2014年9月12日金曜日

映画で日本史上の反乱を観て

 ここで紹介する三本の「反乱」に関する映画には、相互にまったく関係がありません。たまたま私が過去に観たというだけのことです。

伊賀の乱 拘束

 伊賀の乱とは、織田信長軍の攻撃に立ち向かった天正伊賀の乱のことで、この事件については、第一次伊賀の乱を扱った「天正伊賀の乱」(2005)、第二次伊賀の乱を扱った「戦国 伊賀の乱」(2009)、第二次伊賀の乱で滅亡直前の一コマを扱った「伊賀の乱 拘束」(2007)がありますが、私が観たのは「伊賀の乱 拘束」です。
 
 まず、忍者について一言触れたいと思いますが、ここでは時代劇に登場するような忍者を創造しないで下さい。孫子以来、戦争では諜報・謀略活動が不可欠になっており、特に戦国時代になると、支配者はそれに熟練した人々を、個人や集団で雇うようになります。一方、中世以来農村の権利・権力関係は複雑に入り乱れていたため、百姓たちは水利や自衛などのために地縁的な結束を強め、その範囲内に住む惣(すべて)の構成員が参加する惣村が形成されるようになり、さらに幾つかの惣村が連合して惣国となるともあります。そして、南北朝時代以来の相次ぐ戦乱の中で、自衛のために武術を習得する農民が現れ、彼らは時には権力者に反抗したり、時には傭兵として雇われたりします。こうした集団が、後に忍者と呼ばれるようになったと思われます。
伊賀や甲賀、さらに大量の鉄砲で武装した根来衆(ねごろしゅう)や雑賀衆(さいかしゅう)、さらに長野市の戸隠山の修験者が忍者になっていくような場合もあります。これらの集団を厳密に「惣」と呼ぶことができるかどうかは知りませんが、戦乱の中でさまざまな集団が形成され、そうしたものの中に伊賀の忍者も存在したわけです。ちなみに戸隠流派の格闘術は今日まで継承され、アメリカのCIAFBIの情報部員と捜査官は「戸隠流格闘術」の研修と訓練を行っているとのことです。
 
 1579年に織田信長の次男織田信雄(のぶかつ・北畠信意)は、信長に無断で8000の兵を率いて伊賀に侵攻しましたが、撃退されてしまいます。これが第一次天正伊賀の乱です。その後信長は忍者の危険性を悟り、甲賀と同盟し、伊賀に内通者を得て、1581年に4万の大軍で伊賀を攻撃しました。これが第二次伊賀の乱で、伊賀は信長に屈服します。そしてこの映画は、伊賀の敗北直前の一コマを扱っています。舞台は伊賀山中の洞窟、登場人物は5人だけです。そしてヒロインの佐和は、最初から最後まで縛られたままでした。だからサブタイトルが「拘束」なのでしょうか。あるいは他に意味があるのでしょうか。主人公の多岐野は、密命を受けて甲賀の密偵を探索するために、この洞窟にきました。そして5人の虚々実々のかけ引きが展開され、結局生きて洞窟を出たのは主人公だけでした。この映画の内容はそれだけで、時間も65分と短い映画でした。いわば、極限状態での心理戦を描いたものだと思われますが、それなりに面白く観ることができました。
 1582年に本能寺の変が起きて信長が死にます。当時堺に滞在していた徳川家康は急遽脱出することになりますが、主要通路は明智光秀に抑えられていたため、伊賀を越えて脱出することになりました。「神君伊賀越え」です。その際伊賀が家康の脱出を助けたことから、以後家康によって厚遇されることになります。こうして、太平の時代に忍者が姿を消していく中で、伊賀の忍者は生き残ることに成功します。


郡上一揆

2000年に制作された映画で、次に見る「草の乱」と同様に、緒方直人が主演しています。郡上一揆とは、江戸時代中期の1754年から郡上藩で四年間続いた農民一揆で、映画はこの反乱をかなり史実に忠実に描いています。映画の政策にあたっては、地元を中心にのべ3000人以上のエキストラがボランティアで参加したそうです。

