2014年1月10日金曜日

現代中国の映画を観て

現代の中国映画を続けて2本観ました。「山の郵便配達人」(1999)と「初恋のきた道」(2000)です。この2本の映画は大変よく似た雰囲気の映画で、同じ監督の作品かと思ったほどです。
「山の郵便配達人」
年老いた郵便配達人が、背中にたくさんの郵便物を背負い、1日何十キロも歩き、3日間かけて、湖南省の山奥の住民に郵便を配達し、また村々で郵便を受け取って帰ってきます。主人公は、こうした生活を何十年も続けており、山奥の人々にとっては、彼がほとんど唯一の「世間」との繋がりとなっています。この間に、彼はある村の一人の少女に恋をし、結婚して男の子を得ますが、父親はほとんど家にいることはありませんでした。それでもこの家族は穏やかで幸せな生活を送っていましたが、この郵便配達人も歳には勝てず、この仕事を続けることが難しくなってきました。そうした中で、息子が仕事を受け継ぐことを決意し、やがて父が辿った山道(それは「人生」というべきでしょうか)を歩き始めることになります。
 この映画は、話しとしては「出来すぎ」であり、労働を賛美する社会主義国家の意思が反映されていると言えなくもありませんが、湖南省の山奥の美しい景色が映し出され、また人と人との深い繋がりが描かれているため、大変に心和む映画でした。



「初恋のきた道」
 この映画は、華北の農村で一人の年老いた教師が死に、都会から駆けつけた息子と母親とが対面する場面から始まります。この部分はモノクロで映され、以後この教師と妻との出合いの思い出が、カラーで描かれます。
 ある時、町から一人の青年が教師として村にやってきます。彼が来た道は、この村の唯一の出入り口です。その村の一人の少女が、この青年を一目見たときから好きになり、彼のためにひたすら料理を作ることで、彼に自分の気持ちを表現し、やがて教師も彼女の気持ちに気付いて愛し合うようになります。しかし、まもなく彼は町に呼び戻され、必ず帰ると言って村を去っていきます。少女は毎日「道」の側に立って彼の帰りを待ち続け、数ヵ月後にようやく彼が帰ってきます。そして2人は結婚し、以後40年間教師は村の教育のためにつくし、読み書きのできない妻がそれを支え続けます。
 そして再び話しは最初の場面、すなわち息子が帰った時に戻ります。教師は村から離れた場所で死んだため、村の人々は村まで遺体をトラックで運ぼうとしたのですが、妻はその村の風習に従って遺体を「担いで徒歩で帰る」と主張します。その「道」は「初恋のきた道」だったからです。そして、妻の願いは叶えられました。
 この映画も、「人民のために働く」という社会主義の匂いがしなくもないし、この恋の物語も「出来すぎ」の感があります。しかし、この映画でも、「山の郵便配達人」と同様に、華北の美しい農村風景が映し出されるとともに、人と人との深い繋がりが描き出されています。
 人間の生活というものは、何十年、あるいは何百年、何千年の間、このように淡々と営まれてきたのでしょう。この2本の映画にも、時々政治の影が見え隠れしますが、多くの普通の人々は、そんなことに関わりなく、日々の生活を営み続けています。何千年にもおよぶ中国の歴史には、数え切れないほどの事件がおき、数え切れないほどの生と死があり、数え切れないほどの恋もありました。これらの映画は、こうした中国の歴史の一齣を、「普通の人」の目線で描いたものだと、私は思います。  



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