2014年8月3日日曜日

炎のアンダルシア

この映画は、このブログの「映画でイスラーム世界を観る」の続編で、時代的には「ロスト・キングダム」と「ハーフェズ ペルシャの詩」の間に入ります。
1997年制作のエジプトの映画で、舞台は12世紀におけるスペインのコルドバ、主人公はイスラーム世界が生んだ偉大な哲学者の一人であるイブン・ルシュド(ラテン名アヴェロエス)です。この映画を理解するには、幾つかの背景を知っておく必要があります。
まず、スペインの歴史から述べたいと思います。スペインは、地理的に見て、ピレネー山脈を隔ててヨーロッパ大陸とつながり、北と西は大西洋、東は地中海に臨み、南は狭い所で幅14キロのジブラルタル海峡を隔ててアフリカに繋がります。まさに民族と文明の十字路ともいうべき位置にあります。イベリア半島は紀元前3世の終わり頃ローマの支配下に入り、この時代に言語や文化がラテン化していきます。5世紀にゲルマン民族が侵入し、この間にローマ・カトリックを受け入れますが、8世紀初頭にイスラーム教徒のアラブ軍がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵入して半島の大半を占領し、以後800年近くイベリア半島はイスラーム勢力の支配下に置かれます。この長期に及ぶイスラーム教徒による支配がスペインの歴史に大きな影響を与えたことは、言うまでもありません。
スペインに侵入した時のイスラーム世界はウマイヤ朝の時代でしたが、8世紀半ばにウマイヤ朝が滅びてアッバース朝が成立すると、ウマイヤ朝の一族がスペインで自立して後ウマイヤ朝となります。以後、後ウマイヤ朝は11世紀まで存続しますが、この間に首都コルドバは東のバグダードとともに、イスラーム文明の中心の一つとして繁栄します。しかし文明の繁栄は宗教の形骸化を生み、その結果北西アフリカのベルベル人の間に宗教的な革新を求める動きが高まり、ムラービト朝が成立します。当時イベリア半島では、後ウマイヤ朝の滅亡後、幾つもの勢力が乱立して対立を繰り返しており、さらにキリスト教勢力も力をつけつつありました。そこで、イベリア半島のイスラーム教徒は、ムラービト朝に事態の収拾を要請し、その結果ムラービト朝がイベリア半島に進出します。ところが、やがてムラービト朝でも宗教が形骸化したため、北西アフリカで新しい宗教運動が起きてムワッヒド朝が成立し、イベリア半島にも進出します。この映画の舞台は、12世紀におけるムワッヒド朝時代のイベリア半島です。

ウイキペディア



































次に、日本語のタイトルにあるアンダルシアについて述べたいと思います。狭義のアンダルシアとは、今日のスペイン南部にあるアンダルシア自治州のことですが、広義にはイスラーム教徒の支配下にあるイベリア半島のことで、イスラーム勢力からみれば、一時はイベリア半島のほとんどがアンダルシア(アル・アンダルス)でした。ここでは、狭義のアンダルシアについて述べます。アンダルシアは乾燥し、まばゆい太陽の輝く典型的な地中海性の気候で、シェリー酒の産地で、フラメンコと闘牛の発祥地であり、われわれがイメージする最もスペイン的な土地です。アンダルシアは最後までイスラーム教徒の支配が残った地域で、さまざまな民族が混在していました。在来のスペイン人はもちろん、征服者であるアラブ人、後に侵入してくるベルベル人(ムーア人)、ジプシー(*ロマ)、さらにユダヤ人がいました。イスラーム教は宗教的に寛大だったため、多くのユダヤ人がさまざまな分野で活躍していました。後に彼らはスペインから追放され、セファルディムと呼ばれて各地に散って行きますが、これについては「映画でヒトラーを観て 戦火の奇跡」を参照して下さい。
  「ジプシー」は差別用語であることから、しばしば「ロマ」という表現が使用されますが、「ロマ」はジプシーの一種族名であるため、「ロマ」を使えば他の種族を差別することになります。したがって、ここではあえて「ジプシー」という言葉を使用したいと思います。
 アンダルシアには歴史的に重要な都市が3つあります。一つはセビリアで、16世紀以来アメリカ大陸との独占的な貿易港として繁栄しました。もう一つはグラナダで、イベリア半島のイスラーム勢力の最後の拠点であり、スペインのイスラーム文化の粋ともいうべきアルハンブラ宮殿が建てられますが、1492年にグラナダはキリスト教勢力により陥落します。そして最後は、この映画の舞台となったコルドバです。コルドバは、後ウマイヤ朝の首都としてバグダードとともにイスラーム文化の中心地として繁栄し、10世紀には世界最大の人口を擁する都市となります。11世紀に後ウマイヤ朝が滅びた後にも、コルドバは文化の中心であり続けます。そしてそのコルドバで、この映画の主人公イブンルシュド(アヴェロエス)が誕生します。
 イブン・ルシュドは、哲学者にして医学者であり、また法学者としてコルドバの大法官にもなります。しかし、何と言っても彼は哲学者として、ヨーロッパ哲学に圧倒的な影響を及ぼすことになります。イスラーム哲学は古代ギリシア哲学の影響を強く受けており、イブン・ルシュドは何よりも、古代ギリシアのアリストテレス哲学の註解者として重要な役割を果たします。私には、彼の哲学を論じる能力はありません。ただ映画との関係で一言いえば、従来の神秘主義的な直観(新プラトン主義)や狂信・迷信に対して、人間の知性を重視したということです。神の存在さえも知性で証明できる、ということだと思います。このような考え方は、当然異端視されますが、やがてこの思想がスペインからヨーロッパに伝わり、ヨーロッパの思想に決定的な影響を与えることになります。ヨーロッパの哲学はイスラーム哲学から学んで生まれたのであり、ヨーロッパは古代ギリシアのアリストテレスをイスラーム哲学、とりわけイブン・ルシュドから学んだのです。

