2014年8月30日土曜日

メソアメリカを読む

古代メキシコ人

 ミゲル・レオン・ポルティーヤ著 1961年、山崎真二郎訳(1985)、早稲田大学出版会
 インカ帝国が1438年のパチャクテク即位とともに大帝国へと発展していったのとほぼ同じころ、1428年、イツコアトル率いるアステカはアステカ三国同盟を結成し帝国への道を始めたのは、何かの偶然でしょうか。もちろん、インカやアステカの前に、アンデス文明にもインカ文明にも何千年にも及ぶ長い前史があることは言うまでもありませんが、しかし、ほぼ同じ時期に巨大な帝国が形成され始めた背景には、アメリカ社会に大きな変動があったのでしょうか。それともただの偶然でしょうか。私には分かりません。ヤスパース風にいうなら、アメリカ大陸の枢軸時代と言えるかもしれません。
 それにしても、この本を読み始めて直ちに、メソアメリカ文明についての私の無知に愕然とさせられました。本書は決して専門書ではなく概説書なのですが、それにもかかわらず登場する固有名詞をほとんど知らず、挫折しそうになりました。ところが読み進むうちに、古代メキシコ人の精神世界に引きつけられるようになりました。インカには文字資料がなかったため、その精神世界に深く立ち入ることができませんでしたが、古代メキシコ人は文字を用いて彼らの精神世界を描き出していたのです。しかもそれは、特別な人だけではなく、職人や一般の人たちも同様だったのです。

 紀元前13世紀頃に誕生したと見られるメキシコ湾岸のオルメカ文明に始まり、その影響を受けてメキシコ東南部にマヤ文明が、メキシコ中央高原にテオティワカン文明が誕生します。テオティワカン文明が滅びた後、7世紀頃メキシコ中央高原にトルテカ文明が生まれます。トルテカ文明は、ケツァルコアトルを創造神とし、その後この神はアステカにも引き継がれ、マヤではククルカンとして崇拝されるようになります。このあたりの事情は、はっきり分かっていないようですが、トルテカ人は非常に洗練された文化を生み出したようで、彼らがナワトル語を使用していたことから、ナワトル文化圏とも呼ばれるそうです。
 ここでは、ナワトル語で書かれた多数の詩を引用して、当時のトルテカ人の精神構造を明らかにしようとしています。その内容は多岐にわたり、私には十分理解できませんでしたが、ここでは、一つの文章を引用しておきます。それは、ある家庭で少女が6歳か7歳になると、父親が母親の立ち合いのもとで彼女に伝えるものです。そこで父は簡単な言葉で先祖の古い教養を娘に告げます。その教養とは「顔と心」が受け継ぐべき遺産であり、人間の存在の意味とナワトルの少女がどのように生きるべきかを教えるものです。
  
 私の可愛い娘よ、おまえはここにいる。私の首飾り。私のケツァルの羽根、私の人形。私から生まれた者。おまえは私の血であり、私の肌の色である。おまえのなかに私の姿がある。
 今や受けよ。そして聞け。おまえは生まれ、今生きている。この世にお前を送られたのはわれらの主。近隣の主、人間の製作者、人類の創造者。
 今や、自分を見つめ、気づけ。この世には歓喜も幸福もない。あるのは苦悩と心配と疲労だけ。ここでは苦しみと心配が生まれ増えるだけ。
 ここ、この世は落涙の場所、気力が打ちのめされる場所、悲痛と落胆の場所、黒曜石のような風が吹き、われらの頭上を掠める。実際、風と太陽の灼熱がわれらを悩ませるといわれている。ここは人間が渇きと空腹で死にかけるところ。ここ、この世とはそういうところだ。
 よく聞け、私の可愛い娘、私の幼子よ。この世は安楽の地ではない。喜びも幸福もない。この世はつらい喜びの地、刺す喜びの地ともいわれている。
 古老たちは次のように言い伝えてきた。われわれがいつまでも呻き続けないよう、いつも悲しみで包まれていないよう、われわれの主はわれわれの人間に笑いを、夢を、食べ物を、力を、逞しさを、最後に人間の種を蒔く性行為を与えられた。
 これらすべてはいつまでも呻き続けないように、この世の生活を忘れさせる。しかし、たとえそうだとしても、この世の物事がそうだとしても、いつも忘れているべきだろうか。いつも怯えているべきだろうか。いつも泣き暮らすべきだろうか。
 この世に生きていられるのは、そこを王と貴族と鷲と虎の戦士が支配しているからだ。誰もがこの世はそんなものだといつもいっているのだ。誰が死を与えるというのだ。労苦があり、生活があり、闘争があり、仕事がある。妻を捜せ、夫を捜せ。

 ときどき意味の分からない部分があり、またこの内容を「人が考えることは同じだ」と見るべきか、ナワトル特有の思想と考えるべきか、よく分かりません。著者は「≪顔と心≫はナワトル思想の中で、人間の心の表情と活動の本源を象徴しています。≪ナワトルの個の概念≫に心が含まれ顔に現れた心の表情が重要であるならば、同様に、いやそれ以上に顔の観念と自我の内的原動力の観念とはお互いに補いあっていました。」と述べています。

 いずれにしても、ナワトル文化が大変穏やかで成熟した文化であることは間違いありません。彼らは人身御供を禁止しましたが、人身御供を求める勢力との対立がしばしばあったようです。そして15世紀前半に宗教軍国主義を唱え、太陽の活力を維持するため絶え間なく人身御供を捧げるアステカ族が台頭し、広大な領域を支配する「帝国」が成立することになります。これとほぼ同じころアンデスにインカ帝国が成立しますが、これはただの偶然でしょうか。それともアメリカ大陸に何か大きな変動が起きつつあったのでしょうか。いずにしても、いかなる可能性もスペインによって破壊されることになります。


消された歴史を掘る メキシコ古代史の再興成

大井邦明著 1985年 平凡社
 古代メキシコの文明はメキシコ中央高地やマヤ地区など6つの地区で発展したとされますが、それらの文明の相互関係が未だに不明確のようです。特にアンデス地方と異なり、豊富な文字資料が存在するため、研究が文献研究に偏りがちで、発掘調査が十分行われてこなかったとされます。著者は長年メキシコの発掘調査に携わり、古代メキシコ文明の再構築を試みます。その際、古代メキシコ文明の中心地であるメキシコ中央高地を中心に研究を進めますが、かなり高度な専門書であるため、読むのにはかなり苦労しました。










 「メソアメリカは、……熱帯地帯に入る。しかしこの地を縦横に走る山脈によって、驚くほど多様な自然がつくり出されている。雪を頂く高山、温暖な気候の高原地帯、熱帯降雨林、太平洋岸と大西洋岸の長大な海岸線、高原地帯と海岸の間に横たわる広大なステップ地帯など、さまざまな自然環境をみることができる。こうした多様な自然環境のもとに、メソアメリカ各地に地方的特色をもつ文化が生み出されていき、それぞれの自然が与える恩恵をもって各地方が補い合い、全体としてメソアメリカ文化と呼べる統一体を形成していた。」
「メキシコ中央部は、メキシコ盆地とそれを取り巻く地域を指している。とくにメキシコ盆地はその自然の豊かさと常春と気候から、いうなれば地上の楽園であった。盆地内の大湖水は、魚介類、水草、そして水を求めて集まる動物などを豊富に提供した。湖南部の淡水部分は、チナンパと呼ばれるメキシコ独特の灌漑農業が大規模に行われていた。大湖水の中央部分は塩水で、製塩が盛んに行われた。また、都市の建設に不可欠な木材・石材も豊富であり、古代メソアメリカにおいて最も重要な刃物の材料である黒曜石も豊富に産した。このメキシコ中部が、メソアメリカにおける統一的勢力を生み、時代の変動を収束させ、新しい文化を他地域に先行して作り上げた先進地であったことは、その自然環境からもうなずける。」ただし、四大文明は、過酷な自然環境のもとで発生しているのですが。

