2014年1月10日金曜日

第4章 交易の始まり





1.農耕か交易か

2.メソポタミア交易ネットワークの形成

3.エジプトと東地中海世界

4.地中海東岸の諸民族






1.農耕か交易か


 一般に「世界史」の教科書では、近代以前の多くの分野で、「農業生産の増大が、余剰生産物を生み出し、それを交換する商業=交易が発生した」と記されています。つまり、最初に「農業ありき」なのです。「世界史」で教えられる「四大文明」の発生についても、大河流域における灌漑農業の発生が文明を生み出した、と説明されています。しかし、本当に商業=交易の発生は、農業の発生の後なのでしょうか。もちろん、何をもって「農耕の発生」といい、何をもって「商業の発生」というかは、さまざまに議論がありますが、ただ言えることは、農業を基盤とする経済体制は、常に領域支配を伴うのに対し、商業=交易は都市の発展とネットワークの形成を生み出すということでする。

黒曜石は、ガラス質で切れ味かよく、加工もしやすかったことから、金属が登場する以前には重要な資材でした。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 定住農耕は、今から1万年ほど前のメソポタミアで発生したと考えられています。ところが、すでにそれ以前にも交易は行われていた。人類が定住農耕を開始した頃は新石器時代に入っていましたが、すでに旧石器時代に黒曜石を使った剥片石器が使用されていました。黒曜石とはガラス質の火山岩で、産地が限られるため、かなりの遠方から入手せねばならなりません。おそらく、人類の最初の交易は、この黒曜石の取引によって発生したと考えられます。

2.メソポタミア交易ネットワークの形成

 前3千年頃ティグリス・ユーフラテス川流域に、最古の農耕文明とされるシュメール文明が発生しました。この文明について、教科書では、大河の流域に神殿を中心とする都市が発生し、その周辺で灌漑農業が営まれ、大規模な灌漑を行うために強大な権力が形成された、と説明されています。ところが、最近の研究では大規模な灌漑が行われるのは、もっと後の時代であることが明らかとなりつつあり、ウル・ウルクなどの都市は、むしろ交易の場であったと考えられています。もともとメソポタミア地域は天然資源に乏しく、黒曜石・青銅・木材・石材・金銀など文明の発展に不可欠な品物を産出しないため、これらを外部から獲得しなければなりませんでした。しかし外部から獲得するためには、その対価となる商品が必要でした。そして、この地方の商品は穀物を中心とする農産物や粘土による土器などしかなく、このことが大規模な灌漑農業を行う原因となった、と考えられます。

シュメール人の交易

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
当時のロータルの想像図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
加工れたラピスラズリ 
星のきらめく天空の破片と呼ばれました。生活必需品だけでなく、奢侈品も交易されました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 当時メソポタミアには、石材、木材、黒曜石・金・銀・銅・錫などの鉱石、トルコ石・ラピスラズリ・象牙などの装飾品、乳香などの香料、海産の貝など、きわめて多様な商品が流入しました。これらの商品は、紅海、アラビア、地中海、アナトリア、イラン高原など、きわめて広くかつ遠方の地域から運び込まれており、紀元前3千年頃にはすでに広範囲に及ぶ交易ネットワークが形成されていました。さらに、インダス文明との交易も知られており、グジャラート地方のロータルには海港都市の遺跡も発見されている。今やメソポタミアでの生活は、こうした交易なしには成り立たなかったし、同時にメソポタミアの発展は西アジア全域の交易活動を刺激し、各地の社会の発展も促した。一方、遠方からの原材料を加工する職人も形成され、都市内部は商人や職人などが活動する活気にあふれた社会が成立していたと思われ、当時のウルクには2万から4万人もの人が住んでいたと推定される。
 