 映画は、南フランスのある町で、イブン・ルシュドの本を翻訳した人物が異端として火刑となり、イブン・ルシュドの本も焚書(焼却)となっている場面から始まります。そしてこの異端者の息子ジョセフは、イブン・ルシュドから学ぶためにスペインに向かいます。しかしスペインでも、イブン・ルシュドは苦境に陥っていました。スペインでも狂信者たちがイブン・ルシュドの著作を異端であると叫んでいたからです。彼らはイブン・ルシュドを陥れようといろいろ手を尽くし、次第に彼は追い詰められていきます。
 カリフはイブン・ルシュドの親友でしたが、やがて狂信者の諫言に惑わされ、イブン・ルシュドの著書の焚書を命じます。ジョセフはそれを察知して師の著書を守り、他の弟子たちとともに師の膨大な著書の写本を三部つくります。当時はまだ印刷機がなかったので、すべて書き写すことになります。そして一部はフランスに、もう一部はカイロに送ることにしました。当時バグダードは衰退し、イスラーム文明の中心はカイロに移ろうとしていました。ジョセフは著書をヨーロッパに持ち込もうとしますが失敗し、再び師のもとに戻ります。そして、結局イブン・ルシュドの著書は焚書となり、彼はモロッコに追放されます。映画では、最後にカリフが過ちに気づいてイブン・ルシュドを許したところで終わりますが、実際には彼は追放先のモロッコで死にます。
 この映画の原題は「運命」ですが、日本では分かりにくいということから、「炎のアンダルシア」という名に変更されました。実は、私もこの映画での「運命」の意味がよく分かりませんでしたが、「炎のアンダルシア」というタイトルの方がもっと分かりません。この映画には色々な側面が同時並行的に語られ、全体像を整合的に把握するのが難しい映画でした。映画はフランスでの焚書に始まり、コルドバでの焚書で終わります。しかし、彼の著書はイスラーム世界に広く伝えられ、さらに13世にはヨーロッパで翻訳されて、ヨーロッパの思想に絶大な影響を与えます。これが「運命」なのかもしれません。
 彼は、何よりも知性を重視し、思想・言論の自由を主張しましたが、そのために狂信者たちに目の敵にされます。こうしたことは、彼の時代だけでなく、世界中のどの時代にもあることです。何よりもこの映画が制作された当時のエジプトがそうでした。1990年代のエジプトで、イスラーム主義の過激派が国内で政府の役人や外国人観光客らを標的にしたテロを続発させていました。観光客を標的にしたのはエジプトの重要な歳入源である観光収入をテロによって激減させ、経済に打撃を与え、それに伴う政府への不満をあおって政府を転覆させようという意図によるものです。1997年にはカイロのエジプト考古学博物館の前に止まっていた観光バスが襲撃され、ドイツ人観光客ら10名が死亡、さらに2か月後にルクソールで起きた事件では、犯人たちが観光客に銃を乱射し、日本人10名を含む61名の観光客が死亡しました。この映画には、こうした狂信的な集団に対する批判も込められていると思われます。そしてこの映画の最後の画面に、「思想には翼がある。その羽ばたきは誰にも止められない」という字幕が掲げられます。そして、これが「運命」なのかもしれません。

 ドラマにはさまざまな伏線があります。イブン・ルシュドの弟子たちの物語、宰相の陰謀、ジプシーの女と王子との恋などです。さらにインド映画「ムトゥ」のような音楽とダンスが何度も登場します。それは「ムトゥ」のように底抜けに明るいものではなく、哀愁に満ちているとともに、民衆の活力に満ちた歌とダンスです。「映画でイスラーム世界を観る アフガン零年」でみたように、今日も含めて狂信的なイスラーム主義者たちは文化を否定する傾向がありますが、文化というものは人間の生活に不可欠なものなのだ、と言いたいのではないかと思います。そして、この歌とダンスが、さまざまな事件や複雑な人間模様を結びつける接着剤となっているように思いました。
 イブン・ルシュドは1198年に死に、1236年にコルドバはキリスト教勢力であるカスティーリャ王国により占領されます。そしてスペインは、イブン・ルシュドの思いとは異なり、宗教的な狂信へと走り、スペインからイスラーム教徒もユダヤ教徒も追放し、非妥協的な宗教的浄化政策を推進するようになります。これも運命かもしれません。しかし、この時代に建てられた多くの建造物が、コルドバ歴史地区として世界遺産に認定され、今も当時の面影を残しています。