 本書で著者が試みたのは、メソアメリカ世界の再構成です。従来、メソアメリカの年代決定にはマヤ文明の編年が基準とされていました。なぜかというと、マヤ文明の編年は非常によく整備されていたからです。しかしこの編年に従うと、説明できない矛盾が多数存在するため、著者はトルテカ人やチチメカ人の動向を検討することによって全体像の再構成をこころみたわけです。率直に言って、その論証過程は専門的すぎてよく理解できませんでした。メソアメリカ文明についてはっきりしたことは、謎が多すぎてまだよく分かっていないということです。

マヤ人の精神世界への旅






















宮西照夫著 1885年 大阪書籍
 マヤ文明は、謎に満ちた文明です。メキシコ南部で3世紀頃に誕生し、色々な曲折を経て、最終的にはスペインによって滅ぼされる16世紀まで続きます。この文明は青銅器などの金属器を知っていましたが、それを道具として使うことはなかったので、旧大陸の基準に基づけば新石器文明ということになります。新石器段階でここまで高度な文明が形成されるということは、またしても旧大陸の文明の基準に風穴を開けることになります。
 メキシコ南東部に、人口200人ほどのラカンドン族の村があり、この村は周囲を密林に覆われた閉鎖的な村で、キリスト教宣教師による執拗な脅迫にも変わらず、古来の宗教を守ってきました。著者の宮西氏は精神科医で、マヤ文明に魅せられて、1971年から1984年まで8回にわたり、この村や周辺の村で実地調査を行いました。その結果執筆されたのが本書で、内容のほとんどは村での生活の体験談で、それはそれで面白いのですが、なかなか結論が出てきません。
 マヤ文明の滅亡の原因については、疫病説、食糧不足、北からの異民族の侵入などさまざまな原因があげられていますが、どれも定説となるには根拠が弱いようです。そこで著者の結論は、マヤの暦に基づく「予言」説です。マヤを含めてメソアメリカの文明は、300年を周期に危機を迎えると信じられているそうです。たしかに中国の王朝は300年程の周期で交替することが多く、300年というのは社会と政治組織が一致して維持できる限度のような気がしますが、マヤ人は複雑な暦と数字を操り、それに呪縛されそれが運命であると考えてしまったというのです。

 著者は次のように言います。「マヤ人の考えによると、時の円が一回転するとすべてが終わるのだ。無になり、そして新たな時の流れが開始する。この時の流れは直線とはならない。永遠に時は円を描き循環するのだ。マヤ人にとって現在とは、回転して流れる時間の巨大な流れの一通過にすぎない。この暦を基本に宗教生活を送ってきた神官は、あるいは予言者は、おのずと世紀末に不吉な預言をした。」にわかには信じがたい話ですが、人は大なり小なり固定概念に縛られており、こういったことも、マヤ文明を滅ぼした要因のひとつとは言えるかもしれません。


















2014年8月29日金曜日

家庭菜園繁盛記(2)

 朝顔とサツマイモの蔓で一杯です。写真ではよく見えませんが、朝顔の花が植木に巻きつき、デコレーションのようです。朝顔は毎年勝手に生えてきます。














 カボチャが豊作でした。4種類のカボチャがあります。栗のような形をしたカボチャは、九重栗カボチャというのだそうです。味はどれも似たようなものです。














 赤紫蘇が毎年勝手生えてくるので、紫蘇ジュースを作りました。これを造るのはかなり面倒ですが、2リットルのペットボトルに5本分作りましたので、当分ジュースを買う必要がなくなりました。
































ベニアズマとキントキイモです。意外に収穫量が少なかったのですが、味はなかなかのものです。ただし私はサツマイモがあまり好きではないので、大部分は妻が食べることになります。女性はどうしてサツマイモが好きなのですかね?





















 これで今年の家庭菜園はほぼ終わりです。後は来月サトイモを収穫し、ジャガイモを植えて12月に収穫します。また冬用に菜花の種を蒔きます。家庭菜園が繁盛しているのは4月から9月までですね。10月には植木の剪定をします。「剪定」というよりは「伐採」というべきかもしれません。その後はしばらくすることがありません。寂しくなりますね。

2014年8月23日土曜日

映画で中国の思想家を観て

恕の人―孔子伝

2012年の中国の大河ドラマで、全35話からなります。孔子は、言うまでもなく儒学の祖であり、一時の例外はあるものの、2千年以上にわたって中国の国家思想として用いられてきた思想です。また朝鮮も、日本に併合されるまでの朝鮮王朝で5百年以上国学として扱われましたので、今日に至るまで深い影響を与えています。日本の場合、江戸時代に林羅山が徳川家康によって登用されて以来、国学としての扱いを受けますが、朝鮮と比べればその影響は少なかったようです。それでも儒学が日本人の精神構造に深い影響を与えたのは間違いありません。

 ドイツの哲学者ヤスパースは、1949年「歴史の起源と目標」において、紀元前500年前後の時代を、「世界史的、文明史的な一大エポック」として「枢軸時代」と呼びました。これは私には幾分こじつけのように思われますが、確かにこの時代に孔子が登場し、ほぼ同じ時代にインドでブッダが登場します。すでに文明が発生してから2500年以上経過しており、この時代に人類の社会や精神の在り方が成熟し始めたといえるのかもしれません。くしくも、孔子の時代から今日まで2500年程経っており、孔子やブッダは時代の折り返し点に立っていたといえるかも知れません。

