2014年4月26日土曜日

「ハザール 謎の帝国」を読んで

SA・プリュートニェヴァ著 城田俊訳 
1996年発行(原作1986) 新潮社




















(ウイキペディアより)

















カスピ海北方の草原地帯は、古くから様々な民族の通り道でした。その地に、7世紀後半から10世紀中ごろにかけて、約300年間ハザール可汗国という巨大な国家が存続しました。この国の支配層はトルコ系と思われ、住民はさまざまな民族からなっていました。この地域は遊牧民が東から西へ移動する時の通路にあたり、古くはフン族がここを通過してローマ帝国に侵入しました。そして、7世紀半ばに唐軍に追われた西突厥がこの地方に入り込み、さらに9世紀には唐軍に追われたウイグルの一部も流れ込んだと思われます。
この国は、東から唐に圧迫され、西にキリスト教のビザンツ帝国、南にイスラーム教のアラブ帝国があり、どちらからも圧迫を受けていました。その結果、勢力圏を北に拡大し、ブルガリア王国を滅ぼし、キエフ大公国にも勢力を拡大します。しかもこの国は、9世紀初めからユダヤ教を受容していたといいますから、驚きです。キリスト教圏やイスラーム教圏で迫害されたユダヤ人が大量にハザールに入り込み、ハザールの指導層に強い影響を与えるようになっていたということです。多くのユダヤ人が到来した理由としては、その他に、遊牧民が宗教的に寛大であること、この地域が交通の要衝で商業に好都合だったことなどがあげられます。
本書の説明では、ハザールがイスラーム教圏とキリスト教圏とに対抗するためにユダヤ教を受け入れたとのことですが、ユダヤ教はきわめて民族的な宗教なので、かなり不自然です。ユダヤ教はイスラエルの民のみが救済されるという宗教であり、イスラエルと全く関係のないハザール人がユダヤ教徒になりうるのか、という問題がありました。第一、ユダヤ教に改宗したハザール人が、「映画で聖書を観る ローマ帝国に挑んだ男 -パウロ」で述べたようなモーセの律法を守ったのでしょうか。本書はこの点についての説明が十分ではないように思われます。
ユダヤ教の祭司たちは、ハザール人とイスラエルとのつながりを示す系図をでっち上げようとしましたが、無理でした。本書にも、改宗したのは指導層だけであり、結局は成功しなかったと書かれていますが、少なくとも100年以上ユダヤ教の国家として存続したわけですから、一概に成功しなかったとは言えないように思えます。もう少しハザールとユダヤ教の関係を詳しく知りたいと思ったのですが、現段階では詳しいことが分かっていないのかも知れません。
本書の解説で、一つ興味深いことが書かれていました。以前、東欧のユダヤ人(アシュケナジム、「映画でヒトラーを観て 戦火の奇跡」参照)のルーツはハザール人ではないか、ということが話題となりました。もしそうであるなら、今日のイスラエルのユダヤ人の多くは東欧出身ですので、彼らはイスラエル人としての存立基盤を失うことになります。神はイスラエルの民に「約束の土地」を与えたのであり、ハザール人にではありません。しかし、ハザール王国が滅びたのは10世紀であり、ポーランドでユダヤ人が急増したのは16世紀なので、500年以上も間が空いています。さらに今日では、遺伝子調査によって、ハザール人のアシュケナジムへの影響は否定されています。ただ、ハザールとキエフ大公国との関係は、このような仮説を可能にするほど密接なものであったということです。結局ハザール王国を滅ぼしたのはキエフ大公国なので、ハザールのユダヤ人がキエフを通ってポーランドに移住したという仮説も、興味深いものではありました。遺伝子調査は、民族の移動や混交を科学的に実証する上で極めて重要な役割を果たしていますが、どのような想像も遺伝子調査の前には屈服せざるを得ませんので、何となく夢のない話ではあります。

 いずれにせよ、ヨーロッパの歴史をこの角度から見ていくと、従来とは異なったヨーロッパ像が見えてくるように思いました。












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