古バビロニア王国
「肥沃な三日月地帯」のほぼ全域を支配し、西は地中海に、東南はペルシア湾につながります。都のバビロンは、ティグリス川とユーフラテス川が最も接近する地域にあり、交通の要衝です。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バビロンの想像図 
マルドゥク神殿を中心とした地域で、ユーフラテス川を挟んで両岸にひろがっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 こうした交易ネットワークの形成は、やがてネットワークの主要部分を支配しようとする勢力を生み出すことになります。紀元前18世紀、すでにシュメール人が最初の都市文明を生み出してから1千年以上が経過していますが、セム系アムル人がバビロンを中心に古バビロニア王国を建設し、シュメール世界を政治的に統一しました。バビロンは、ティグリス川とユーフラテス川が接近する交通の要衝にあり、ハンムラビ王は、道路や運河を整備してネットワークの形成に努め、さらに共通語を定めるとともに、ハンムラビ法典を編纂してメソポタミア世界に共通の秩序をもたらしました。この時代のメソポタミアでは、大ネットワークを背景に都市と都市、都市と諸地方の間で活発な交易が行われるとともに、商業のあり方も大きく変化してきました。この時代には王権が商業に関わることはあまりなく、独立した商人や金融業者が登場し、民間企業としての交易が本格的に発展してきました。ハンムラビ法典には商法に関する条項も含まれており、このことは当時私的取引が大発展していたことを示している。

*ハンムラビ法典

  代理人が利益をあげなかったときには、大商人に借りた金の2倍を返す。盗賊に商品を奪われたときには、責任は負わなくてよい。代理人が商人に元手を借りているのをごまかしたときには、元手の三倍を支払い、大商人が代理人から利益の配分を受けているのをごまかそうとしたときには、受け取り分の6倍を罰金として支払わねばならない。

3.エジプトと東地中海


 エジプトも、メソポタミア同様に農作物以外にはほとんど資源のない地域であり、そのため早くから交易が発展しました。すでに紀元前7千年頃には、ナイル川と東地中海を結ぶ交易が行われており、ここでも最初の交易品は黒曜石だったと考えられます。エジプトは周囲を砂漠に囲まれているため、地中海に向かって流れるナイル川が唯一の交通路であり、その延長線上にクレタ島やレバノンなど東地中海地域が広がっているのです。



 
 
 
 
クフ王の船
乾燥した地域のため、5千年近くも保存されました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 紀元前4千年頃にはすでに帆船が登場しており、紀元前27世紀のクフ王のピラミッド付近で、長さ約43メートル、幅約6メートルのレバノン杉製の船が、解体された状態で発掘されました。この船はファラオの遺体を運ぶためのものと推定されますが、この他にもピラミッド建築の石材を運ぶために多くの船を必要としました。そして、造船のためには大量の木材が必要とされるため、フェニキア人を通じてレバノン杉が輸入されました。メソポタミアのバビロニア王国などとは異なり、エジプトの交易は国家管理のもとにおかれていましたが、実際に交易を担ったのは東地中海地域の商人たちで、都には多くの外国人商人が到来しました。


オリーブ
 オリーブ油の原料となるオリーブは乾燥した石灰質の土地でもよく育ち、地中海沿岸の特産品です。今日でも、世界のオリーブ生産量の98パーセントがこの地域で生産されています。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こうした交易を背景に、前3千年頃には東地中海地域の交易が非常に活発となり、この地域にエーゲ文明が成立することになります。東地中海地域は穀物生産に不向きなため、オリーブ油やワインを生産し、これを穀物と交換する交易を発展させ、その結果、前1500年頃にはミケーネが東地中海交易を支配することになりました。

ハトシェプスト
15世紀頃にファラオとなった女性で、古代エジプトの唯一の女性ファラオです。平和外交でエジプトを繁栄に導きます。また、川に流されていた赤子のモーセを拾って育てたのも、彼女ではないかとされています。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2000年頃になると、エジプトは紅海にも進出し、イエメンから乳香などの高価の香料を輸入しました。紀元前15世紀頃、トトメス3世の摂政だったハトシェプスト女王が、5隻の外洋船を使って紅海交易を行っていたことが、知られています。さらにエジプトは、交易と文明の十字路といわれたシリアにも進出し、ここにエジプトとメソポタミアの交易圏がリンクすることになります。しかし、エジプトはアナトリア(小アジア)からこの地に進出したヒッタイトと激しく争うことになりました。