ところで、儒学あるいは儒教は、学問なのか宗教なのかという問題は意見が分かれるところです。日本では、伝統的に学問として捉える傾向が強いのですが、宗教と捉える人々も沢山います。私自身は、大した根拠はないのですが、儒学の宗教的側面に関心があるため、ここでは儒学ではなく儒教と呼ぶことにします。もちろん私が儒教について論じることなどできるはずがないので、ここでは「儒教とは何か」(加地伸行著、1990年、中公新書)に基づいて、儒教の宗教的側面について述べたいといと思います。
 人は常に「死」とは何か、ということについて考えます。仏教もキリスト教もイスラーム教も、「死」についてそれぞれの考えを持ち、儒教もまた「死」を出発点とします。そもそも「儒」とは「シャーマン(巫師・祈祷師)」のことです。中国では古くから、人間は死ぬと霊魂が肉体からら離れると考え、その霊魂を呼び戻す儀式をおこないますが、このような信仰の在り方をシャーマニズムといいます。霊媒師はシャーマンの一種と考えられ、あらゆるものに霊が宿るとするアニミズムもシャーマニズムの一種と思われます。このような信仰は古くから世界中で見られる信仰形態で、霊を呼び寄せることを専門とする人たちもいます。実は孔子の母が身分の低い巫女の出身で、彼女の家は「儒」を行う家、つまりシャーマンだったとされます。こうしたシャーマン的な信仰を基に、孔子は壮大な理論体系を構築していったと考えられます。
 魂を呼び寄せる招魂儀礼は、祖先の霊に対する信仰と結びつきます。祖先の霊を祭るのは子孫である現在の当主であり、その当主の死後彼を祭るのは子孫であり、子孫を生むことは必要不可欠となります。そうすることによって、人々は自分の死後も再生することができると信じ、死の恐怖を和らげることができます。つまり祖先=過去・父母=現在・子孫=未来という関係が形成され、祖先を祭り、父母を敬愛し、子孫を生むこと、これらをまとめて「孝」と呼びます。そして自己の生命は祖先の生命であると同時に、子孫の生命でもあり、「孝」を行うことによって自己の生命は永遠に生き続けるということです。以上のことは、日本の仏教で語られていることと似ていますが、実は日本の仏教は儒教の影響を強く受けており、本来の仏教にはこのような思想はありません。そして儒教は、この「孝」の概念をもとに家族倫理を形成し、そのうえに社会・政治倫理を形成し、壮大な思想体系に発展していったわけです。
 周王朝には古くから伝わる祭祀儀礼があり、孔子はこれに精通していました。当時から見ても、あまりに形式主義的な祭祀儀礼でしたが、人心が乱れているこの時代にこそ、「孝」を全うするために祭祀儀礼が必要だったわけです。さらに「孝」を全うするための基本として「仁」があります。人が二人いれば人間関係が発生し、その出発点は血族関係です。そこには「おもいやり」が必要であり、この血族間の愛を家族道徳に高め、さらにそれを国家の君臣関係にまで高めたのです。そしてそれを維持するための枠組みとして「礼」が重視されます。
 孔子が最も重視したのは、周の礼でした。周の武王は殷を倒し、周王朝を開いて新しい秩序原理を生み出します。殷では祖先崇拝が非常に強く、常に祖先の祟りを畏れて祭祀や占卜が行われましたが、周では祖先は敬意を払う象徴となり、そのための礼が整備されました。統治にあたっては血縁の繋がりを重視し、要地には血縁者を配し、実際には血縁がなくても擬似的に血縁関係を形成することによって、その原理に従って統治されたとされます。実は、このような体制を築いたのは、武王の弟で建国の功労者でもある周公旦だとされ、彼はその功績から魯の国を与えられました。そして孔子は、この魯の国で生まれました。孔子が生まれたのは、周公旦の時代から500年もたった春秋時代の末期で、もはや周の礼を顧みる人はいませんでしたが、それでも魯にはまだ礼の伝統がかろうじて残っていたとされます。孔子は周公旦が行った政治を理想の政治とし、その実現のために生涯をかけますが、実際には「周の理想の政治」なるものは存在せず、孔子やその後の人々が創り出した「理想型」だったと思われます。その意味においても、中国の政治・社会のあるべき姿を生み出したのは、孔子だったといえるでしょう。
 例えば、今日ではあまり意識されませんが、それでも朝の挨拶で兄弟に対する挨拶、子に対する挨拶、父母に対する挨拶が微妙に異なるでしょう。さらに会社へ行けば、上司に対する挨拶の仕方、お得意様に対する挨拶の仕方が異なるでしょう。一見形式的に見えるこのような儀礼が、人と人との関係を円滑にし、社会の秩序を保つことに役立ちます。日本の武道の基本は「礼に始まり礼に終わる」といいますが、戦うときにも一定の規範が必要だということでしょうか。このような関係を、家族間の関係から始まって君主との関係に至るまで「礼」によって規定し、そこに一定の秩序を維持していきます。もちろんそれだけでは「形式」にすぎませんが、そこに血族内での自分の魂を永遠のものとする「考」と、思いやりの「仁」が存在します。君主たるものは、父が子を思いやるように、民を思いやって統治せねばなりません。そうすることによって、穏やかで秩序ある社会が形成され、魂もまた永遠に受け継がれていくことになります。ここに、シャーマンである「儒」と政治思想とが結びついた、壮大な思想が形成されることになります。このような考え方は、当時にあっても今日にあっても、ほとんど夢物語のように思われますが、しかしそれは永遠の理想として受け継がれていくことになります。

 ドラマは、アメリカに留学していた25歳の女性が、孔子を論文のテーマに選び、彼女が孔子を調査するという形でストーリが展開していきます。孔子(552年‐前479)は幼くして両親を失い、苦学して礼を学んだとされますが、ドラマでは孔子が17歳の時に死んでおり、また24歳の時と書いてあるものもあり、はっきりしません。また、彼は2メートルを超える長身だったとされ、堂々たる体格だったとされますが、ドラマではそれほど大きな人物ではありませんでした。
ところで、彼が礼や学問をどこで学んだのでしょうか。もちろん教育機関などあるはずもありませんから、基本的には独学だったと思われます。彼は至る所で師を求め、教えを乞うていたようです。例えば君子の教養として「楽」、つまり儀式での音楽を身につけなければなりませんが、あちこちの名人と呼ばれる人の門を叩いて教えを乞うたようです。ただ孔子は、必要な素養として「楽」を学んでいただけではなく、心底「楽」が好きだったようで、耽溺すると寝食を忘れるほどだったそうです。
 孔子が目指したことは、君主に仕え、彼が理想とする礼を基盤とした政治を行うことでした。しかし、当時は諸侯が自立して周王を顧みず、諸侯の内部でも有力者が実権を握って君主を顧みず、互いに争っていました。なかなか職に就けない中で、彼の名を慕って集まってきた弟子たちの教育に専念するようになります。いわば人類史上最初の私立学校の設立です。彼は弟子たちと共同生活をし、庭に教壇を作って毎日講義をします。講義は、誰にでも分かる言葉で話し、講義中に弟子たちと議論をし、弟子たちに自分で考えるように仕向けます。まさに彼は、優れた政治家である以前に、卓越した教育者でした。

ウイキペディア




















 孔子は一時魯の宰相となりますが、政治抗争に巻き込まれて亡命することを余儀なくされます。彼は、前497年から前484年まで13年間、弟子たちとともに、斉→衛→陳→宋→鄭→晋→陳→楚→衛へと巡遊の旅に出ます。その旅は失望と困難の連続でしたが、その間にも彼は弟子たちに教え続けました。そして頑ななまでに、周公旦を理想とした仁と礼に基づく政治を説き続け、それなりに敬意をもって迎えられますが、結局誰にも受け入れられませんでした。結局彼は、69歳の時故郷に帰りますが、すでに妻は死んでおり、職に就くこともできず、余生を教育と「春秋」の執筆に専念して過ごしました。   