 まず、この一揆が起きた背景について述べたいと思います。江戸幕府は、農業を経済の基盤とする政権として発足しましたが、貨幣経済の進展などによる価格上昇などにより、はやくも17世紀後半には財政難に陥ります。18世紀前半に徳川吉宗が享保の改革を行い、新田開発や増税、さらに自らの質素倹約などにより財政再建を図りますが、基本的には農業を基盤とした政策で、増税は農民を苦しめ、各地で農民一揆が頻発するようになります。郡上一揆は、こうした時代を背景として起きました。名君と称えられた徳川吉宗の負の遺産が、表明化しつつあった時代です。
 郡上藩は、岐阜県郡上市にある小藩で、周りを山に囲まれて農業的に貧しく、つねに財政難に悩まされていました。当時の藩主は金森頼錦(かなもり よりかね)で、彼は文化人としても優れ、また幕閣の出世コースにのっていたため、多額の経費がかかりました。そこで藩は、いろいろ口実をつけてしばしば臨時の税を徴収していたのですが、それでも財政状態は一向に改善せず、また農民の不満も高まっていました。そうした中で、藩は徴税方法を検見(けみ)法に変更すると通告したのです。徴税方法を変更するには、幕閣の要人の同意が必要ですが、頼錦は要人との交際が広かったため、これを利用して変更の承認を取り付けました。そしてこれが後に重大な問題を引き起こすことになります。

 ところで、農民からの税の徴収方法には、税額が固定された定免(じょうめん)法と生産量に応じて税額を決める検見法があります。徴収する側にとってもされる側にとっても、どちらの徴収法にも一長一短がありました。吉宗は、検見法から定免法に変更することによって、税収の安定を図りました。この徴収方法は、不作の時は農民にとって負担が重くなりますが、豊作の時は余剰を蓄えることができます。一方、検見法は不作の時には税額が減るため農民は救われますが、徴収する側にとっては税収が安定しません。したがって、どちらが良いのかは一概には言えないのですが、検見法にはどちらの側にとっても問題がありました。徴収する側にとっては、それぞれの田における収穫量をチェックするために、膨大な手間がかかります。徴収される側にとっては、役人たちが恣意的に収穫量を多く見積もる可能性があります。そして財政難に喘ぐ郡上藩の場合、徴収方法の変更の意図は明らかでした。

 映画は、定次郎(緒方直人)という父親になったばかりの若い農民に焦点を当てて、一揆の経過を詳しく描き出しています。この一揆が特異なのは、暴力的行為は一度起こったのみで、最初から最後まで非常に統制がとれていたことです。それに対し藩は暴力で農民を脅し、幕閣の一部と結んで農民の不満を隠ぺいし、検見法を押し通そうとしました。これに対して農民の怒りが高まっていきますが、映画はその怒りを定次郎という若い農民を通して描き出します。一揆の経過はかなり詳細に描かれ、最後は将軍に直接訴えるべく、死罪を覚悟で目安箱への箱訴を行います。
 当時の将軍は吉宗の長子であった徳川家重で、彼には言語障害がありましたが、知能が劣っていたわけではなく、また有能な側近がいました。家重の言葉を唯一聞き取ることができた大岡忠光や、後に一時代を築くことになる田沼意次などです。家重は、箱訴で郡上藩の紛争を知ると、田沼らに徹底的な調査を命じます。その結果、これに関わった幕府の要人が多数処分されるとともに、郡上藩主金森頼錦は改易となり、定次郎を含め一揆に参加した多数の農民も処刑されました。一揆により藩主が改易された例は過去に一度あったそうですが、幕府の要人まで処分された例はないそうです。その意味において、郡上一揆は幕府の要人や藩主の理不尽な行為に対して、農民の怒りが勝利した稀有な例です。
 もちろんその背景には、社会の変動や幕府内部の権力闘争などがありました。この時代には貨幣経済が急速に進展し、そのことが大名の財政難と増税を引き起こすとともに、幕府自身も農民への増税のみによる財政難の打開は困難となりつつありました。一揆の処理を任された田沼意次は、その後幕府内で急速に力をつけます。その政策は、流通を刺激し、内需を拡大して商人に利益を得させ、彼らから税を徴収するという画期的な政策でした。彼の政策にはさまざまな功罪がありますが、その後の経済の在り方に大きな影響を与えたことは間違いありません。
 一方、この頃農村にも貨幣経済が浸透し、農村に大きな変化が生まれつつありました。本来江戸時代の農民は田畑永代売買禁止令によりその地位が確保していましたが、この頃から土地を質に入れて質流れという形で土地を失う農民が生まれ、一方で土地を集積して大地主となる者が現れてきます。つまり農民の間に貧富の差が拡大するようになります。そして明治時代には、ほとんどの農民が土地を失っていきます。郡上一揆は、こうした大きな流れへの過渡期に起きた事件でした。
 その後の郡上藩では、改易された金森頼錦の後任として、幕府より丹後国宮津藩の青山幸道が新たな郡上藩主にとして転封を命じられました。当時の郡上藩は、ずたずたに引き裂かれていました。旧藩士は浪人となり、農民の間でも一揆の賛成派と反対派の対立が残っており、財政難は相変わらずの状態でした。それでも青山幸道は農民への配慮を欠かさず、また人々を融和させるために夏の盆踊りを推奨し、これが郡上おどりの起源となったとされますが、この点についてははっきりしないようです。


