたちます。









アレクサンドル・ネフスキー
1962年 ソ連
アレクサンドル・ネフスキーは13世紀のロシアの英雄で、ドイツ騎士団やポーランド軍の侵入を、ネヴァ川の戦いで撃退します。ネヴァ川の氷上の戦いは見ものです。
なお、製作年の1962年は、ソ連によるベルリンの壁構築の翌年です。













隊長ブーリバ 
1962年 アメリカ合衆国イワン雷帝
これは、ロシアの作家ゴーゴリの作品を映画化したもので、コサックの隊長ブーリバの戦いを描いたものです。コサックはウクライナや南ロシアの草原地帯に住む共同体、あるいは軍事集団で、ここで扱われているのはウクライナのコサックです。16世紀のウクライナは、南からオスマン帝国の侵入を受け、北からは当時東欧で最強の国家だったポーランドの侵入を受けます。コサックの隊長ブーリバはポーランド軍を撃退し、ウクライナを自由の土地とします。
しかしウクライナは18世紀にロシア帝国に支配され、以後ロシア帝国による厳しい収奪を受けますが、1991年にソ連邦の崩壊にともなって独立国家となります。






イワン雷帝
1946年 ソ連
イヴァン4世(雷帝)は、16世紀のロシア=モスクワ大公国の君主で、残虐な専制君主として知られています。当時ロシアでは貴族が大きな力をもっており、イヴァン4世(雷帝)は貴族を徹底的に弾圧し、強力な国家の樹立を目指しました。
この映画は、エイゼンシュテイン監督の映画で、スターリンを暗に批判していたため、上映禁止となりました。








女帝キャサリン
1995年 ドイツ
これは、ドイツのテレビ番組用に製作された映画で、18世紀後半のロシア帝国の女帝エカチェリーナ2世(英語名キャサリン2)を描いています。
 エカチェリーナは、ドイツの小貴族の家に生まれましたが、フランス語にも堪能な知性豊かな女性として育ちます。彼女は14歳のときロシアの皇太子ピョートルに嫁ぎますが、ピョートルには知的障害があったとされ、不幸な結婚生活を送ったようです。やがてピョートルが皇帝となりますが、彼は政治的に無能だったため、エカチェリーナは自らクーデターを起こして皇帝を倒し、女帝となります。彼女は政治家としては有能で、その後のロシアの発展に大きな役割を果たしますが、男女関係も相当派手だったようです。
 この映画はテレビドラマ用に製作されたものなので、あまり出来がよいとはいえず、何を訴えたいのかもよく分かりませんでした。しかし、ロシアの歴史に大きな役割を果たしたエカチェリーナ2世が、どのような女性であったのかを知るのには役立ちます。

オネーギンの恋文 
1999年 イギリス
これは、19世紀前半に活躍したロシアの文豪プーシキンの小説を映画化したものです。プーシキンはロシアの大貴族の家に生まれましたが、政治的に過激な作品を発表し続けたため、ロシア政府の監視下におかれます。そして37歳の時、決闘で死亡します。
 プーシキンの作品は、表面的には単なる恋物語で、間接的にロシア社会の矛盾を描き出すものが多く、この「オネーギンの恋」も、まったく労働することのない当時のロシア貴族階級の退廃をよく描き出しています。
 







 
エルミタージュ幻想 
2002年 ロシア・ドイツ・日本
 エルミタージュ美術館は、もともとロシアのサンクト・ペテルブルクに宮殿として建てられたもので、部屋の数は1500室に及び、建物自体が美術品となっています。コレクションとしては、先に述べたエカチェリーナ2世が大量の美術品を購入したことに始まり、今日コレクションの総数は270万点に及ぶそうです。
 映画は、美術館の各部屋を案内する過程で、過去と現在とを往復しつつ、ロマノフ王朝の歴史を回顧しています。ロマノフ王朝の歴史についてある程度予備知識がないと、内容についていけない可能性がありますが、エルミタージュのコレクションと歴史が時空を超えて幻想的に映し出されており、観る価値の映画です。