 孔子には3千人以上の弟子がいたとされ、その中でも今日まで名が残った人々が沢山います。ここでは、ドラマで大きな役割を果たす3人の弟子を紹介したいと思います。
子路は、ドラマでは孔子の最初の弟子ということになっています。もと盗賊だったという話もあり、何しろ2500年も前の話ですからはっきりしませんが、かなり早い時期に弟子になったようです。彼は武勇を好み、幾分軽率な所があったため、しばしば孔子に叱責されます。性格は実直で裏表がなく、常に孔子に付き従いました。後に衛の高官として採用されますが、反乱が起きて殺され、その知らせを聞いた孔子は落胆し、その2年後に死にます。
顔回は、父が孔子の弟子だったため、幼少の頃からいつも父に抱かれて孔子の講義を聴いていました。彼は、孔子の弟子たちの中で隋一の秀才で、講義のメモのみならず、孔子の日常生活での会話までメモをとりました。温厚でよく気がつく人物で、つねに孔子の身辺にあって、孔子の身の回りの世話をしました。孔子は晩年に「春秋」を執筆し、顔回も手伝いますが、完成をみることなく死亡します。その時孔子は、「ああ、天われを滅ぼせり」と嘆いたとされます。顔回は40歳の若さであり、子路が死んでまもなくのことでした。二人の高弟を相次いで失った孔子は、しだいに気力を失っていきます。
子貢は、孔子より31歳年少で、商才に富み、孔子の弟子の中では最も豊かでした。また弁舌が巧みで、ある君主に「孔子はどのように賢いのか」と尋ねられた時、「知りません」と答え、「知らなくてよいのか」と問われると、「人は誰でも皆天が高いことを知っておりますが、では天の高さはどのようなものか、と聞かれたら皆知らないと答えるでしょう。わたしは孔子の賢さを知っておりますが、その賢さがどのようなものであるのかは知らないのです」(ウイキペディア)と、孔子の偉大さを天の高さになぞらえて答えたそうです。孔子は子貢の弁舌や商才を必ずしも好ましいとは思っておらず、しばしば子貢に苦言を呈しました。しかし子貢は、子路や顔回とともに孔子が最も頼りにし愛した弟子でした。孔子が死んだ後、弟子たちは3年間喪に服して孔子の墓を守りましたが、子貢はさらに3年間喪に服し、孔子の墓の近くに小屋を建てて墓を守ったとのことです。
孔子の妻は幵官(けんかん) 氏の娘ということ以外にはよく分かりません。孔子が19歳の時に結婚し、ドラマでは、孔子の足が並外れて大きく、普通の足袋を履けないため、孔子が放浪中にいつも足袋を作って送り続けたというエピソードが語られています。子は孔鯉(こうり)で、孔子より先に死にしたが、子思という子を残します。この子思が孔子の血統と儒教の教えを後世に残すことになります。漢代以降、歴代王朝により孔子の直系の子孫には特別待遇が与えられ、孔子の生地である曲阜(きょくふ)に孔廟が建てられ、人々の崇拝の対象であり続けました。1949年に中華人民共和国が成立すると、第77代の子孫は台湾の中華民国に移住し、現在第79代が存命中です。なお、曲阜は孔子に関わる遺跡が世界遺産に登録されており、観光の町として賑わっています。
 ドラマでは、孔子と弟子たちとの師弟愛を中心に描かれます。孔子は、常に多くの弟子たちのことを思い、それぞれの個性にあった教育を試みます。「恕(じょ)」とは、自分が欲しないことは他人に行わないという「思いやり」の心です。「仁」と「恕」との違いはよく分かりませんが、「仁」は孔子の思想の中核となる思想で、「論語」でもしばしば弟子が「仁とは何か」と質問しますが、尋ねる相手によって答えが異なっており、これを一言で説明するのは困難のようです。孔子の子弟たちへの思いやりには、心を打つものがあります。一方、いくら失敗をしてもめげない師に対して、多少あきれる弟子がいたとしても、それでも師のもとを離れることはなく、孔子もまた弟子たちを常に思いやり、指導し続けました。彼は人がいかに生きるべきかを語り続けます。それが現実と乖離していても、決して彼は語ることを止めませんでした。

孔子は学問を初めて一般に開放した人物ですが、国家が儒学を統治に利用しようとした時、儒学には統治者にとって非常に危険な側面をもっていました。専制君主にとって仁による統治など、ありえないからです。またその後、儒学にはさまざまな学派が生まれ、さらに科挙の科目となったため、きわめて難解な学問となっていきました。また、14世紀末に明を建国した洪武帝が、儒教道徳に基づく「六諭」を発布し、農村支配に利用しました。それは、「父母に孝順なれ。長上を尊敬せよ。郷里に和睦せよ。子孫を教訓せよ。各々職業に安んぜよ。非行をなすなかれ」の六箇条からなるもので、日本でも明治時代に「教育勅語」に採用されました。「六諭」で述べられていることが間違っているわけではないと思いますが、支配者に都合のよい部分だけがつまみ食いされており、支配者の義務については語られていません。しかし、支配者は仁をもって統治するというのが孔子の教えの根本であり、基本的にその部分が欠落しています。
 19世紀末に中国が列強よって分割され、1911年に清朝が滅亡し、中国そのものが存亡の危機に立たされます。そうした中で、1915年に始まった文学革命で、儒学こそ近代化を阻害する思想の象徴として批判されました。事実当時の儒学には、そうした側面がありました。また1960年代の文化大革命でも孔子が批判されました。しかし今日の中国では、儒教や孔子が見直されつつあるようです。単に孔子は、中国が生んだ偉大な思想家というだけではなく、物質文明が謳歌される今日の中国において、孔子の教えを学ぶ必要性が認識されるようになったからです。

 今までこのブログで書いてきた文章の中で、これが最も苦労した文章でした。キリスト教やイスラーム教については、もともと大した知識もなく、部外者として勝手に書くことができましたが、儒教については私は部外者とは言えず、また数えきれない程の研究書があります。私の本棚にも儒教に関する本が沢山ありまず、今回はそれらを検証することなく、テレビ・ドラマから得た印象だけで、この文章を書きました。儒教についての私の解説は間違っているかもしれませんが、それはあくまでも現段階での私個人の考えでしかないことを、ご理解ください。

孫子兵法大伝

2010年に中国で制作されたテレビドラマで、全35話からなります。最初に、混乱をさけるために、「孫子」という語について説明しておきます。まず、このドラマの主人公である孫武の尊称が「孫子」であり、さらに彼が著したとされる兵法書が「孫子」であり、最後に孫子の子孫とされる孫臏(ぴん)の尊称が「孫子」で、彼も戦国時代を代表する兵法家です。そして、ここで扱うのは孫武とその著書「孫子」です。

孫武については、長くその存在さえ疑問視され、彼の著書とされる「孫子」は孫臏が書いたのではないかとされてきましたが、1972年の発掘により孫臏の兵法書が発見され、その結果「孫子」は孫武の作であることと、孫武の実在の可能性が高くなりました。とはいえ、彼に関わるエピソードの多くは、後世の創作だと思われます。しかし、ここではドラマで扱われているエピソードの幾つかを、真偽はともかく、中国で長く伝わるエピソードですので、触れておきたいとおもいます。
孫武は、紀元前500年前後、つまり春秋時代末期から戦国時代初期に生きた人で、孔子とほぼ同じ時代の人です。斉の人だった孫武は、斉の政争に巻き込まれて呉に亡命しました。すでにこの頃孫武の兵法書は有名となっており、孫武は呉の君主闔閭(こうりょ)に仕えることを望んでいました。闔閭も当時楚との戦いで苦戦しており、すぐれた軍事指導者を必要としていましたが、彼を登用する前に実力を試そうとしました。そこで彼は宮中の美女180人を2組に分け、彼の寵妃二人をそれぞれの隊長にして、孫武にこれを訓練するように命じました。しかし女性たちの動きは鈍く、孫武の命令に従わなかったので、孫武は「命令に従わないのは隊長の罪である」として寵妃二人を切り殺してしまい、その後女性たちは命令に従うようになります。寵妃を殺された闔閭は不愉快でしたが、結局孫武を大将軍に任命します。この話が事実かどうか分かりませんが、400年程後に書かれた司馬遷の「史記」に載っているそうです。





