4.地中海東岸の諸民族



 シリアという地域は、今日のレバノン・シリア・イスラエルなどを含む地中海東岸地域を指していました。この地域は、アナトリアとエジプト、メソポタミアとエジプト・地中海を結ぶ交通の要衝で、古くから交易が発達していました。そのため、2千年紀の半ばにこの地域にエジプトとヒッタイトが進出し、両者はこの地域を巡って激しく争います。ところが、前12世紀頃に「海の民」と呼ばれる多様な民族集団が東地中海地域に進出し、これによりヒッタイトが滅亡するとともに、エジプトも衰退し、両勢力がシリアから後退します。その結果シリアに権力の空白が生まれ、その空白地帯でアラム人・フェニキア人が交易活動によって繁栄するようになります。

 

















ダマスクス
 3000年以上の歴史をもち、現存する世界最古の都市の一つとされています。レバノン東部山脈の山麓にあって、古くから交通の要衝として栄え、歴史の様々な時代に重要な役割を果たしてきました。










 アラム人はセム系の遊牧民だしたが、彼らがそれまでの遊牧民と異なっていたのは、史上はじめてラクダの遊牧を行ったことです。やがて彼らはラクダを使った隊商貿易を行うようになり、シリアに進出してダマスクスなどの都市国家を建設しました。この間、アラム人はオリエント内陸部を結ぶ隊商貿易網を確立し、オアシスをもとにした隊商都市と商習慣、とりわけ交易のための共通語としてのアラム語を広めました。その経済圏は、エジプトからイランに及び、オリエント全域にかつてなく経済的浸透をなしとげ、その後の西アジアの歴史に大きな影響を及ぼすことになります。


ティルスの遺跡
ティルスは、フェニキア人の都市の内最も栄えた都市でしたが、前4世紀にアレクサンドロス大王に抵抗して滅ぼされました。


 
 
 
 
 
 
 
 
 シリア海岸にはカナン人が住んでおり、古くから地中海貿易が発達していた。この地はオリエント内陸部の隊商ルートの終着点であり、そこからキプロスを通じてエーゲ海やエジプトに通じていた。この地のカナン人はフェニキア人と呼ばれるようになり、現在のレバノンの海岸地帯に海港都市を築いていった。紀元前12世紀にドーリア人の侵入でギリシア人の文明が滅びてから、紀元前8世紀に再びギリシア人が復活するまでの間、フェニキア人は地中海の主人公となったのである。
 
プールプラ(巻貝)
レバノン海岸でとれる巻貝から紫の占領が採取され  
ます。プールプラからパープル(紫色)という言葉が生
まれます。一つの巻貝からとれる染料は非常にわず
かだったので、紫の染料は非常に高価であり、高貴
色と考えられていました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
レバノン杉
森林資源の少ない中東世界にあっては、レバノン杉は、建築や造船の資材として重要なものでした。しかし伐採のしすぎで、今日ではわずかしか残っていません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フェニキア人は、レバノン杉やティルスの深紅染め布、シドンの刺しゅう、金属製品、ガラス、ぶどう酒などをエジプト、アナトリア、アフリカ、エーゲ海、さらに西地中海の国々へ輸出し、その見返りにパピルス、象牙(ぞうげ)、香料、馬、金、銀、銅、鉄、錫、などの原材料を持ち帰りました。また美術工芸にも長じ、それらの製品を東方や地中海沿岸各地に伝えました。その活動範囲は、大西洋から紅海・インド洋に及び、最初の本格的な海上ネットワークを形成していったと考えられます。やがてレバノンのフェニキア人の都市国家はギリシアによって滅ぼされますが、彼らが北アフリカのチュニジアに建設したカルタゴは、紀元前2世紀にローマによって滅ぼされるまで、西地中海における交易を支配することになる。そして、彼らが発明した文字は、やがて西方世界のすべての文字のルーツとなるのである。
こうして今や、西地中海からイランに至るまでの交易ネットワークが形成されますが、それは強力な国家権力によって形成されたのではなく、小さな都市国家の個々の商人たちによって形成されたものでした。彼らは遠く離れた地に居住し、本国と連絡をとりつつ商業活動を進めたのであり、このネットワークはそうした人々の活動の集積でした。しかし、やがてこのネットワーク全体を支配しようとする政治勢力が登場することになります。






























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