2014年6月25日水曜日

家庭菜園繁盛記2

5月初めに、グリーンピースを収穫しました。実が少し小さいようですが、まだこれからたくさん収穫できます。このグリーンピースでご飯を炊くと、とても美味しいですよ。グリーンピースは、スーパーで買うと、わずかな量でも結構高価ですが、新鮮なグリーンピースをたくさん食べることができます。






アンデスレッドというジャガイモの花です。昨年の秋に栽培したのですが、何個か土中に残っていたようで、今年も芽を出しました。アンデスといえばジャガイモの原産地であり、柔らかくて独特の風味のあるジャガイモです。ただ男爵イモやアンデスレッドは煮ると崩れてしまうので、普段はメークイーンというジャガイモを植えています。今年も豊作で、小さなものまで含めると、300個以上収穫しました。当分ジャガイモは買う必要がありません。



インゲン、ジャガイモ、ナス、トマトがとれました。どれも豊作です。インゲンは半月ほど毎日食べていたら、さすがに飽きてきました。まだ冷蔵庫に一杯残っています。トマトはどれも非常に美味しいですよ。ナスは、数はあまりできませんでしたが、味はなかなかのものです。







椎茸は、結局30個ほど収穫しました。少し硬かったですが、これを食べると、スーパーで買う椎茸は食べられません。原木が1200円なので、140円の椎茸です。少し高くつきました。来年はもっと沢山収穫できるように頑張りたいと思います。







カボチャがとれました。今年はいろいろな種類のカボチャを作ってみました。現在蔓が盛大に伸びており、どんなカボチャができるか楽しみです。また、あちこちに赤紫蘇が沢山生えており、これで紫蘇ジュースを作ります。とても健康的な生活ですね。












世界史をどのように捉えるか

この論文は、20053月に河合文化研究所の主催で、北京大学の教授たちを招いて行われた日中討論会で発表されたものです。この討論会は、京都大学名誉教授である故谷川道夫先生の主導で行われ、大変活発な意見交換が行われました。その後、20066月に河合文化研究所「研究論集」第2集でこの論文が掲載されました。なお、この論文の内容は、このブログの「グローバル・ヒストリー 第3章 グローバル・ヒストリーとは何か」に反映されています。
今読み返してと、あまりに抽象的で分かりにくい文章です。私自身がまだ内容を消化できていないような文章でした。

1.「世界史」は成立するか
 高等学校に「世界史」という教科があるが、そのような教科は成立するのだろうか。さらに「世界史」というのは学問として成立するのだろうか。高等学校で教えられている「世界史」は、5千年に及ぶ全人類の歴史についての断片的な知識の集積に過ぎないかのように思われる。それでは、「世界史」を体系的に語る方法はないのだろうか。

2.マルクス主義と文明史観
 19世紀以来歴史は各国別に研究される傾向が強く、世界史はそれら各国史の寄せ集めでしかなく、せいぜいそれらの国の相互関係が論じられる程度だった。これに対して、全人類の歴史を共通の基準で体系化する方法が模索されてきた。かつて世界史の教科書は、かなり曖昧ではあるが二つの観点で体系化されていたように思う。一つはマルクス主義であり、一つは文明史観である。
マルクスは、人類の歴史を生産様式の変化に基づいて、古代=奴隷制社会、中世=農奴制社会、近代=ブルジョワ社会ととらえた。彼の思想は日本にも大きな影響を与え、戦後マルクスのテーゼを日本の歴史に適用するため、一時不毛な論争が展開された。すなわち日本における古代・中世・近代はいつなのか、さらにアジアにおける古代・中世・近代はいつなのか、という論争である。そしてヨーロッパの近代化を典型的なモデルとして、アジア的な停滞とヨーロッパ的な進歩が常に対比されることになる。たしかにマルクスの理論が適合するなら、このような捕らえ方も世界史を共通の基準で体系化する一つの方法ではあるが、もともとヨーロッパの歴史を基盤に考え出されたマルクスの理論を、他の地域に適用するのは無理だった。したがってこの論争はしだいに下火となり消えていったが、今日でも世界史の教科書にはその影響が強く認められる。
文明史観は、国家の枠を超えて世界をいくつかの文明圏に分け、近代以前にはそれぞれの文明圏が独自の発展を遂げていき、その過程でそれぞれの文明圏の間にさまざまな交渉・交流が行われたとするもので、基本的には今日までの世界史の教科書の大きな枠組みは、この史観を基盤としている。具体的には四大文明の発生と、それに続くオリエント文明・地中海文明・インド文明・東アジア文明・西欧文明などである。このような文明史観は、すでに19世紀の哲学者ヘーゲルに見られ、20世紀にはシュペングラーやトインビーによって発展された。しかし文明史観も、見方によっては各国別歴史の枠を拡大しただけといえなくもない。これをもって、真の世界史といってよいであろうか。

3.近代世界システム
 最近の「世界史」では、近代世界システムという考え方を大幅に導入されている。この考え方は、アメリカの社会学者・歴史家ウォーラーステインの『近代世界システム』(1974)に依存している。
 ウォーラーステインは、特異な研究経歴をもった人物である。もともと社会学者として出発し、現代アフリカの研究を行っていたが、アフリカを研究するためには資本主義についての分析が不可欠と考えて経済学の研究に向かった。ところが資本主義を理解するためには、その起源を研究することが必要と考えて歴史家に転じたのである。まず最初に、「近代への序曲」の冒頭の部分を、多少長くなるが引用することにする。
 
 15世紀末から16世紀初頭にかけて、ここにいう「ヨーロッパ世界経済」が出現した。それは、帝国ではないが、大帝国と同じくらいの規模を有し、大帝国と共通の特質をいくつかもっていた。ただし、帝国とは別の、新たな何かなのである。それは一種の社会システムであり、この世界が従来まったく知らなかったものである。また、これこそは、近代世界システムの顕著な特質をなすものである。ここにいう「世界経済」とは、あくまで経済上の統一体であって、帝国や都市国家、国民国家などのような政治的統一体ではない。実際、この「世界経済」はその域内  その領域を確定するのは容易ではないが  に、まさにいくつもの帝国や都市国家、さらに成立の途上にある「国民国家」などを包含しているのである。それは、文字通りの「世界」システムなのである。もっとも、それが全世界を包含しているからというのではなくて、地上のいかなる法的に規定された政治単位をも凌駕しているという意味で、世界的なのである。それはまた、すぐれて「世界経済」である。というのは、このシステムを構成する各部分の基本的なつながりが経済的なものだからである。むろんそれは、文化的な紐帯によって多少は補完されてもいるし、後述するよう、窮極的には政治的な連帯や、ときには同盟関係によってさえ補完されてはいるのだが。(I.ウォーラーステイン「近代世界システム」川北稔訳、1981年岩波書店)
 