 次は楚との戦いです。楚は20万の大軍を擁する大国でしたので、呉は楚に抑圧されていた二つの小国と同盟し、6万の軍を率いて楚に侵入しました。孫武は、巧みな陽動作戦により楚の大軍を翻弄し、楚軍が疲れ切ったところで楚軍を攻撃して勝利します。その後呉軍は楚の都を占領しますが、楚の君主が逃亡し秦に援助を求めたため、呉軍は撤退せざるを得ませんでした。しかしこの戦いによって孫武の名声は大いに高まり、呉も大国として台頭します。なお、この頃孔子が楚を訪問していましたが、楚が戦争で混乱していたため、楚からの退去を余儀なくされました。
 次いで闔閭は、孫武の反対を押し切って越に攻め込みますが、惨敗して戦死します。闔閭の後を継いだ夫差は越を征服しますが、この頃から孫武の消息は途絶えます。ドラマでは、田舎に隠遁したことになっていますが、夫差に殺害されたという説もあります。いずれにしても、その後夫差は慢心し、結局呉は越によって滅ぼされることになります。この間の呉越の争いについては、このブログの「映画で中国史を観る 復讐の春秋(臥薪嘗胆(がしんしょうたん))」を参照してください。

ところで、孫子の兵法とはどのようなものなのでしょうか。従来、戦争の勝敗は天運に左右されると考えられていましたが、孫子は過去の多くの戦争を研究し、勝った理由、負けた理由を分析します。その結果生まれた孫子の兵法の基本は、「できる限り戦わない」ということのように思われます。「戦争は国家の大事であって、国民の生死、国家の存亡がかかっている。よく考えねばならない」と言います。つまり、単に「戦争」そのものを論じるのではなく、国家運営との関係で戦争を考えねばならないということ、つまり民の生活が安定し、戦争に耐えられるかどうかをよく考えて戦争をするか否かを決めなければならない、ということです。そして彼が最も重視したことは、謀略や周辺国との同盟などを通じて、「武力に訴えず、戦わずして勝つこと」でした。民の生活への配慮や戦争の回避などという点で、孫武の思想には本質的に孔子と共通するものがあるように思われます。しかし結局孫武の真意は理解されず、その卓越した戦術と謀略の手法のみが取り上げられ、国家間の争いはますます激しくなっていきます。
 孫子の兵法は東アジア世界に大きな影響を与え、日本でも古くから知られていましたが、中世における武士の戦いは個人の一騎打ちの積み重ねであり、兵法はあまり問題になりませんでした。しかし戦国時代に集団戦が戦争の中心になると、孫子の兵法が学ばれるようになります。甲斐の武田信玄が軍旗に、孫子の兵法の一部を採用して「風林火山」と書かせたのは有名です。風林火山とは、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)ですが、ただしこの話は後世の創作のようです。

 ヨーロッパにおける軍事書としては、プロイセンの軍人だったクラウゼヴィッツの「戦争論」が有名です。これは、ナポレオン戦争での経験をもとに、19世紀の前半に書かれたもので、兵法というより、「戦争とは何か」という問題を哲学的に論じたもので、「戦争は政治の延長である」という彼の主張は有名です。今日では、各国の軍事機関で「戦争論」と「孫子」は不可欠の教材とされています。クラウゼヴィッツより二千数百年も前に書かれた「孫子」が、今日もなお通用しているということは、驚くべきことです。

 このドラマは、孫子、老子、孔子が出会って語り合う場面で終わりますが、これ自体は創作です。老子は実在が疑問視されており、孔子が老子の教えを受けたという伝説が残っていますが、これも後世の創作だし思われます。老子は無為自然、つまり何もせず自然の状態がよいとし、孔子の礼を重視する思想を人為的すぎると批判したとされます。しかし人間が全員無為自然の状態となったら、社会は成り立ちませんので、これは実現不可能な究極の理想ということになります。また、孔子の仁による政治も理想であり、実際にそのような理想社会を築くのは困難です。一方、孫武も平和を希求して兵法を編み出しましたが、現実には戦乱はもっと激しくなりました。この三人は、それぞれの立場で理想型を生み出し、それはどれも実現しませんでしたが、今日に至るまで誰もが求める理想として生き続けています。


「墨攻」

2006年に制作された中国・日本・韓国・香港による合作映画で、酒見賢一の小説を映画化したものです。
この映画のタイトルの一部となった「墨」とは、戦国時代の思想家である墨子に由来します。墨子についての経歴はほとんど分かりませんが、兼愛・非攻を説いた思想家として有名です。墨子は、すべての人を公平に隔たり無く愛せよと主張し、儒教の愛は家族や君主のみを強調する「偏愛」であるとして否定します。また、当時の戦争による社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難し、他国への侵攻を否定しますが、防衛のための戦争は否定せず、土木、冶金といった工学技術と優れた人間観察という二面より防城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果を挙げました。
 墨子は孔子を上回る理想主義者で、孔子の時代以上に戦乱が続く当時にあって、彼の思想が受け入れられるはずがありません。しかし彼には城の防衛という特殊技術がありました。墨子の死後、墨家という集団が形成されます。この集団には特殊技術をもった人々がたくさんおり、防城を依頼されると、彼らがそれぞれの技術を駆使して城を守り、その技量は高く評価されていました。
 映画では、梁という小国が趙という大国に攻撃されようとしていたため、墨家に救援を求めました。ところが、当時墨家の内部で対立が起きており、墨家は救援を断りましたが、革離という墨者が上司の決定を無視して、一人で梁に向かいました。梁城は人口4千人程の小さな城で、そこに10万人の趙軍が迫っていました。革離は、まず民に人は皆平等であると説き、一致協力して城を守ろうと説きます。人々は彼を信頼するようになり、彼の命令に従います。革離は、城を守るためのあらゆる仕掛けを作り、敵軍を撤退させることに成功します。しかし、革離の評判が高まると、梁王は彼に国を乗っ取られるのではないかと疑うようになり、その結果革離は追われるようにして城を去っていきます。
 墨子は、頑ななまでに自説を守ったことから、「墨守」という言葉が生まれます。そしてこの小説の著者は「墨守」を転じて「墨攻」という言葉を造ったわけです。私は墨子や墨家についてほとんど知りませんでしたので、この映画を大変興味深く観ることができました。とくに「非攻」という言葉の裏に、防城のスペシャリスト集団という事実があることに驚きました。中国文明の奥の深さには、いつも唖然とさせられます。
 墨子は、戦国時代以降忘れ去られますが、近代になって彼の思想がキリスト教の思想と似ていることから、再評価されるようになったそうです。


2014年8月16日土曜日

インカを読む(2)

図説 インカ帝国



フランクリン・ピース・増田義郎著 1988年 小学館








































 またしても増田義郎氏の著書で、氏の持論である「四大文明」の概念を打ち壊すのだ、と主張しています。このことは、本書に掲げられたアンデス山脈の断面図を診れば明らかです。「四大文明」は大河の畔の平坦な土地に生まれますが、アンデス文明は標高4000メートルという垂直的な変化を利用して豊かな文明を築きあげました。この点だけでも、すでに大河を前提とする「四大文明」の概念は崩壊しています。ただ、地震の巣のような断面が気になりますが。
 さらに次のように述べます。「インカ帝国には、近代国家に見られるような複雑な官僚制や徴税組織がなかったが、簡素で無駄のない国家運営の組織があった。行政は、地方においては伝統的なクラカたちに任され、限られた数のインカの巡察使や地方長官が彼らを統率した。税はすべて労働によって支払われ、しかも徴発される労働者には、食糧、衣料などの見返り品が支給されたから、治める者と治められる者との、完全な互恵関係が存在した。ひとつの巨大な国家が、きわめて簡素で無駄のない組織により、しかも地方地方の自律性を認めながら能率的に機能していたことは、まさに驚くべきことではないか。……乞食や盗人が横行し、汚職が日常茶飯事となっていた当時のスペインから来た人々は、インカ帝国には、物乞いする物も飢える者もおらず、社会正義が行われていることに驚いたのである。」これは、少し褒めすぎではないかとも思います。まるで、中国の周の理想国家のようです。