戦艦ポチョムキン 
1925年 ソ連 エイゼンシュテイン監督
この映画は、1905年、日露戦争中に起きた戦艦ポチョムキン号の水兵の反乱を描いたもので、映画史上不朽の名作と言われているものです。
 ロシアは日露戦争で敗北を重ね、国民の不満が高まり、この年の初めに起きた血の日曜日事件をきっかけに、全国でストライキや暴動が起きていました。一方、戦艦ポチョムキン号では、仕官の横暴や待遇の悪さ対して下級の水兵たちの間で不満が広がっていました。そしてポチョムキン号が港の近くに停泊していたとき水兵が反乱を起こし、戦艦を乗っ取ってしまいます。そして水兵たちは「我らに合流せよ」という旗を掲げて港に入ると、市民たちが大歓迎して受け入れます。
 この事件は実際に起きた事件で、この反乱自体は失敗に終わりますが、その後のロシア革命に大きな影響を与えることになります。この映画は、共産主義的であるという理由で各国で検閲を受け、日本では上映禁止となりました。また、製作されたソ連でも、スターリン時代に一部がカットされということです。
 この映画は、映像技術的にも画期的だったようで、ここで用いられた手法が、その後の色々な映画で用いられました。例えば、乳母車が階段から落ちる場面がありますが、これは、日本の新撰組「池田屋事件」の「階段落ち」の場面で用いられたそうです。

ロマノフ王朝の最後 1982年 ソ連     ニコライとアレクサンドラ 1971年 英


 アナスタシア 1997年 アメリカ
 
この三本の映画は、ロシア革命の前後の時代を描いた映画です。当時のロシアでは、300年もの間ロマノフ王朝が続いており、相変わらず専制政治が行われ、宮廷は腐敗・堕落し、社会矛盾はもはや忍耐の限度を超えていました。したがって、革命が起きるのは当然の結果だったといってよいでしょう。
 「ロマノフ王朝の最後」は、こうした時代に登場した怪僧ラスプーチンの物語です。事の起こりは皇太子の病気にあります。皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラとの間には5人の子どもがいますが、後継者となる男子は一人しかおらず、しかもこの子が血友病だったということです。血友病は母方から遺伝することが多い遺伝病で、根治する方法がありません。そのため、皇后は藁にもすがる思いでラスプーチンの祈祷に、皇太子の治癒の望みをかけたのです。その結果、皇后はラスプーチンの言いなりになり、ロシアの政治をさらに混乱させたとされています。
 しかし、ラスプーチンのような怪僧は、ロシアの歴史上しばしば登場しますので、特に珍しい分けではありません。また、実際にラスプーチンが政治に影響を与えたかどうかも分かりません。ただ、ラスプーチンは、ロマノフ王朝末期の退廃を象徴する人物として語り継がれていったのだろうと思います。 
「ニコライとアレクサンドラ」は、内容的には「ロマノフ王朝の最後」と重なっています。こうした混乱の中で、やがてロシア革命が起き、皇帝は退位を余儀なくされ、家族全員がシベリアに送られて、そこで処刑されます。巨大なロシア帝国の専制君主も、最後は普通の父親として死んでいきました。
 「アナスタシア」は、ロシア革命の勃発から始まります。アナスタシアはニコライ2世の第4女で、ロシア革命により家族とともに処刑されます。17歳の時でした。ところが、一つの噂が広がりました。革命の混乱の中で、アナスタシア一人が逃亡し、外国に亡命したという噂です。その後、自分がアナスタシアであるという人物が多数現れますが、今日ではアナスタシアの死亡はほぼ間違いないと考えられています。
 したがって、この映画は「噂」に基づいた物語です。アナスタシアは、色々な変転の後に、ラスプーチンと対決し、これをやっつけます。この映画を観ていると、ラスプーチンが悪の共産主義であり、最後に正義のアメリカがこれを倒す、といった印象を受けました。しかし、これはアニメですので、あまり深く考える必要はないでしょう。



ドクトル・ジバゴ
1965年 アメリカ・イタリア
 これは、ロシアの作家ボリス・バステルナークの小説を映画化したものです。この小説はソ連では発表できなかったため、イタリアで発表されました。
 この映画は、詩人にして医者でもあったドクトル・ジバゴが、ロシア革命の混乱の中で生き抜いていく姿を描いています。ロシア革命の負の側面を知るのに役立つ映画です。












グッバイ、レーニン!
2003年、ドイツ

ドイツは第二次世界大戦後分割占領され、東ドイツはソ連の占領下で社会主義国家の建設を強制されます。そしてこの映画の舞台は、社会主義政権の崩壊直前の東ドイツです。
 主人公のアレックスは社会主義に反対していましたが、彼の母親は筋金入りの愛国者でした。そしてある時、母親はアレックスが社会主義反対デモに参加しているのを目撃し、ショックで心臓発作を起こして昏睡状態になります。その間に社会主義政権は崩壊し、町の風景も一変してしまいます。そして8ヵ月後に母親は奇跡的に目覚めます。アレックスは母親にショックを与えないため、あらゆる方法を使って事実を知られないように偽装工作を行いますが、実は母親はすでに事実を知っており、それを隠そうとした息子の優しさに感謝しながら死んでいきます。
このように、さまざまな人々が、さまざまな思いを抱いて、社会主義政権の崩壊の日を迎えたのです。





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