ウォーラーステインがこの文章で述べていることは、要するに次のようなことである。
近代以前にも多くの世界システムが存在した。歴史上世界システムには二つの形態が存在した。すなわち「世界帝国」と「世界経済」である。古くは、一つの地域あるいは一つの民族が国を形成し、そこに孤立的な地域経済=国民経済が形成されたが、やがて特定の国によって統一され、「世界帝国」が形成される。世界帝国は内部にさまざまな文化をもった国・地域が含まれるが、それらが政治的に統一され、その政治的に統一された範囲と経済的一体性をもつ範囲とがほぼ一致する。このような世界帝国としては、たとえば中国やエジプト・ローマなどの帝国が典型的な例である。このような世界帝国は政治的支配をともなうため、巨大な官僚機構を必要とし、そのためにコストが大きくなりすぎるため長続きしない。それに対して「世界経済」は、経済的一体性を保ちつつ、政治権力の統合がなされなかったことに大きな特色がある。ここでは、政治的支配の必要がないため、そのためのコストを世界経済の発展にまわすことができる。事実世界帝国は、近代になってすべて世界経済に飲み込まれていったのに対し、世界経済はやがて地球全体を覆い、今日に至るまで発展を続けている。ここでいう「世界経済」とは、もちろん「ヨーロッパ世界経済」のことであり、それはウォーラーステインのいう「近代世界システム」のことであり、それはまた資本主義的世界経済のことでもある。要するに彼は、この「近代世界システム」という概念を、すべての上にくる概念として用いることによって、特に行き詰まっていたマルクス主義の理論的な問題を解決しようとしたのである。
彼によれば、「近代世界システム」は、「長期の16世紀(1450-1640年)」に成立した。それは、ヨーロッパ各国で発達した国民経済がやがて世界化して形成されるのではなく、はじめから世界経済の形をとって「ヨーロッパ世界経済の成立とともに誕生する」のである。そこで資本主義の定義が問題となる。従来の見解では、自由な労働力を基礎とする資本・賃金労働者の関係が資本主義的生産様式の基盤であり、これを前提に、たとえば植民地時代の中南米は賃金労働を基礎にしていないから封建社会であるとか、合衆国南部の奴隷制は非資本主義的経営である、といった議論が展開され、日本を含めたアジア・アフリカの社会についても同様の議論が展開された。このような議論の背景には、マルクスと同様に国民経済を前提にした理論を普遍化させようとする意図があるのだが、ウォーラーステインはこのような考え方を拒否した。
彼によれば自立的なシステムは世界システムのみであって、国民経済はそれに従属するシステムでしかなく、したがって時代区分も従来のような国民経済を前提とした区分ではなく、世界システムを前提としたものでなければならない。たとえば合衆国南部の奴隷制プランテーションは、ヨーロッパ世界経済の一部として機能しているのだから、資本主義的なものであるはずである。つまり彼が主張する資本主義的な世界経済とは、「市場向け生産のために成立した世界的分業体制」なのである。そこにおいては、生産様式が奴隷制であろと農奴制であろうと賃金労働者であろうと、また農業が中心であろうと工業が中心であろうと、そんなこととは関係なく、その生産が世界的な分業体制に組み込まれていれば、それは資本主義の枠内にあるということである。
そして近代世界システムにあっては、世界は3つの構成要素からなる。つまり中核・半辺境・辺境であり、世界経済は中核が半辺境・辺境を従属させる壮大な分業体制である。もちろんこのような分業体制が全世界を覆うようになるのは、19世紀をまたねばならず、16世紀にはまだヨーロッパとその一部で形成していたにすぎない。
以上のようなウォーラーステインの主張については、賛否両論を含めてさまざまな反響を呼んだ。中でも彼の議論がヨーロッパ中心的であるという批判が多かったが、この批判の一つとして注目すべきは、アメリカの社会学者・歴史家であるアブー・ルゴドの『ヨーロッパ覇権以前―もうひとつの世界システム』(1988年、佐藤次高・斯波義信・高山博・三浦徹訳、2001年、岩波書店)である。

4. ヨーロッパ覇権以前-もう一つの世界システム
 問題の出発点は、16世紀に「近代世界システム」が成立したとするなら、そのルーツを検証せねばならないということだ。その際、検証の対象となるのは、時代的には1250年から1350年頃にかけての時代で、この時代に国際的な商業経済は著しい発展を遂げ、北西ヨーロッパから中国に至るルートが張り巡らされ、世界システムが成立したのである。そして、このシステムが崩壊した後に「近代世界システム」が成立するのだが、13世紀のシステムが西洋に受け継がれる歴史的必然性はない、というのが彼女の主張である。
 従来、ヨーロッパの内的な優位性がヨーロッパの勝利をもたらしたと主張されてきたが、13世紀の段階で多く点でヨーロッパはアジアと比べて遅れており、特にヨーロッパ人の優位の証とされる自由放任についても、アジアでも一定の自由があり、逆にヨーロッパでもそれ程自由ではなかった。しかし、16世紀以降ヨーロッパが東洋を追い越していったことは事実であるが、その理由はヨーロッパの優越性にあるのではなく、東洋が時として算を乱したことがあるからだ。第一に、13世紀にチンギス・ハンによって統一された大陸貿易ルートは、まもなく後継者たちによって分断され、一方アラブ人治下のアジアはティムールによる掠奪から立ち直ることができなかった。第二に、14世紀半ばに流行した黒死病は、世界交易の海上ルート上にあるほとんどの都市を殺戮し、その結果世界中に流動的な状況が生まれた。そして、それは急激な変化を生み出し、それがヨーロッパにチャンスを与えることになったのである。
 東洋の没落が西洋の勃興に先行したことは決定的に重要である。ヨーロッパの征服を容易にしたのは、先行するこのシステムの退化にあった。したがって西洋の勃興を、ヨーロッパ社会の内的特質に求めることは誤りであり、矛盾する二つの力が働いていたのである。第一に、13世紀までに発達した通商路は、ヨーロッパによって制され、ヨーロッパはシステムを新たに構築する必要はなかった。基礎となる土台は、ヨーロッパがまだ周縁だった13世紀には、すでに存在していたからだ。この意味で、西欧の勃興は先行の世界経済を再構成することによって促進されたといってよい。
 16世紀に発生した近代世界システムには、これと全く異なる特徴を備えた13世紀システムが存在したように、13世紀システムも同じく先駆者をもっていた。およそ2000年前にごく初期の世界システムが存在し、それは13世紀世界システムに参加するほとんどの地域を含んでいた。地理的にはそれは13世紀のそれとよく似ていたが、政治的には帝国的な構造を持ち、経済的には各部分がうまく統合されているとはいえなかった。西方のローマ帝国と東方の漢帝国が絶頂期に達し、またインド経済が発展期を迎えたとき、東南アジアを通り中国に至る国際交易ルートがいくつかの結節点を経由して機能していた。13世紀に再び完成する回路を再構成するには、これに当時機能していた中央アジア経由のシルクロードを付け加えればよかった。
 しかし初期のシステムについては、異なった構造に注意せねばならない。つまりシステムの両端には帝国が存在し、相互の関係は著しく制限され、また間接的であった。しかも一度大帝国が衰えれば、複数の断片的な地域はこのシステムを維持することができなかった。ローマ帝国が滅亡し、漢の統一が失われると、このシステムも崩壊し、それが再構成されるのはイスラム世界の興隆と東方への拡張後のことである。13世紀世界システムに結実するのは、この再組織化なのである。
 以上のように、アブー・ルゴドは、ウォーラーステインの近代世界システムを承認した上で、その前提となる13世紀世界システムを提唱した。それはヨーロッパを中心としたウォーラーステイン説への反論であり、近代以前の世界システムを提示したという点では、大変興味深いが、ウォーラーステインの近代世界システムとは基本的に論点が異なっているように思われる。ウォーラーステインの主張の中心は労働管理の方法と世界的分業体制にあるが、アブー・ルゴドの主張する「世界システム」は通商上の一体化あるように思われる。しかし、この彼女の主張によって、ウォーラーステインが提示した「近代世界システム」の考え方が、近代以前にも適用しうる道を開いたように思われる。