 また、インカを征服したスペイン人たちは、当時の彼らの基準でインカを監察し、インカ帝国についての報告書を残したため、多くの誤解が生まれるようになりました。スペイン人たちの常識とは、戦いによって土地を奪い、その土地を私有物として領域支配を行うことでした。ところが、インカでは、土地ではなく労働力を支配し分配するというのが基本構造だったようです。何しろ4000メートルもの標高差では、地域によって栽培できる作物が異なっており、これらの作物をどのように生産し、配分するかが問題となります。インカ帝国は、これを達成するために形成された権力機構だったということです。この点でも、旧大陸とは権力の在り方が大きく異なっています。

 本書では、タイトルに「図説」とあるように多くの図版が用いられており、大変読みやすい本となっています。第一、図版が多いということは、文字が少ないということなので、それだけ読むのが楽ということでもあります。



インカ帝国の虚像と実像


染田秀藤著 1988年 講談社選書メチエ
インディオ文明については、スペイン人やメスティーソ、さらにスペイン語を習ったインディオなどが、多くの記録を残し、それがインカ帝国の虚像を生み出したのですが、これらの記録には、記録者が意識していなくても、さまざまなフィルターがかかっていることが判明してきました。まず、スペインの記録者はこの帝国の壮大さに驚嘆し、ローマ帝国との類似性などに思いを巡らし、広大な領域を均質的に支配した「インカ帝国」というイメージが生まれてきます。しかし、そもそもインカは皇帝の名称であり、この国の正式名称は「タワンティン・スウユ」で、「4つの邦」という意味です。それは文字通り、この帝国が4つの邦から成り立っているという意味です。
 17世紀初頭に著されたインカ・ガルシラッソの「インカ皇統記」は、「太陽が輝き、太陽の御子であるある王が定めた法のもと、正義が守られ、人々が平和に日々の暮らしを営んでいる国」というユートピア的イメージ定着させました。本書は、こうしたイメージが形成されていく過程を、多くの資料を用いて詳細に論じています。一方、そのユートピア的帝国を滅ぼしたのはスペイン人であり、これではスペイン人はユートピアを破壊した悪魔ということになってしまいます。

 この様な、インカ帝国は善か悪かというような低レベルの議論の中から、20世になってようやくインカ帝国の実像を解明しようとする動きが活発になってきます。しかし、今日もインカ帝国の実像がはっきりしたとは言えないでしょう。今後も、こうした資料の厳密な批判と発掘調査により、実像を解明していく必要がありますが、相当気の長い話になりそうです。本書は、かなり詳細な資料の分析を行っており、読むのに苦労しましたが、インカ帝国についてのイメージが、どのような基盤の上に構築されたものかを理解することができました。

 また本書は、冒頭で「古代アメリカ文明」という表現は不適切だと主張していますが、もっともなことだと思いました。そもそもインカやアステカやマヤの文明は「古代」なのでしようか。すくなくとも、ヨーロッパ的時代区分の意味では「古代」とはいえず、この場合単に「古い」とか「遅れた」という程度の意味しかないように思われます。むしろ事実に即して、「先スペイン期」というべきではないでしょうか。この意味においても、「先スペイン期」文明から世界史を見直す必要があるのではないでしょうか。

ペルーの天野博物館 古代アンデス文化案内

天野芳太郎 吉井豊著 1983年 岩波書店(岩波グラフィックス15)
著者の天野芳太郎氏は、1898年に生まれ、第一次世界大戦後実業家として世界各地を飛び回り、いろいろ苦労した後、第二次世界大戦後にペルーに落ち着き、実業家として成功するとともに、先スペイン期の文明に魅せられます。またまた、増田義郎氏が天野氏のプロフィールを寄稿しており、それによると天野氏は、インディオ文化を生み出したのが同じアジア人種として日本文明との親近感をもち、インディオ文化にのめり込んだとのことです。
1964年に天野氏はペルーのリマに、天野氏自身が集めたインカと先インカ期の博物館を建設しました。この博物館は、3階建ての小さな博物館ですが、入場料は無料です。さらに予約制で、天野氏自身が展示品の解説をしてくれます。天野氏は1982年に逝去され、1983年に天野氏自身が生前に行っていた解説が、多くの写真とともに一冊の本にまとめられたわけです。
アメリカ大陸の先住民はアジア系の人種であり、天野氏は同じアジア系人種の文化として、先スペイン期の文化に日本文化との共通性を感じたのだそうです。長く外国での生活を続けていると、こうしたものに心を惹かれるのだろうと思います。天野氏の説明は、展示されている器具を使っている人の心が伝わってくるようで、いまいまで見てきたようなインカの政治とか滅亡とかといった話ではなく、アンデスに生きる人々の生活が語られます。またアンデス地方の織物の展示も多く展示されています。この地方の織物は、綿花かアルパカの毛で作られるそうで、染色が美しく、ほとんど色落ちしないそうです。

天野氏は1982年に逝去されましたが、天野博物館は現在も続けられているそうです。

2014年8月9日土曜日

インカを読む(1)

 ここでは、私の書棚にあり、まだ読んでいなかったインカ帝国に関する本を、手当たり次第に読んでコメントを書きました。ここでコメントを書いた本の順番は、たまたま私が読んだ順番というだけで一貫性はなく、全体としてまとまりの悪い文章になっています。私には、これらを体系的に整理して書く能力はありません。

謎の帝国 インカ -その栄光と崩壊


 ジークフリード・フーバー著 1976年 三輪晴啓訳(1978) 佑学社

 著者はドイツ人で、ナチスにドイツから追われて中南米に亡命し、帰国後インカの研究を始めました。彼は、職業的専門化というわけではないし、執筆されてから40年もたっているので、どこまで信用していいのか分かりませんが、ノンフィクション風に書かれていて読みやすく、インカ帝国滅亡の過程をドラマティクに描いているので、大変面白い読み物でした。素人である私にとっては、よほど大きなねつ造がない限り、面白ければよいのです。

 伝説によれば、インカは12世紀頃に成立したことになりますが、クスコ周辺の小国が事実上大帝国インカに発展するのは、15世紀半ばのパチャクテクの時代で、彼の時代にインカの領土が拡大し、制度が整備されました。パチャクテクが1471年に死亡した時点で、帝国は南は現チリから北は現エクアドルまで、更に現在の国で言えばペルー、ボリビア及び北アルゼンチンの大部分も含んでいました。またその制度は、ほとんど社会主義的といえるようなもので、大変興味深いのですが、ここでは深入りしません。