 この映画は、幾分分かりにくいとはいえ、非常に面白い映画でした。特に歌とダンスには、心を揺さぶられるものがあり、一見の価値があります。


「エル・シド」

 1961年のアメリカの映画で、スペインを舞台とした武勲詩を題材としています。「炎のアンダルシア」と内容的には直接関係ありませんが、イブン・ルシュドより100年程前のイベリア半島を舞台としていますで、ここで取り上げてみました。
















 11世紀末のイベリア半島の情勢。地図はグーグル・アースを用い、境界線は私が書いたので、いいかげんです。当時はまだ、ポルトガルという国もスペインという国も存在しません。ポルトガルが建国されたのは12世紀で、スペインは15世紀後半にカスティーリャ王国とアラゴン王国が合併して成立しました。またマドリードが首都となるのは16世紀です。












イベリア半島では、1031年に後ウマイヤ朝が滅びると、イスラーム教勢力は小王国に分裂し、それに対して北部でキリスト教勢力が復活してきます。キリスト教勢力でも、色々な勢力が興亡・合併・分裂を繰り返しますが、この映画の舞台となったのはカスティーリャ王国です。カスティーリャ王国は1037年に成立し、イスラーム勢力が混乱しているのに乗じて領土を広げ、1085年にはトレドを占領し、さらに領土を拡大しようとします。トレドはコルドバと並ぶイスラーム文化の中心地の一つで、カスティーリャ王国がこれを手に入れたことで、キリスト教世界は高度なイスラーム文明を吸収する窓口を手に入れたことになります。トレドには一大翻訳所が設けられ、大量のアラビア語文献がラテン語に翻訳されるようになり、それがヨーロッパにもたらされたわけです。
このようなカスティーリャ王国の勢力拡大に対し、分裂していたイスラーム勢力は、当時北アフリカで勢力を拡大していたベルベル人のムラービト朝に援助を求めます。それに応えてムラービト朝軍はイベリア半島に上陸し、1086年にカスティーリャ軍を破ってキリスト教勢力をトレドまで後退させます。この結果、トレドを境にイスラーム勢力とキリスト教勢力が対峙することになりますが、エル・シッドが活躍したのは、こういう時代でした。「エル・シッド(エル・シド)」とは、アラビア語のアンダルス方言で「主人」を意味し、この時代には身分の高い人物への敬称として用いられていたそうです。彼の本名はロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールで、カスティーリャ王国の武人でした。
 エル・シッドについては、12世紀後半に成立した「わがシッドの歌」という武勲詩があり、ヨーロッパでは非常によく知られた人物です。ただ、この武勲詩と映画の「エル・シド」と、史実として知られるエル・シッドとの間には微妙な違いがあり、ここでは史実として知られるエル・シッドについて述べたいと思います。武勲詩では、エル・シッドはイスラーム教徒と戦う英雄であり、君主に忠実で正義を貫く騎士として描かれます。しかし当時のイベリア半島は、イスラーム勢力もキリスト教勢力もばらばらに分裂しており、時にはイスラーム勢力の君主がキリスト教勢力の君主と手を組んで、共通の敵(イスラーム教徒であろうとキリスト教徒であろうと)と戦うということは、よくあることでした。イスラーム教徒とキリスト教徒はいつも戦っていたわけではなく、普段は親しく交流が行われていたのです。
 ロドリーゴは、カスティーリャ王国のサンチョ2世に仕えていたのですが、国王が暗殺され弟がアルフォンソ6世として即位すると、彼はアルフォンソ6世がサンチョ2世を暗殺したのではないかと疑ったため、彼はアルフォンソ6世によって追放されます。この間に彼はイスラーム教徒の領主を助けたため、この領主からエル・シッドと呼ばれるようになり、追放後彼はこの領主のもとに身を寄せます。やがて彼のもとに多くの騎士が集まり、イスラーム教徒などとともにバレンシアを攻略し、彼はそこの領主となります。映画では、ベルベル人(ムーア人・ムラービト朝)がバレンシアを攻撃し、戦闘中にエル・シッドは重傷を負い、彼の遺言で死後彼の遺体を馬に乗せて軍隊の先頭に立って走らせます。その結果ベルベル人は恐れをなして逃げていく、という話です。しかし事実は、すでに生前から「わがシッドの歌」が出回っており、彼はそれを嬉しそうに聞きながら死んでいったということです。

 あまり感銘を受ける映画ではありませんでしたが、当時のスペインの状況を知る上では、大変参考になりました。エル・シッドが死んだのが1099年、1126年にイブン・ルシュドが誕生し、1198年に死にます。この間イベリア半島北部でキリスト教勢力が拡大し、アンダルシアでは、北アフリカからのベルベル人が進出し、キリスト教勢力と対峙します。イベリア半島の勢力図が大きく変わろうとしていた時代でした。


















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