5.「近世」について
 こうした研究動向を背景に様々な議論が展開され、近年「海のネットワーク」やそれと関連した「東南アジア史」の研究が盛んに行われるようになった。そうした研究の中で大変注目されたのが、オーストラリアの歴史家アンソニー・リードの『大航海時代の東南アジア』(1989年、平野秀秋・田中優子訳、2002年、法政大学出版局)である。リードはウォーラーステインの強い影響を受けて東南アジアの研究を行い、15世紀から17世紀末までを「交易の時代」と呼んで、この時代の東南アジアの全体像を描き出した。彼の研究は、東南アジアという範囲を越えて、この時代の世界全体の動向に共通する特色を見出し、この時代全体を「近世」という言葉で説明しようとする動向が生まれた。そうした研究の中で私が大変注目したのは、山下範久『世界システム論で読む日本』(2003年、講談社)と岸本美緒『東アジアの「近世」』(1998、山川出版)である。
 山下は日本史を専門としつつ、アメリカに留学して直接ウォーラーステインに師事したという異色の人物で、彼の著作は実証性には欠けるものの、大胆な構想を打ち出している。すなわち、「近代世界システムに空間的外部が存在したのは、15世紀後半から19世紀初めで、いわゆる近世である。これまで近世という概念は、地域別に個々の基準で、中世と近代の過渡期と位置づけられるのみで、自立的な性格を与えられてこなかった。しかし、近代世界システムの空間的外部に注目するなら、むしろグローバルな文脈の中で一つの時代としての近世という考え方が浮上する」ということである。
 そして彼は具体的に次のように説明する。同じ16世紀後半に一つのヨーロッパ帝国の構想は潰えたが、同じ時期にヨーロッパの外では、その後も生命を保つ諸帝国の支配が固まりつつあった。北ユーラシアではイヴァン4世(雷帝)が全ロシアの皇帝を称した。西アジアではスレイマン1世の統治が完成した。南アジアではムガル帝国にアクバルが現われた。東アジアでは、明清交替期にあたっており、北虜南倭を含む動乱の時代で、その意味でヨーロッパ同様世界=帝国の構築は不確かだった。朝鮮、ヴェトナム、琉球、日本も含めた中国周辺の諸王朝が、明清交替に際して、王朝の不連続にもかかわらず、中華的な地域秩序自体の変更を求めず、その結果清帝国はその秩序の持続性の重心としての役割を果たした。したがって、16世紀後半の時代は、大勢としては世界=帝国の確立期である。この時代にはヨーロッパも含めた五つの近世帝国のパラレルな形成期であったと、見ることもできる。
そして、このような近世帝国が生まれた背景を次のように説明する。長期の16世紀後半の特徴は、リスクに対する態度の変化である。急成長する経済社会の背景に、様々な可能性を試行錯誤するような交通の拡大の時代は終わり、交通の回路の制度化が進んだ。それはリスクの高いルートと低いルートの選択であり、またそれを通じての権力による増収圧力の強化だった。例えば近世ヨーロッパの重商主義政策も、清が再度実施した海禁政策も、日本の鎖国政策も、基本的には交通・交易の権力による管理の強化という点で一致しており、この転換の同時性には構造的な意味がある。そしてこのような管理の強化は、一つの重大な帰結をもたらした。それは、地域の求心性の形成である。交通の管理化によって空間的創造力の固定化が生じ、地域的な規模での中心に投影された普遍性を分有する範囲で「世界」が完結してしまったのである。
岸本もまた、「近世」について次のように説明する。「今日、「近世」とは、日本史やヨーロッパ史でいわれる近世とほぼ重なる16世紀から18世紀までの間を指すものとして用いられるが、それはヨーロッパとの類似性によってではなく、さまざまな個性をもつ諸地域が相互に影響を与え合いながら、16世紀から18世紀というこの時代の経済変動のリズムを共有していたという認識に基づいている。この時代の東アジアの歴史を巨視的な観点から眺めてみると、16世紀の急速な商品経済の活発化、社会の流動化の中で、従来の秩序が崩れていく混乱状況の中から新しい国家が生まれ、17世紀から18世紀にかけて新しい秩序が作り上げられていく、一サイクルの動きが認められる。17世紀初頭に成立した日本の徳川政権や中国清朝政権は、そうした中で同時代的に生まれてきたものであり、またより広い観点で見るなら、ヨーロッパの絶対王政も、同じリズムの中で捉えることができるだろう。」
ここに至って、ウォーラーステインの「近代世界システム」は大幅に相対化されることになった。19世紀にヨーロッパが世界を制覇したということは間違いないことであろうが、少なくともそれ以前にはいくつかの「帝国」の一つでしかなかったし、この段階でもなおヨーロッパが世界を制覇する保障はなかったのである。

6.最後に
 「世界史」をどのように捉えるかについて、いくつかの議論を検証してきたが、なお「世界史」の全体像を捉えるには程遠い。しかし、ウォーラーステインの「近代世界システム」から始まって、最近の「近世帝国」についての研究などを通じて、方向性だけは次第に明らかになりつつあるように思われる。また、最近ではヨーロッパ史の研究でも、従来近代の象徴とされてきた産業革命や市民革命の位置づけが相対化される傾向があり、ヨーロッパ史像も大きく変わりつつあるように思われる。
さらに最近「帝国」につていの研究が盛んに行われ、「世界史」を捉えるキーワードの一つと目されている。すなわち、政治的単位としての「帝国」から、19世紀末の帝国主義の「帝国」に至るまで幅広く「帝国」を検証し、それを通じて「世界史」を再構築しようという試みである。こうした研究によって新しい世界史像が再構築されるには、なお相当の時間が必要であり、その過程でまったく新しい視点が生まれてくるかもしれない。いずれにしても、新しい「世界史」の構築は、ようやくスタートラインに立ったばかりである。


2014年6月8日日曜日

映画でイスラーム世界を観る

「ザ・メッセージ 砂漠の旋風」

1976年にアメリカで制作された映画で、私が知る限り、ムハンマドの生涯を描いた唯一の映画です。かなり貴重なDVDで、アマゾンでは1万円以上の値がついています。制作者はこの映画の制作にはかなり気を使っており、例えばイスラーム教では偶像が禁止されていることから、180分に及ぶこの映画に、主人公であるムハンマドの姿は一度も映し出されません。したがってこの映画は、主人公が登場しない伝記映画なのです。なお、左の写真の顔はムハンマドではなく、彼の叔父と称する人物です。さらに、シーア派への配慮なのか、シーア派が崇拝するアリーも画面に登場しません。また、この映画の上映にあたっては、イスラーム教の識者・歴史家・アルアズハル大学のシーア派の指導部から、この映画が史実に忠実であるというお墨付きをもらっています。

映画は、晩年のムハンマドがビザンツ皇帝やペルシア皇帝へ、イスラーム教への改宗を求める使節を派遣することから始まります。それはムハンマドに伝えられた神のメッセージを全世界に伝えるのが、自分の義務だと考えたからです。しかし、当面は相手にされませんが、アラビアで生まれた一宗教が世界宗教へと発展する第一歩でした。

次いで場面は、イスラーム教が生まれた頃のメッカに戻ります。メッカは隊商の中継地として、また多神教の巡礼地として繁栄していました。カーバ神殿には300体以上の偶像が祭られていたとされます。偶像の数が増えれば巡礼者の数も増えるので、無節操に偶像を増やし、それが信仰心を希薄化させていました。また、もともとメッカは遊牧社会でしたが、商業の発達にともない都市的な価値観も広まり、道徳は荒廃していました。例えば、女児殺しという風習があります。遊牧社会に女子は必要ないことから、女子が生まれると殺してしまうという風習です。では妻はどうするのか、商人から金で奴隷を買えばよいという考えです。さらに商業の発達に伴い、貧富の差が拡大し、社会矛盾は耐え難いほど拡大していました。

ムハンマドはクライシュ族という名門に生まれましたが、両親を早くなくしたため、祖父や叔父のアブー・ターリブのもとで成長し、商人として修行を積み、25歳の時、資産家で15歳年上のハディージャという未亡人と結婚します。しかし40歳頃から山で瞑想に耽るようになり、610年頃天使を通じて神の啓示が聞こえるようになります。天使は繰り返し「(啓示を)読め(クルアーン=コーラン)」と言います。ムハンマドは震えおののき、苦悩します。ムハンマドの親戚たちもムハンマドの異常さに気づき、心配します。しかし、ムハンマドの口から伝えられる啓示に心を寄せる人々が増えていきます。特に、古い価値観にとらわれない若者に受け入れられ、そうした一族では親子の断絶が深刻な問題となります。そうした中で、613年からムハンマドは公然と布教を開始します。

ムハンマドの教えは、メッカの支配層の基盤を突き崩すものだったため、ムハンマドは激しく迫害されます。その結果、ムハンマドと信徒はメディナに移住します。その後のムハンマドは戦いの連続でした。彼は自ら信徒を率いて、26回も戦っています。こうした中で、630年についにメッカを制圧し、632年に死亡します。自ら先頭に立って戦うという点で、ムハンマドはブッダやイエスと異なります。まさに彼は戦う預言者だったのです。そして常に戦いに勝ったわけではなく、負けた戦いもあり、ムハンマド自身が負傷したこともあります。つまりムハンマドは生身の人間であり、決して奇跡を行ったり、不死身だったわけではありません。