パチャクテクの死後、息子のトゥパック・インカ・ユパンキが皇帝となりますが、彼は父帝の生存中から征服活動で活躍しており、インカ帝国発展の立役者の一人でした。彼は、即位後、帝国にとって残っていた最大の敵であり、現ペルー北部海岸地方を占拠していたチムー王国を征服します。1493年にトゥパック・インカ・ユパンキが死亡し、その子ワイナ・カパックが即位します。その前年の1492年にコロンブスがサン・サルヴァドル島に到達しますが、まだなんの影響もありません。ところが1527年に現在のコロンビア南部で、彼と数千人の兵士が天然痘と思われる病気で死亡します。ヨーロッパ人がやって来る前に、ヨーロッパ人がもたらした疫病がインカを襲った分けです。

インカの皇帝は、事実上この三人で終わります。その後ワスカルが皇帝となりますが、これに対して弟のアタワルパが反乱を起こし、3年の内乱の後アタワルパは兄との戦いに勝ち、即位すべく8万人の兵とともにクスコに向かいました。一方、ピサロは180人の手勢とともに1531年にペルーに上陸し、1532年にクスコへ向かうアタワルパに会見を求め、そのままアタワルパを捕虜としてしまい、1533年にアタワルパを処刑してしまいます。その後も傀儡皇帝が何人か置かれ、また反乱も起きますが、インカ帝国は事実上これによって滅亡します。


本書は、インカ帝国滅亡の過程を幾分ドラマティクに記述しており、大変面白い本でした。

アンデス高地都市 ラ・パスの肖像


樺山紘一編 賀集セリーナ 富永茂樹 鳴海邦碩著 1980年 刀水書房
 本書は、都市工学の研究のための実地調査に基づくもので、個々の論文にはあまり関心はなかったのですが、ルネサンス研究で知られる樺山紘一編となっていたので、読んでみました。
















 調査対象となったラ・パスは、市街地の標高が3600メートルですので、太陽に最も近い都市ということになります。人口は2008年現在で88万人弱で、事実上ボリビアの首都です。トウモロコシ栽培の上限が3500メートルだそうなので、ジャガイモ、オカ、ラッカセイなど地下茎を食用とする作物が中心となります。また、高度の高い寒冷地に住む人々にとってコカは不可欠のようです。アメリカの麻薬撲滅戦争でコカの栽培の停止を求められましたが、結局国内での使用に限れば栽培が認められたそうです。


ラテンアメリカは、スペインによる支配以来人種的な階級秩序がはっきりしています。まず植民地生まれの白人がトップにおり、つぎの混血のメスティーソがおり、両者は主に都市に住みます。最後にインディオがおり、彼らは主に農村に住むのですが、さらにチョロ(女性はショラ)と呼ばれる人々がいます。彼らは、少しだけ白人の血が混じっているか、都市に出てきたインディオで、彼らは18世紀に白人が着ていたような派手な服装をしています。少しでも白人階級に近づきたいという、インディオの思いを表現しているのでしょうか。

 本書を読む限り、ラ・パスは整然と人種分けされた平穏な町ですが、ボリビアの歴史そのものは、決して平穏ではありません。第一に何度もインディオの反乱が起こっているし、領土をめぐって何度も周辺の国と戦争をし、その度に領土を失ってきました。そのため政情は常に不安定で、19世紀初頭に独立して以来、実に188回ものクーデタを繰り返してきました。キューバ革命の後、アメリカが革命を阻止するために援助に力を入れたのもボリビアであり、ゲバラがラテンアメリカに革命を広げるための拠点として選んだのもボリビアだし、「映画でヒトラーを観て 敵こそわが友」でナチス残党がナチス第四帝国の建設を企てたのもボリビアです。本書が描かれた1980年代以降では、1984年に26000%の物価上昇というハイパーインフレに見舞われ、世界で最も貧しい国の一つとなっています。しかし本書の目的は3600メートルの高地都市の研究であり、ヨーロッパ人とインディオはそれぞれ自分たちの文化・伝統を守りながら、住み分けているということです。


ところで、ラテンアメリカ人がサッカー好きなのはよく知られています。サッカーの試合の判定をめぐって、隣国同士が国交を断絶したり、看板試合となると観客に死者がでたりします。そしてラ・パスにもサッカー場がありますが、何しろ標高3600メートルの位置にあり、空気は平地の3分の2ですから、他の国から来たチームは、ほとんど勝負になりなせん。このサッカー競技の熱狂が、人々のフラストレーションのはけ口になっているのかもしれません。そして、案外インカの繁栄の秘密の一つは、こんなところにあるのかもしれません。標高の低いところにある国は、標高3600メートルの高地を大軍を率いて攻撃するのは困難なのではないか、と思うのです。


トゥパク・アマルの反乱 血塗られたインディオの記録


寺田和夫著 ちくま書房 1997(初版1964)
 著者は歴史学の専門家ではないのですが、その分使用される固有名詞も少なく、大変読みやすい本になっています。固有名詞がやたらに多いと、名前が覚えられなくて、素人は読むのに苦労するものです。

 1533年にアタワルパが処刑されたのち、ピサロはアタワルパの兄弟とされるマンコ・インカ・ユパンキを傀儡皇帝としますが、彼は間もなく脱走し、山地にこもってスペイン軍に抵抗します。1571年にトゥパク・アマルが皇帝に即位しますが、翌年スペイン軍の攻撃により捕らえられ、処刑されました。先住民の全群衆が悲しみの叫び声を挙げて泣いたと伝えられます。

それから200年近くたって、もう一人のトゥパク・アマルが登場します。この間のスペインによるラテンアメリカ統治の物語は、涙なくしては語れぬ物語です。この時代のスペインによる統治システムが比較的分かりやすく書かれており、スペイン人がいかに強欲にインディオから搾取していたかが書かれています。国王は、時々インディオ保護のための命令を出しますが、ほとんど効果はなく、また国王にも断固として命令を実行する意図もありませんでした。インディオ統治の末端の役人は、実は無給であり、自分の才覚で稼ぐことになっており、当然任期中に最大限にインディオから搾り取ろうとします。

古い時代にあっては、政府から支給される給料は非常に安いことが多いようです。例えば江戸時代の同心の給料は非常に安く、商人などから時々金品を受け取っていましたが、これは護ってやる代償として受け取っているのであり、賄賂とはいえないでしょう。また中国の高級官僚の給料も非常に安く、それでも豪勢な生活をしていますが、これも地位を利用して自分の才覚で稼いでいるわけです。こうした行いは度を超さない限り容認されており、もともとそれを前提とした給与体系だったといえるのではないでしょうか。ラテンアメリカの場合、はるばるスペインからやってきて、中央の目がまったく届かない遠隔の地で、役人たちは任期中にできるだけ多くを稼ごうとするため、インディオから徹底的に搾り取ろうとします。したがってインディオの怨嗟の対象は、副王やスペイン国王ではなく、下級役人ということになります。

トゥパク・アマルは、本名をコンドルカンキといい、トゥパク・アマルの子孫と称してトゥパク・アマル2世を名乗ります。彼はかなり高い教育を受け、ケチュア語・スペイン語・ラテン語に通じており、インディオからも厚い信頼を受けていました。そして1780年彼は反乱を起こしました。すでに前年にフランス革命が勃発しており、世の中は大きく変わろうとしていた時代でした。反乱はたちまちアンデス全体に拡大し、はじめは反乱軍は連戦連勝を続けていましたが、インディオたちが戦いや火器の扱いに慣れていないということもあって、結局敗北し、トゥパク・アマルは捕らえられて処刑されます。この間の事情を著物は怒りを込めて記述しています。