 2001年小泉純一郎氏が首相に就任した後、前年に制作された「郡上一揆」を激賞しました。もしかすると小泉氏は、この映画に触発され、巨悪を倒すために総裁選への出馬を決意したのかもしれません。小泉氏にとって巨悪とは何だったのでしょうか。郵政か、あるいはそれを基盤とする旧竹下派だったのでしょうか。


草の乱

2004年公開の映画で、秩父事件の120周年を記念して制作されました。「郡上一揆」を制作した神山監督によって制作され、出演者もかなり重なっており、また、のべ8000人以上のエキストラがボランティアで参加し、自主製作・自主上映の作品としては最大規模の映画となりました。















 2007年 日本・カナダ・フランス・イタリア・イギリスの合作映画、雪深い信濃国を幻想的に描いています。



















 まず事件の歴史的な背景を述べておきたいと思います。幕末期に日本が開国すると、生糸が日本の主要な輸出品となります。当時、ヨーロッパにおける生糸の生産地であるフランス、イタリアで蚕の流行病が発生し、ヨーロッパの養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたことや、太平天国の乱によって清の生糸輸出が振るわなくなっていたため、日本の生糸の輸出が急増したわけです。「シルク」という映画がありますが、フランスで蚕に流行病が発生し、日本へ蚕の卵を買い付けに行くという話で、主人公は幕末期の信濃の国に潜入します。もちろん、この映画には別のテーマがありますが、こうした時代を背景に制作された映画だということです。そして秩父も、この時代に養蚕業で栄えます。
 しかし急激な輸出増加のため粗製濫造が目立ち、日本の生糸価格が下落します。そうした中で、1872(明治4)に、群馬県に近代的な設備を整えた富岡製糸場が設立されたわけです。富岡に製糸工場が建設された理由の一つは、周辺に養蚕業を営む地域が多かったことで、秩父もその一つでした。ところが、1870年代にヨーロッパで大不況が始まり、1880年代に生糸価格が大暴落し、秩父もその影響をまともに受けます。ちょうどこの頃地租改正が行われて農民は重税に喘ぎ、自由民権運動の影響を受けて各地で暴動が発生します。これらの一連の事件は激化事件と呼ばれ、その最後にして最大の事件が秩父事件です。

映画は、主人公の井上伝蔵(緒方直人)が、1918(大正7)に死を迎える少し前に、妻と息子に秩父事件について回想するところから始まります。井上伝蔵は、秩父で代々続いた商家「丸井」の当主で、商用で上京するうち自由民権運動に共鳴し、自由党に入ります。「丸井」は農民から繭を買い取り、それを市場で販売していたのですが、市場価格が暴落し、農民が困窮する姿を目の当たりにしていました。そうした中で、1884年(明治17年)「困民党」が結成され、伝蔵も指導者の一人として参加、さらに代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理となりました。伝蔵は、「郡上一揆」の定次郎と同様に、子が生まれたばかりでした。
 困民党は、18841031日に蜂起し、早くも翌111日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄しました。しかし政府の動きは早く、警察隊、憲兵隊、さらに軍隊を送り、114日には事実上鎮圧されました。その後も参加者や首謀者が逮捕され、4000人以上が処罰され、田代栄助や井上伝蔵にも死刑の判決が下されました。しかし伝蔵は秩父から脱出することに成功し、やがて北海道にわたって名を変え、別の女性と結婚し、子供までもうけます。こうして33年の歳月が流れ、伝蔵は死を迎えるにあたって妻子に、自分が死刑囚の逃亡犯であることを明かすとともに、秩父事件の顛末を語ります。

映画では扱われていませんでしたが、伝蔵の本妻が呼び寄せられ、妻子に看取られながら死んでいったとのことです。享年65歳でした。


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