次に、ムハンマドの身近にいて、重要な役割を果たす若干の人物を簡単に紹介します。
まず、妻のハディージャは富裕な未亡人で、595年、40歳くらいの頃25歳くらいのムハンマドに求婚し、結婚します(いずれも生年がはっきりしないため、年齢もはっきりしません)。彼女は、神の啓示に苦しむムハンマドを励まし、最初にイスラーム教を受け入れます。ムハンマドが40歳頃ですから、彼女は55歳くらいと思われます。この間に彼女は24女をもうけ、その内のファーティマがムハンマドの血統を引き継ぐことになります。619年に彼女は死に、同じ年にムハンマドの叔父アブー・ターリブが死にます。彼はムハンマドの育ての親であり、イスラーム教に改宗することはありませんでしたが、メッカの有力者としてムハンマドを保護し続けます。妻と叔父の死をきっかけに、ムハンマドに対する迫害が激しくなり、622年にムハンマドはメッカを脱出して、メディナに移ります。

 アリーはアブー・ターリブの実の息子で、後にムハンマドの養子となります。ムハンマドが啓示を受け始めた頃、彼はまだ10歳そこそこでしたが、ハディージャに次いで2番目に入信します。以後、彼は敬虔な信者としてムハンマドにつき従い、多くの戦いで活躍して、武勇の人としても名を馳せます。さらに彼は、ムハンマドの娘ファーティマを妻とし、血統の上でもムハンマドに最も近い人物でした。ムハンマドの死後、彼は656年に第4代カリフとなりますが、ウマイヤ家と対立する中で、661年に暗殺されます。その後、アリーを支持する人々は、アリーとその子孫のみをムハンマドの後継者と認めるシーア派を形成し、それは今日まで大きな勢力となって残っています。

 アブー・バクルは、ムハンマドより3歳ほど年下で、ムハンマドの親友でもあり、ムハンマドの近親者以外では最初の入信者でした。きわめて信仰心が篤く、ムハンマドの言葉を決して疑うことがありませんでした。また、9歳だった娘を、56歳だったムハンマドに嫁がせてもいます。この話は、娘の年齢から見て猟奇的な印象さえ受けますが、当時のアラビアでは、こうした血縁の繋がりが最も重視されており、当時としては決して異常なことではなかったようです。ムハンマドの死後、彼は初代カリフに選ばれると、「ムハンマドは、神ではなく人間の息子であり、崇拝の対象ではない」ことを強調し、ムハンマドの意志を広く知らしめました。ムハンマドの死にともない、各地で離反の動きが起きますが、これを何とか抑え、イスラーム共同体の維持に成功します。しかし、彼はカリフ就任の2年後に病死します。とはいえ、4人の正統カリフのうち、暗殺されなかったのは彼だけです。

ウマルは、メッカの名門に生まれ、若い時より武勇に優れていました。初めはムハンマドを弾圧する側にいましたが、ふとしたことから「コーラン」の章句に触れ、イスラーム教に改宗することになります。二十歳代前半の頃でした。彼は武勇に優れていたことから、ムハンマドを保護し、ムハンマドの布教活動を大いに助けました。その後すべての戦いで活躍し、さらに夫に先立たれた娘をムハンマドの妻とし、ムハンマドの盟友としての地位を築きます。ムハンマドの死後、ウマルはアブー・バクルを後継者として推薦し、彼が2年後に病死すると、634年に第2代カリフとなります。ウマルは、ヒジュラ暦を定め、「コーラン」に基づく法整備を行い、次々と聖戦を進め、ビザンツ帝国やササン朝を破り、イスラーム的な統治体制を定めていきます。彼は644年に暗殺されますが、この間にイスラーム勢力の大発展の基礎がを築かれました。なお、彼の暗殺は個人的な恨みによるもので、政治的な背景はなかったようです。

ウスマーンは、ムハンマドより4歳ほど年下で、ムハンマドと対立するウマイヤ家の出身でしたが、早くからイスラーム教に改宗し、ムハンマドの娘を妻としました。644年に第3代カリフとなりますが、彼はウマイヤ家の一族を重用したため、656年に暗殺されます。この間に彼は、「コーラン」を完成させたり、ササン朝を滅ぼすなど、大きな功績を残します。しかし、彼の死後アリーが第4代カリフとなると、ウマイヤ家のムアーウイアが反乱を起こし、ウマイヤ朝を樹立します。ウマイヤ家は、ウスマーンを除けば、メッカで最後までムハンマドに抵抗した一族でした。

ビラールという黒人奴隷は、神の前の平等説くムハンマドに従います。彼は美声の持ち主で、コーランを大声で唱えること(アザーン)を提唱し、アザーンの祖とされます。なお、ムハンマドの叔父と称するハムザなる人物が、映画に登場します。ムハンマドが映像に登場しないため、常にハムザがムハンマドの代わりとしてムハンマドの言葉を伝え、行動しました。事実上彼がこの映画の主人公ですが、もしかすると彼は架空の人物かもしれません。
 
このような人々にムハンマドが支えられたということは、ムハンマドの人格と言葉(啓示)によほど人を引き付けるものがあったに違いありません。映画では、個人名がだされるケースが非常に少ないので、どれが誰なのかよく分かりませんでしたが、上にあげた人たちは出ているはずです。いずれにしても、ムハンマドはこうした人々に支えられて勢力を拡大し、630年にメッカは無血開城することになります。そして632年にムハンマドは死にます。63歳でした。
 
ところで、ムハンマドとは一体何者で、イスラーム教とはどのような宗教なのでしょうか。私は、今までにイスラーム教に関する本は数えきれない程読みましたが、それでもあまり分かっているとはいえません。そもそも「イスラーム」とは、ウイキペディアによれば、「自身の重要な所有物を他者の手に引き渡す」ことを意味し、ムハンマド以前には「人と人との取引関係を示す言葉」として用いられていましたが、ムハンマドはこれを、「唯一神であるアッラーフに対して己の全てを引き渡して絶対的に帰依し服従するという意味に用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリム」と呼びました。ユダヤ教でもキリスト教でも唯一神への絶対的な帰依という点では共通していると思いますが、イスラーム教はそれをより徹底させたものと思われます。

当時のアラビア半島では識字率が低く、ムハンマドも文盲だったそうです。しかし一方で各部族にすぐれた詩人がおり、すぐれた詩は口承によって伝えられていました。「コーラン」も、まずすぐれた詩として受け取られたようです。私には分かりませんが、「コーラン」は声をあげて読むと、人間が作ったとは思えない程美しいのだそうです。だからこそ、「コーラン」は、神の言葉と信じられているわけです。ただし「コーラン」の表現はきわめて簡潔で、われわれが何気なく読んでも、ほとんど意味が分かりません。
 
 イスラーム教が、ユダヤ教やキリスト教の影響を強く受けていることは、このブログ「映画で聖書を観る」で述べました。ムハンマドは、アブラハム・モーセ・イエス・ムハンマドを預言者と認めており、彼にとっては、彼が受けた啓示はユダヤ教やキリスト教が受けた啓示と同じ神から発せられたものであり、イスラーム教がこれらの宗教とは別の宗教であるという意識はなかったかもしれません。したがって、ムハンマドはユダヤ教やキリスト教を啓典の民として扱っています。ムハンマドは、ユダヤ教やキリスト教の影響を強く受けつつ、その欠点を克服しようとしたように思います。

ムハンマドは、とくにキリスト教に対する意識が強かったようです。彼は、イエスを高く評価します。彼が批判するのは、使徒たちがイエスの教えをゆがめてしまった、ということです。イエスは神の子とされ、正統教義なるものが形成され、司祭や教会は特別なものとされました。これに対してムハンマドは、自分は人間であり、死ぬ時は死ぬのだということ、そして人と神を媒介する司祭や教会の存在を認めないこと、ムハンマドはたまたま自らの意志と関わりなく、神の言葉を伝えることを命じられた一人の人間にすぎないことを、強調しました。したがってイスラーム教に改宗するには、ムスリムの証人の前で宣誓するだけでよいし、初代カリフとなったアブー・バクルは、「ムハンマドは崇拝の対象ではない」と宣言しました。

イスラーム教は、当時としては最先端の宗教であり、やがて大帝国の建設、巨大なネットワーク、偉大な文明を生み出す原動力となりました。イスラーム教が生まれてから少なくとも千年以上、イスラーム文明は繁栄し続けたわけですから、やはりイスラーム教は革新的な宗教だったと言わねばなりません。ただ、その宗教にはムハンマド時代のアラビアの慣習や、当時の現実的な要請が反映されており、ユダヤ教の律法と同様に、それをそのまま適用することが困難になっています。例えば「コーラン」は飲酒を禁止していますが、現実には多くのカリフがアルコール中毒だったりします。また、同じ嗜好品でもイスラーム教成立後に普及したタバコやコーヒーは許される、といった矛盾もあります。さらに、女性への人権侵害の問題はよく知られていますが、こうした慣行の本来の意図は女性を差別することではありませんでした。今日では、こうした形式的な慣行を本来の意図から見直すべきだとする人々も多くいるようです。
 