クリオーリョと呼ばれる人々は、現地生まれの白人で、スペインから送られてくる役人には反感をもっており、当初トゥパク・アマルの反乱にかなりのクリオーリョが参加していました。しかし、彼らの多くは地主であり、多くのインディオを農奴として使役しているため、インディオの過激な反乱に危機感をもつようになります。彼らは、このままスペインの横暴な支配を許し、インディオの反乱をさらに過激化させ、インディオ中心の独立が達成される前に、クリオーリョ主体でスペインから独立し、インディオに対する支配を強化すべきだと考えました。


その思いを決定的にしたのは、1804年における黒人によるハイチの独立で、この事件にクリオーリョは震えあがりました。この点については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第23章 綿織物とパックス・ブリタニカ―ハイチの悲劇」をご覧ください。こうして19前半にクリオーリョ主体での独立が達成されていきます。従来スペイン国王は、あまり効果がなかったとはいえ、一応インディオ保護の政策を行っていました。しかし、今やクリオーリョにとって、国王の介入もなくなり、インディオをどのように使役しても構わなくなった分けです。こうしてインディオの夜明けは遠のき、今日もなお夜明けがきているとは言えません。

大帝国インカ


 ミロスラフ・スティングル著 坂本明美訳 1982(ドイツ語版1978) 佑学社


 インカ自身は文字資料を残しませんでしたが、インカ帝国を征服したスペイン人による記録や、インカ人でスペイン語を習得した人々による記録が残っています。なかでも、インカ王家の娘とスペイン人との間に生まれたインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガが、17世紀の初め頃、母から聞いた話などをスペイン語で書き表した「インカ皇統記」が有名です。












インカの農業風景(ワマン・ポマ)



またインカ・ガルシラーソとほぼ同じ頃、ワマン・ポマが『新しい記録と良き統治』(『新年代記』)という本を著します。彼はスペイン人のもとで働いていたのですが、スペイン人の非道な統治に怒り、インカ各地に放浪の旅に出ます。この本は、1000ページを超え、前半が古代からスペイン人征服までのアンデスの歴史を綴り、後半がスペイン支配下でインディオが受けた虐待行為や搾取の告発とその改革案を綴っています。この本の特異な点は、500ページ近い挿絵が入っていることで、つまり一種の漫画なのです。一見稚拙に見える挿絵ですが、細部まで非常に丁寧に描かれており、その記録的な価値は何物にも代えがたいものがあります。しかしこの本は、17世紀初めにスペイン国王に送られますが、その後行方不明となります。ところが、20世紀の初めにドイツの学者がデンマークの図書館で、この本を発見します。この本がどのようにしてデンマークに渡ったのかは不明ですが、30年程後にようやく公刊され、大変注目されました。ワマン・ポマは、スペイン到来以前と以降とのインカの変化を、大量の挿絵を使って目に見えるように描き、スペインの支配の残酷さを示したかったようです。本書は、このワマン・ポマの挿絵を50枚以上用いており、大変興味深いものですが、できれば絵の解説があるとよかったと思います。


 第3章の「インカ帝国の生活」は庶民の暮らしや農業の仕方が詳しく書かれており、大変興味深いものでした。そこで、著者は「ジャガイモとコカこそ、古代ペルシアのインカ族が現代人にのこした大きな贈物だったと」と言っていますが、確かにそうかもしれません。寒冷地でも栽培できるジャガイモは、ヨーロッパの貧しい農民にとって不可欠の栄養源となったこと、コカインは現在でも医療用に不可欠の薬です。また文字がなかったにもかかわらず(この点については異論もがあるようです)、文学が発展し、医学も分野による不均衡はあるとしても、相当発達していたようです。必ずしも文字を知らなくても、文明は発展しうるということを証明しているように思います。

「敗者の想像力―インディオのみた新世界征服」


 N.ワルシャテル著 小池祐二訳 1984(原著1971) 岩波書店

 本書はスペインの征服と滅び行くインディオ社会の有様を、インディオの側から見つめています。前に述べた「大帝国インカ」で用いられたワマン・ポマの『新しい記録と良き統治』の挿絵は、スペイン人到来以前のものですが、本書では到来以降の挿絵が多数用いられています。また、同時代のインディオが残した資料や、今日まで残るインディオの民族舞踏の中に見られるインディオの心情の痕跡などが記述され、太平興味深い内容でした。なお、本書には増田義郎氏の解説が掲載されており、著者はアナール学派に属するそうです。

インディオ文明はなぜこれほど簡単に滅びてしまったのか、という問いは繰り返し行われてきました。個別的にさまざまな理由があるにしても、あまりに突然に、まったく未知のものが到来したため、彼らは茫然としてしまったようです。日本に黒船が到来した時、日本で大騒ぎになったとしても、日本はオランダ商館から欧米の事情については定期的に聴取しており、まったく未知のものが到来したわけではありません。まさにスペイン人の到来は、突如まったく異質な宇宙人の到来に匹敵します。インディオたちは、この不可解な事件を説明し、自分たちの過酷な運命を、さまざまな伝説や予言を引き出して説明しようとしますが、その多くは後で造られたものと思われます。また、スペインの宣教師たちが、自分たちを正当化するために作ったものも含まれているともされています。

 著者は次のように言います。「どんな社会にも、それ独自の論理によって律せられた精神構造や世界観が存在する。歴史上の出来事も、自然現象同様、おのおのの文化に固有の神話や宇宙進化論の説明の枠組みのなかに位置づけられている。この合理的な秩序化にはみ出る者は、すべて超自然の力、または神の力が俗世に乱入してきたものとされる。その結果未知なるものに触れて日常生活の合理性が突き崩され、不安が沸き起こってくるのである。」けっして野蛮なインディオが高度の文明のスペイン人に敗北したのではないということです。

 しかし、著者は結局インディオ文明が滅び去ったのではないとして、以下のように主張します。文化は部分的な要素がただ並んでいるだけで成り立つものではなく、一つのまとまりをなしていなければならない。土着の人々がヨーロッパ文化から分離された断片的な要素を採り入れたからといって、それは真の同化を意味しない。……スペイン人による征服と植民の結果生じた危機は深刻なものではあったが、インカ時代の社会組織の重要な残存はいくつか生きながらえた。社会構造が瓦解しないとき、インディオは、部分的には外来文化に反応しながらも、伝統にたいして度しがたいまでに忠誠を示した。


 本書は、主に1530年から1570年にかけてのペルーを扱っています。インカ帝国の社会については、今まで読んだ本にも詳しく書かれていますが、従来の歴史学のどのような用語を用いても、説明しきれません。著者は、さらに民俗学の手法を用いて説明を試みていますが、それでも説明しきれているとは思えません。むしろ古代アメリカ文明を基準にして、従来の文明の捉え方を洗いなおした方がよいのではないかと思います。


「インカの反乱 被征服者の声」


ティトゥ・クシ・ユパンギ著 染田秀藤訳 1987年 岩波文庫


ティトゥ・クシはマンコ・インカ・ユパンキの子で、父や兄弟たちとスペインに対する反乱を行います。彼は、1570年にスペイン国王フェリペ2世に、インカの実情を書いた文書を渡し、翌1571年に天然痘により死亡します。しかしこの文書は長い間その存在が無視され、忘れさられ、19世紀後半にようやく再発見されました。その内容は、インカの側から見たインカ帝国の歴史、スペインの侵略、インカ人の心情が語られており、貴重な資料です。