2014年1月22日水曜日

母親の社会史



この本は、フランスの歴史家イヴォンヌ・クニビレール/カトリーヌ・フーケの著書(中嶋公子・宮本由美ほか訳、1994年、筑摩書房)で、先に述べた「ハーメルンの笛吹き男」と「チーズとうじ虫」が発表されたのとほぼ同じ、1977年に発表されました。
 この本を買ったのはかなり前でしたが、読んだのは最近です。この本を読んで、私がまず感じたことは、かつてこの様な視点で歴史を考えたことがない、ということでした。私たちが学ぶ歴史は、大きな事件や特別な人々の歴史であり、それに対して社会史は普通の人々の歴史を扱おうとしているのですが、それでも男性を中心とした社会史でしかありません。もちろん歴史には女性も登場しますが、その場合も「男性に匹敵する働きをした女性」がほとんどです。また性差別=ジェンダーについての研究が多数ありますが、これも女性が男性との対比において捉えられています。しかし、考えてみれば、人間の半分は女性であり、その女性の多くが母親となります。この本を読んで、私は、人類の歴史の半分を忘れていたことに気づきました。
 「母親」とは何かという問いの答えは、当たり前のようで、それ程簡単ではありません。著者は次のように述べています。「母性の始まりと終わりはどこにあるのだろうか。初めて妊娠した若い女性はすでに母親なのだろうか。孫のために編み物をしている祖母は、まだ母親といえるだろうか。子どもをなくした母親は、母親ではなくなるのだろうか。母性に終わりはない。子捨て、子殺しをした母親は、「異常な母」、「罪深い母」とはいわれても、社会的には母親であり続ける。母親とは、いったいだれのことなのだろうか。子どもを産む女か、育てる女か。それとも子どもをかわいがり、どんなことがあっても変わらぬ愛情を持ち続けるのが、母親なのだろうか。言い換えれば、母性とは生物学的な機能なのか、社会的な機能なのか、あるいは心理的・感情的なものなのだろうか。」
 この本は、「母親」を、さまざまな側面から、多数の実例をあげつつ、歴史的にとらえています。ここでは、この本で示されたヨーロッパの母親像に関しての若干の例をあげておきます。
 ヨーロッパの女性像や母親像は、長い間、聖書の影響を受けてきました。旧約聖書によれば、神は最初の人間として男性のアダムを創造し、次いでアダムのあばら骨から女性のエヴァを造りました。つまりエヴァはアダムの一部から造られたのであり、すでにここに性差別が認められます。そしてエヴァは禁断の実を食べたことの罰として、出産の苦しみを課せられます。つまり、母となることは「罰」だったのです。またキリスト教においては、処女マリアがイエスを出産したことになっていますが、ここでは女性の性欲が否定的に捉えられています。こうした考え方が、ヨーロッパにおける女性や母親に対する考え方に大きな影響を与えてきたのです。
 19世紀のヨーロッパでは、母性本能ということが盛んに言われるようになりました。母性本能について最初に論じたのは、『社会契約論』などで有名なジャン・ジャック・ルソーです。母性本能とは、動物が誰からも教えられることなく子育てをしていることから、それが人間の母親にも適用された分けです。しかし、人間の母親を動物的な本能だけで捉えてしまってよいのでしょうか。結局、「母性本能」という考え方は、母親は家で子育てに専念すべきである、という考え方と結びつき、女性を家に閉じ込める結果となってしまいました。
 今日、少子化が進行し、これが重要な政治課題となっています。そのため出産援助金や育児援助金などについて検討されていますが、こうした政策は、人口が増えれば停止されてしまうわけで、結局人口統計上の数字を操作するための手段でしかなく、母親についての真剣な考察が欠けているように思われます。
 「母親」とは何か。私にも分かりませんが、この問題について真剣に考えてみる必要があることを、この本は私に教えてくれました。


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