 このような問題は、私のような部外者がとやかく言うことではありませんので、深入りはしません。最後に、イスラーム教の聖地メッカについて一言触れておきたいと思います。イスラーム教の聖地としては、メッカ・メディナ・イェルサレムがありますが、なんといってもメッカはムハンマドが神の啓示を受けた場所ですので、第一の聖地です。伝承によれば、神はアダムとエヴァに祭壇を置くべき場所に隕石を落として示しました。その場所がメッカで、その石が黒石と呼ばれるものです。さらにアブラハムが黒石を祭る神殿を建てますが、これがカーバ神殿です。したがってメッカの伝承は旧約聖書に由来するものなのです。

 ムハンマドはメッカを占領すると、メッカでは木を切るのも、生物を殺すのも禁じました。さらに、体力と財力に余力があるものは、一生に一度はメッカに巡礼するよう言いました。こうしてメッカはイスラーム教の最大の巡礼地となりました。ムハンマドがいた頃のメッカは人口1万人程の町で、映画でもメッカの町の風景が映し出されていましたが、当時の雰囲気がよく再現されているように思いました。現在のメッカは人口100万を超える大都市ですが、その経済の基盤は巡礼者へのサービス業が中心です。ただし町の入口の立て看板に「ムスリム以外立ち入り禁止」と書いてあり、われわれは入ることができません。なお、メッカは何かの原点というような意味で「……のメッカ」として広く使われますが、この表現は放送用語としては自粛されています。例えば、「ソープランドのメッカ」などという使用の仕方は、イスラーム教徒にたいしてあまりに失礼だからです。


「ロスト・キングダム/スルタンの暦」

 2005年にアメリカで制作された映画で、イスラーム世界の大科学者オマル(ウマル)・ハイヤームを題材とした映画です。イランから移住したアメリカの家族が、オマル・ハイヤームの伝承の継承者=the keeperの血を引いており、その家族の末っ子が継承者となるため、イランにいる祖父のもとを訪ねる、という物語です。「ロスト・キングダム」という日本語版のタイトルは、意味が分かりません。多分、「ジェラシック・パーク」の「ロスト・ワールド」にあやかってつけたのではないかと思います。原題は「継承者(the keeper) オマル・ハイヤームの伝承」です。また、日本語版のサブタイトル「スルタンの暦」というのも意味が分かりません。確かに暦の話はでてきますが、エピソードの一つでしかなく、サブタイトルにする程の内容ではありませんでした。

 オマル・ハイヤームは、11世紀の中ごろイラン東部のホラサーン地方で、貧しい職人の家に生まれましたが、幼少よりきわめて優秀で、高名な学者のもとで個人的に指導され、とくに数学と天文学で異常な才能を発揮しました。当時のイランはセルジューク朝のマリク・シャーのもとで全盛期を迎えており、とくに名宰相として知られるニザームル・ムルクが学問の振興を図っていました。そうした中で、オマル・ハイヤームは、マリク・シャーの要請で天文台を建設し、きわめて正確なジャラリー暦を作成します。彼の業績はそれだけではなく、三次方程式の解法やエウクレイデスの平面幾何学に対し曲面の幾何学を提唱し、数学者としても大きな業績を残します。

 ところで、暦の歴史は古く、オリエントでも中国でも独自に暦が作られました。農業社会においては、正確な暦の存在は不可欠であり、そのような暦を作ることは国家権力者の義務でもありました。紀元前1世紀にカエサルが作らせたユリウス暦は、かつてなく正確であるとともに、使い勝手のよい暦でしたが、それでも僅かな誤差がありました。それも短期間なら問題なるような誤差ではなかったのですが、1500年以上使用されたユリウス暦は、16世紀には10日間のずれが生じていました。そこで16世紀末にローマ教皇の命令でグレゴリオ暦が制定され、これが今日、日本を含めて世界で使用されている暦です。ただし、この暦は3300年に1日の誤差が生じます。

 一方、イスラーム世界で使用された暦はヒジュラ暦といい、ヒジュラが行われた622年を元年とする太陰暦で、太陽暦と比較して1年で10日の誤差がでますので、農業用としては使用できません。したがって、ヒジュラ暦を用いる多くの国では、今日ではゴレゴリオ暦と併用するのが一般的です。11世紀にオマル・ハイヤームが作成したジャラリー暦は、誤差が5000年に1日という正確なものですが、非常に複雑なためあまり使用されず、今日ではイランのみで使用されています。

 話が逸れましたが、彼には天才的な数学者・天文学者の他に、もう一つの顔があります。つまり詩人としての顔です。彼は酒に酩酊し、気ままに詩(四行詩)を歌います。その詩は無常観にあふれ、無神論的でさえあります。もちろん当時のイスラーム世界において、このような詩を公表することはできませんので、死後「ルバイヤート(四行詩集)」として公表されました。ただ、彼は数学者・天文学者としてあまりにも高名であり、この詩集はあまり注目されなかったようです。19世紀になって、この詩はイギリス人によって翻訳され、一躍有名となり、彼は科学から文学にいたる万能の天才として、ペルシアのレオナルド・ダ・ヴィンチとまで称されるようになります。彼が生きた時代は、ヨーロッパではようやく封建制が安定に向かい、欲望をたぎらせて十字軍運動を開始した頃のことです。彼の活動は、同じ時代のヨーロッパと比較して、当時のイスラーム文明がいかに成熟していたかを示しています。

 ところで、オマル・ハイヤームと同じ時代に、さらに二人の著名人がおり、この三人の間に伝説が生まれました。その二人とは、ニザームル・ムルクとハサニ・サッバーフで、この三人は学友であり、三人のうち最初に出世した者が、他の者を引き立てようと約束しました。ニザームル・ムルクが宰相となると、オマル・ハイヤームの要求は静かに研究に専念したいというささやかなものでしたが、ハサニ・サッバーフは強大な権力を求めたため、ニザームル・ムルクと対立します。これに怨みを抱いたハサニ・サッバーフは暗殺者教団を設立して政府の要人を次々と暗殺する、という話です。そしてこの映画は、この伝説に基づいて作られました。

 しかし、この伝説は史実とは認められていません。三人が学友であったという可能性はなく、まして暗殺者教団なるものは空想の産物でしかありません。伝説によれば、ハサニ・サッバーフは山頂の要塞に住み、信徒に大麻を与えて恍惚状態にさせ、彼らを使って敵対者を次々と暗殺していったというものですが、これは十字軍を通じてヨーロッパに伝えられた色々な噂話が混ざって、ヨーロッパで形成された空想物語です。この話は、ヨーロッパ人によるイスラーム教徒に対する偏見と相まって、実に20世紀半ばまで事実として信じられ、ハサニ・サッバーフの蔑称であるashīshīという語が、ヨーロッパ語で「アサシン(暗殺者)という語の語源となりました。

 ハサニ・サッバーフは、シーア派の分派であるイスマイール派の分派ニザール派の創始者で、山頂の要塞に立てこもったのは事実ですが、そこには大図書館が建設され、彼自身は部屋からほとんど出ることなく、研究に没頭するとともに、さまざまな指示を発していました。ニザール派は、当時かなり大きな勢力となっていましたが、13世紀にモンゴル軍によって滅ぼされます。ハサニ・サッバーフ自身は、きわめて信仰心が強く、学識が豊かで「明敏にして有能」、勤勉で禁欲的な人物だったようです。
 話が逸れましたが、この映画はほとんど見るに値しない内容で、オマル・ハイヤームを扱っているという珍しさだけの映画でした。


「炎のアンダルシア」

「ハーフェズ  ペルシャの詩」

2007年のイラン・日本合作映画で、日本の女優麻生久美子が出演し、ペルシア語で演じています。この映画は芸術的には高い評価を得ていますが、日本人には非常に分かりにくい映画だと思います。

















ファールサ地方(ウイキペディア)
















まず、ハーフェズとは何か。イランでは、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアが成立し、これより三千年近く前から発展してきたオリエント文明が集大成され、これがその後の西アジアの文明の中心となっていきます。もともとアケメネス朝ペルシアを建設した人々は、イラン西南部のパールサで遊牧をしていたアーリア系の人々で、このパールサがギリシア語でペルシアと発音されました。したがって本来ペルシアとはこの地方のことで、地元では古くから「アーリア人の国」という意味で「イラン」と呼んでいました。ところでパールサは、7世紀にアラブ人の支配下に入ってから、アラビア語でファールサと発音されるようになりました。このファールサはイラン文明の中核地域で、ハーフェズは、14世紀にファールサで活躍した詩人でした。

7世紀にササン朝ペルシアがアラブ人によって滅ぼされて以来、イラン人は長く自らの本格的な王朝をもつことがなく、また従来のゾロアスター教に代わってイスラーム教が広く浸透していきました。その過程でペルシア語に大量のアラビア語の語彙が入り込み、10世紀頃に近世ペルシア語が成立することになります。こうして、イランの知識人は、アラビア語と近世ペルシア語を駆使して、それぞれの時代にイランを支配した王朝に仕え、宮廷人として活躍しました。先に述べたニザームル・ムルクもオマル・ハイヤームもそうした人々でした。そしてハーフェズは、「愛」をテーマとした抒情詩を500編近く作り、今日に至るまで広く民衆に愛されている詩人です。どの家庭にも、「コーラン」はなくても、「ハーフェズ詩集」はある、とさえいわれています。
ところで、ハーフェズもオマル・ハイヤームも、しばしば「酒」について詠っています。しかし、「コーラン」では飲酒は禁止されているはずです。これはどうなっているのでしょうか。「コーラン」は、酒は人間を駄目にするので禁酒とはっきり言っており、酒を飲んだ者は鞭打ちの刑とされます。しかし、特定の地域や時代を除いて、実際には禁酒の規定の実施はおおらかだったようで、そもそもムハンマドが天国には美酒があふれている、などと言っているので、われわれ部外者には真意がわかりかねます。また、「コーラン」にある酒というアラビア語の単語ハルムは、ブドウ、ナツメヤシ、蜂蜜、大麦、小麦の5種を原料とした飲物となっており、それ以外の酒ならよいといった詭弁もあります。いずれにしても、例えば今日のサウジアラビアやイランのように飲酒を厳禁するというのは、むしろ例外的だったようです。

ムハンマドは、非常に現実的で柔軟性ある人物だったようです。例えば、肉を食べるために生き物を殺す場合、必ずお祈りをあげてから殺しなさいと言っています。これに対してある人が、旅の途中で人から振舞われた肉が、お祈りをして殺したものかどうか分からなければ、どうしたらいいのか、と尋ねます。これに対してムハンマドは、分からなければよい、と答えたそうです。しかし、一方で、「お祈りつき肉」以外は食べてはならないという規定を守っている人もいます。例えば日本では「お祈りつき肉」など手に入りませんが、それでもイスラーム教徒専用の店では、そうした肉を売っているそうです。一方には、そういう人たちもいるわけですが、他方では次のような人たちもいます。以前、私の家を改築していた時、イラン人労働者が来ており、彼と少し話をしました。日本では食べ物に困るのではないか、豚肉は食べられないのではないか、と尋ねたところ、彼は豚肉が好きだし、よく食べるけれど、国に帰ったら食べないと言っていました。この柔軟性こそが、イスラーム教がさまざまな民族に幅広く受け入れられた理由なのではないかと思います。

ところで、今まで話してきたことは、実はこの映画とは何の関係もありません。映画にかこつけてイスラーム教についての勝手な感想を述べただけです。そろそろ本論に入りたいと思います。

ハーフェズは、民衆に愛された詩人であるとともに、「コーラン」の暗唱者でもありました。「コーラン」のすべてを暗唱し、それを美しい声で詠むことができる人は非常に尊敬され、いつからかは知りませんが、イランでは「ハーフェズ」という尊称を与えられました。そしてこの映画の時代は現代であり、主人公は「ハーフェズ」の称号を与えられた青年であり、舞台となった場所は、はっきりしませんがイラン東南部で、現在の保守的な政権もあきれる程根深い因習が残った場所だそうです。
 
 ハーフェズとなった青年は、高名な宗教指導者の招きで、彼の娘の家庭教師となります。この娘が、麻生久美子が演じるナバートで、詩人ハーフェズの恋人と同じ名前だそうです。彼女は母の実家であるチベットで長く暮らしており、ペルシア語もたどたどしく、コーランもあまり知らなかったため、ハーフェズから学ぶことになりました。ただし、麻生はペルシア語の特訓を受け、あまりに流暢にペルシア語を話したため、撮影ではNGが出たとのことです。また、ラマ教のチベットと厳格なシーア派イスラーム教のイランとの組み合わせが、よく理解できません。映画では、このことが自然に描かれているので、よくあることなのかも知れません。

イラン東南部ルート沙漠 (ウイキペディア)
















さて、厳格にイスラーム法を守っている地域では、未婚の男女が目を合わせたり、詩を詠み交わしたりすることが禁じられており、二人は壁を隔てて話していました。しかし次第に二人の間で心が通じ合い、目を合わせ、詩を詠み交わすようになります。しかしこのことが知られて、ハーフェズは家庭教師を解雇されただけでなく、ハーフェズの称号も剥奪されます。さらに、ナバートは別の男性と結婚させられます。ハーフェズは彼女を忘れるため、旅に出ます。荒涼たる砂漠を超え、さまざまな村を訪れ、さまざまな人々との出会いがあり、根深い因習にも苦しめられます。そして、結局、ナバートの夫はナバートに触れることなく、彼女をハーフェズに渡し、二人の愛は成就されます。

結局、この映画が何を言おうとしているのかよく分からず、途中でかなり眠くなりました。まさか、二人の愛が成就されるとは想像もしませんでした。荒涼たる風景、根深い因習、そうした中でハーフェズの愛の詩が勝利した、ということでしょうか。映画を観終わった後、荒涼たる風景が幾分美しく感じるようになりました。


「アラビアン・ナイト」

1999年にアメリカで制作された映画です。物語の枠組みは、王が妻の不貞を目撃して女性不信に陥り、毎夜一夜を共にした女性を、夜が明けると殺すようになるところから始まり、大臣の娘シェヘラザードが自ら王の寝所に行き、毎夜王に物語を話すという形で進行します。そして物語が一番面白いところで夜が明け、「明日お話しするお話は今宵のものより、もっと心躍りましょう」と言って寝所を去ります。王は話の続きを聞きたいため、今夜話の続きを聞いてから殺そうと思うのですが、その夜も話が面白いところで終わり、これが延々と千一夜続いたわけです。したがってこの物語は、「千一夜物語」あるいは「千夜一夜物語」と呼ばれます。

「千一夜物語」は、イスラーム世界で10世紀から15世紀くらいにかけて、少しずつ話が追加され、18世紀にヨーロッパで紹介されて大変評判となり、明治時代に日本でも紹介されました。「シンドバッドの冒険」、「アラジンと魔法のランプ」、「アリババと40人の盗賊」などは、日本でもよく知られた物語です。物語の数は全部で72話あり、短いものは一夜に複数語られる場合もあれば、長いものでは60夜を超えるものもあります。

 古代オリエント以来伝わるさまざまな物語が含まれ、さらにインドや中国の物語まであります。登場人物は、王侯、貴族、商人、冒険家、盗賊などあらゆる人々であり、さらに怪物まで登場します。内容的には、人情味溢れる物語や、教訓物語、冒険物語など魅力的な話が満載され、しかも少し妖艶でもあります。宗教的色彩はほとんどなく、まさに民衆の生活そのものが描かれ、それは近代以前のイスラーム世界の活力溢れる人々の物語です。世界中でこれほど「面白い」物語はないのではないか、と思うほどです。ヨーロッパで生まれた「グリム童話集」には、幾分陰惨な話がふくまれますが、「千一夜物語」はもっと大らかで心温まる話ばかりです。これ程の文学が生まれるということは、イスラーム文明が、きわめて成熟した文明であったことの証しです。

 映画やアニメでは、過去にも「シンドバッドの冒険」など個別の話を扱ったものがありますが、この映画では王の女性不信とシェヘラザードが物語を語り始めるところから始まりますので、「千一夜物語」そのものが扱われています。もし、王が途中で話に飽きたら、シェヘラザードは翌朝殺されることになるので、彼女も毎晩命がけです。それでも彼女は魅力的で、賢く、愛情深く、話上手で、結局千一夜を話し切ることになります。王は、多くの物語を聞くことで、人の道がいかにあるべきかを学び、自分がしてきたことが間違っていたことに気づきました。そして千一夜が終わった後、シェヘラザードは彼女がこの間に生んだ3人の子を王に面会させます。王は大変喜び、「千一夜物語」はハッピー・エンドとなります。

 千一夜毎晩ベッドをともにしたシェヘラザードが、妊娠し出産したことを王はまったく気づかなかったのか、また千一夜毎晩夜が明けるまで話し続けたこの二人はいつ眠ったのか、というような野暮なことを言うのは止めましょう。私も、はるか以前にこの物語を読んだのですが、抄訳でした。多分当時は全訳がなかったのだと思います。一度全部読んでみたいと思っていますが、あまりにも膨大な量なので、多分無理だと思います。もちろん映画でも、すべての物語が語られている分けではありません。この映画では、「アリババと40人の盗賊」、「バクバクの物語」、「アラジンと魔法のランプ」、「乞食のアミン」、「空飛ぶ絨毯」の五話が扱われています。

「アリババと40人の盗賊」 9夜をかけて語られます。アリババは、真面目で働き者の青年で、毎日山でとった柴を売って暮らしていました。ある日、たまたま悪名高い40人の盗賊が、盗んだ財宝を洞穴に隠すところを目撃しました。その洞窟は「開けゴマ」というと石の扉が開く不思議な洞窟でした。彼は洞窟に入り、財宝の一部を盗んで家に帰り、町に移り住みます。その際、召使としてモルジアナという女奴隷を手に入れます。彼女は、若くて、美しくて、聡明な女性でした。アリババは、金を手に入れて以来自堕落な生活を送っていましたが、モルジアナは彼によく仕え、金を盗まれた強盗がアリババに復讐にやって来たことを知ると、機転を働かせてアリババを救い、やがて二人は結婚します。アリババは、盗賊の金を手に入れるという幸運にさずかりましたが、その運を成就させるにはモルギアナという賢く信頼できる女性が必要だったということです。

 「バクバクの物語」は短編です。一つの物語が夜明け前に終わってしまった場合、こうした短編が挿入されます。王様お気に入りの宮廷道化師バクバクが、ある夫妻に招かれて、食事中に発作で死んでしまいます。驚いた夫妻は、殺人罪に問われるのを恐れて、死体を隣の家の前においてきます。ところが隣の人も、死体を別の家にもって行き、その人も死体を酔っ払いに押し付けてしまいます。酔っ払いは裁判で絞首刑を宣告されますが、そこへ死体を捨てた三人の人物が、自分が殺したと名乗り出たのです。結局。王様が出てきて、これはバクバクの最後の道化であり、犯人はいないとして決着をつけます。要するに、人はだれでも自分の行動に責任をとらねばならない、という教訓でした。この物語は、本編の話と異なっていますが、他の話と組み合わせて作られたのだと思います。

「アラジンと魔法のランプ」は、43夜に及ぶ長編です。アラジンは中国に住む、いわば不良でしたが、たまたま通りかかった皇帝の姫に一目ぼれします。ふとしたことから魔法のランプを手に入れ、ランプの精がどんな願い事も叶えてくれることを知ると、ランプの精に大金持ちにしてもらい、立派な宮殿を建ててもらって、姫に求婚します。しかし、魔術師に魔法のランプを奪われ、お金も宮殿も失いますが、姫のために魔術師と戦ってランプを取り戻しました。一人の不良少年が、愛のために強い男になったという話です。「愛」という最も大切なものを手に入れたアラジンには、もはやランプは不要となりました。

「乞食のアミン」 暗愚だった君主は、面白半分に乞食を皇帝にしたて、自分は物陰に隠れて、皆が混乱する様を見て喜んでいました。混乱した乞食の王様は、刀を振り回して物陰に隠れていた本物の王様を殺してしまいます。事態の混乱を避けるため、大臣は乞食を王様として押し通してしまいますが、この乞食の王様が意外に名君で、結果的に皆が幸せになった、という話です。愚かなことをした者は身を滅ぼし、また環境は人を変える、ということでしょうか。

 「魔法の絨毯」 ある国の王には三人の息子がいました。一人は剣の達人、もう一人は弓の名手、三人目は怪力の持ち主でした。三人は喧嘩ばかりしていたので、王は息子たちに試練を課します。旅に出て、世界で最も珍しいものを持ち帰った者を王位継承者にするということです。一人は見たいと思うものを何でも見られる魔法の望遠鏡を、もう一人はあらゆる病を治す聖なる青りんごを、三人目は空飛ぶ絨毯を手に入れます。これらのものを手に入れるために、三人はさまざまな苦労をします。1年後に三人は再開し、魔法の望遠鏡で父を見ると病で苦しんでいました。そこで空飛ぶ絨毯で父の下にかけつけ、聖なるリンゴで父の病を治した、という話です。この話の教訓は個人より団結がよい、ということです。また、人の歩むべき道は安易な悪の道ではなく、困難でも正しい道を行け、ということです。まさにシェヘラザードは、王を救うために困難な道を選んだ分けです。

 人間にはパンより物語が必要である、物語の教訓は人を救い、人生すら変えることができる、というのが「千一夜物語」のテーマのようです。


「パラダイス・ナウ」

2005年のフランス・ドイツ・オランダ・パレスチナ合作映画で、自爆テロに向かう二人のパレスチナ人青年を描いています。日本語の「自爆テロ」という表現は、無関係な人々も巻き添えにするテロ行為をイメージすることが多いのですが、本来「自爆」とは、敵に対する最後の攻撃手段として、本人自身も死亡する事を前提とした攻撃方法で、日本の神風特攻隊による敵艦への突撃も「自爆攻撃」です。ここでは、誤解をさけるために「自爆攻撃」という言葉を使います。

 自爆攻撃は昔から最後の手段として行われることがありましたが、敵を攻撃する手段として広く用いるようになったのは、スリランカにおけるタミル系ゲリラによるものだそうです。タミル系ゲリラについては、このブログの「ムンバイ ザ・テロリスト」をご覧ください。イスラーム世界における自爆攻撃は、前に触れたハサニ・サッバーフの暗殺者教団のイメージと結びついて、狂信的集団による行為と思われがちです。しかし暗殺者教団なるものは存在しないことは、前に述べた通りです。また、年端もいかない少年をマインド・コントロールして自爆攻撃をさせたり、何も知らない少女に爆弾をもたせて爆発させたり、といったことが行われたことは事実ですが、あたかもそれがすべてであるかのようにイメージされることは間違いです。一般に自爆攻撃を志願する人は、比較的教育レベルの高い青年が多いようで、この映画の主人公がそういう青年でした。

朝日新聞社

1994年以降、パレスチナのヨルダン川西岸の一部とガザ地区で、パレスチナ人による自治が認められています。この映画の舞台は、ヨルダン川西岸のナブルスという町です。自治とはいってとも、町の周囲はフェンスで囲まれており、町の外に出るには検問所を通らねばなりません。かつてユダヤ人が、ヨーロッパでゲットーに閉じ込められたことが何度もありますが、今やそれと同じことをイスラエルはパレスチナ人に対して行っているわけです。

主人公はサイードとハーレドという二人の青年で、年齢は分かりませんが二十歳代前半かと思われます。二人は無二の親友で、いつも行動を共にしています。彼らは、ろくに仕事もなく、気だるく退屈な毎日を送っています。町はイスラエルによって包囲され、将来への展望もなく、ただ無為に暮らしているだけでした。二人は自爆攻撃を志願していましたが、それは宗教的な信念とか民族的な情熱とかといったものではなく、他にすることがなかったからです。そしてこの二人に、いよいよ自爆攻撃の指令が下されました。この映画は、指令が下されてから実行されるまでの二日間を描いています。

サイードは、たまたま第一日目に知り合った女性に好意を抱きますが、もはや指令は下されていました。彼女は自爆攻撃に反対で、もっと別の方法を考えるべきだと主張します。しかし、サイードは、「ここは牢獄であり、人生に尊厳はない。占領者は暴力でわれわれを抑圧する。われわれを危険にさらすなら、彼らにも安全はない。力は助けにならない。それを知らせるには、この方法しかない」「平等に生きることはできなくても、平等に死ねる」と言います。幾分自暴自棄的な自爆攻撃です。
当日、アジテーション用のビデオが撮られますが、撮られる方も撮る方も、淡々としていました。体に爆弾が装着されますが、あまり緊張感がありません。この間、リーダーは死ねば必ず天国に行けると言い続けますが、言う方も言われる方も、何となくきまずい雰囲気です。彼らが天国を信じていたどうかわ分かりませんが、それでも「地獄で生き続けていくよりも、想像上の天国の方がまし」ということです。

いよいよ二人は自爆攻撃に向けて出発しますが、ちょっとしたトラブルがあって一旦拠点に戻り、再出発します。その過程でハーレドは自爆攻撃の無意味さを悟り、サイードに一緒に帰ろうと説得しますが、彼はハーレドを振り切って自爆攻撃に向かいます。いよいよ自爆攻撃直前に、彼は初めて生きていることの実感を味わいます。彼にも自爆攻撃が無意味であることは分かっていましたし、天国の存在を確信している分けでもありません。しかし、今まで何の希望もなく無為に過ごした人生の最後に、彼は初めて自分が生きているという実感を味わい、自分の存在意義を見出しました。彼にとって「天国」はあの世にではなく、「今」この瞬間にあったのです。

何の「希望」も見出せない映画でしたが、これが自爆攻撃の実態であり、また何の希望も見出せないパレスチナ人の実態なのだろうと思います。


「アフガン零年」

2003年製作のアフガニスタン、日本、アイルランド、イラン、オランダ合作映画で、アフガニスタン復興後はじめての映画です。

アフガニスタンは、国土の大半が山岳地帯であり、また交通の要衝としてさまざまな民族が入り込み、複雑な民族構成を形成しています。現在のアフガニスタンの国境は人為的に作り出されたものです。19世紀にロシアが中央アジアから南下してきたのに対し、イギリスはインド防衛のためにアフガニスタンに進出し、ロシアとの間で境界線が引かれたわけです。そのため、西側では文化的にはイランに属する地域の一部がアフガニスタン領となり、さらに東側はイギリスに切り取られてパキスタン領となりました。その結果、アフガニスタンの最大の民族であるパシュトゥーン人(アフガン人)は、アフガニスタン側とパキスタン側に分断されることになりました。

第一次世界大戦後、アフガニスタンは王国として独立しますが、1973年にクーデタが起き、新政権はソ連に接近し、イスラーム主義者を弾圧します。1978年再びクーデタが起き、新たに生まれた政権は社会主義路線を打ち出したため、各地で反乱が起き、アフガニスタンは内戦状態なります。翌年ソ連軍が侵攻し、それに対してイスラーム諸国から義勇兵が集まり、それをアメリカが支援したため、アフガニスタンは冷戦に巻き込まれることになります。そしてこの義勇兵の中に、当時二十歳そこそこのウサーマ・ビン・ラーディンがいました。

1989年にソ連軍が撤退すると、その後の政権を巡って再び内戦となります。さまざまな勢力の中から、やがてターリバーンが台頭し、1996年にカヴールを占領します。2001年アメリカで同時多発テロが起きると、アメリカはアルカイダを匿うターリバーンを攻撃し、ターリバーン政権は崩壊し、その結果カイザルを議長とする暫定政権が発足します。しかし、暫定政権は汚職で腐敗し、まもなくターリバーンが復活し、支配地域を徐々に拡大しており、政情不安定は今も続いています。

ところで、ターリバーンは治安の維持に努力したため民衆に評判がよかったのですが、彼らが政権を握った1996年から2001年の時代には、過激なイスラーム主義による統治が行われ、とくにアルカイダとの関係が強まると、一層過激になっていきます。従来の娯楽や文化を否定し、公開処刑を行い、女性は学ぶことも働くことも、外出することも禁止されました。外国人でも、女性の国連職員の入国が拒否されるという徹底ぶりでした。そして宗教警察が、人々の生活を厳しく監視していました。この映画は、こういう時代に生きた一人の少女の悲劇を描いたものです。

 少女マリナは12歳で、生計を支えるべき父を戦争で失い、母親と祖母とともに暮らしていましたが、女性だけの外出が禁止されていましたので、働くことができません。そこでマリナの髪の毛を切って少年に仕立て、牛乳屋で働かせることにしたのですが、ターリバーンによる少年兵教育に駆り出され、施設に連れて行かれます。ところが施設で騒ぎに巻き込まれ、彼女が懲罰を受けている時に初潮が訪れ、女であることが発覚してしまいます。彼女は公開裁判にかけられ、本来死刑に値する罪でしたが、ターリバーンに顔のきく年寄りに妻として与えられてしまいます。

 映画はここで終わりで、何とも救いようのない内容でした。つまり、この映画はアフガニスタンの復興を祈願して制作されたのですが、アフガニスタンにまだ復興元年は来ていないということです。実は、主人公のマリナを演じた少女は女優ではなく、3400人の公募者の中から監督が選んだ少女でした。彼女は戦争で二人の姉を失い、父は足が不自由で、母は乳飲み子を抱えていたため、5歳の頃から路上で物乞いをして暮らしてきました。このような現実を前にして、監督はアフガニスタンの復興への希望を語ることができなかったのです。

 話が変わりますが、「イスラーム原理主義」という言葉をしばしば耳にします。しかしこの言葉は、アメリカがつくった蔑称で、かつてベトナムのゲリラを「ベトコン」と呼び、日本人を「ジャップ」と呼んだのと同じレベルですので、ここでは「イスラーム主義」という表現を使います。イスラーム教の精神に基づく国家の建設を目指す運動は古くからあり、現在でもイラン、サウジアラビア、そして現在のアフガニスタンなど、イスラーム主義を掲げている国が存在します。

 「コーラン」は、ムハンマドが神から与えられた言葉であり、まさに神の言葉そのものですから、イスラーム教徒のすべての行動は「コーラン」に従わねばなりません。しかし、現実には「コーラン」だけでは判断できないことが多くあるため、ムハンマドが個人的に述べた言葉や行動などを基準として「シャリーヤ」が生まれ、その内容は宗教だけではなく、政治・軍事や日常生活などあらゆることに及びます。そしてイスラーム主義とは、この「シャリーヤ」に基づく理想の共同体を復活しようとするものです。

しかし「コーラン」も「シャリーヤ」も、今日から1400年も前に生まれたもので、内容が具体的であるために、現実に合わなくなっている部分が多くあります。かつてイエスが、彼より1200年以上も前に書かれたとされるモーセの律法を批判したように、1400年も前に生まれた「コーラン」や「シャリーヤ」を杓子定規に今日に当てはめるのは無理があるように思います。ムハンマドは非常に現実的で柔軟性に富んだ人物であり、この柔軟性こそがイスラーム文明の発展を促したと思うのですが、今日のイスラーム主義には柔軟性が欠けているように思います。

近年のイスラーム主義の運動は、ヨーロッパの進出と深く関わっています。ヨーロッパ人がさまざまな形で侵略してくると、キリスト教とイスラーム教の相違を明確にするために、本来のイスラーム教の原点に帰ろうとする動きが生まれ、その中からキリスト教に敵対する先鋭的な考えが生まれてきのだと思います。とくに、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設は、イスラーム教徒の心を深く傷つけ、イスラーム主義が広く受け入れられるようになったのだと思います。

 イスラーム世界に関するまったくタイプの異なる6本の映画を紹介しました。もちろん単にイスラーム世界といっても、1400年の歴史と、西アフリカから東南アジアに至る広大な地域にまたがっていますので、決して一様であるはずがありません。それにしても、「アラビアン・ナイト」と「アフガン零年」との落差には、戸惑いを感じます。しかし、私はあえてこれらの間に整合的な説明をしませんでした。これらがすべてが現実である、ということを訴えたかったのです。