2015年1月31日土曜日

映画でアメリカを観る(3)

風と共に去りぬ

 1939年にアメリカで制作された映画で、当時としては画期的なカラー技術による映画であり、世界的なヒット作となりました。原作はマーガレット・ミッチェルで、彼女の著書は本作のみで、続編を書くよう要請されましたが、本作は完結されているとして、続編を書きませんでした。















舞台となったのは、1860年代のジョージア州で、ミッチェルが生まれ育った場所です。ジョージア州は、1732年にイギリスの13植民地の最後の植民地として設立され、当時の国王ジョージ2世に因んでジョージアと名付けられました。19世紀に入ると奴隷制綿花プランテーションが発展し、ジョージアでは人口の半分以上が黒人で、そのほとんどが奴隷という異常な状態でした。そして、イギリスの産業革命にともなう綿織物工業の発展により、ジョージアを含む南部は空前の活況を呈しました。地主たちは、18世紀のフランス貴族風の生活を模倣し、パーティーに明け暮れ、無為で、虚飾に満ちた生活をしていました。南部では、こうした繁栄が半世紀ほど続いたのですが、それは南北戦争によって、まさに風と共に去っていった分けです。

また、この映画とは直接関係ありませんが、ジョージア州ではもう一つの大きな問題が存在しました。ジョージア州には、チェロキーなど農耕民のインディアンが住んでおり、かなり文明化していました。しかし土地開拓を望む白人たちによる圧迫が、しだいに強まっていきます。さらに1829年に金鉱が発見されると、白人はチェロキーの土地に殺到します。そして、ここでジャクソンが登場します。彼は、貴族生まれでない最初の大統領としてアメリカ民主主義の象徴のように言われますが、彼はチェロキーなどインディアンの大量虐殺を行って土地を奪った人物で、南部では英雄とされています。そのジャクソンは、1830年にインディアン移住法を制定し、1835年に数万人のインディアンを西部へ強制移住させます。そして彼らが去った後に、広大な綿花畑が作られることになります。1835年といえば、アミスタッド事件の4年前であり、これもまたアメリカのもう一つの側面なのです。

南北戦争の原因については、ここでは深入りしません。もちろん奴隷制の問題が南北の対立の大きな要因ではありましたが、北部と南部とでは経済構造が違いすぎ、しかも南部は時代から取り残されてしまっていました。奴隷労働によって蓄えられた富は、時代錯誤的な貴族生活に浪費され、経済的に北部に差を付けられてしまいました。しかも南部の人々は、これまた時代錯誤的な騎士道精神を掲げて、北部の近代的な兵器に立ち向かったのです。したがって、この戦いの勝敗は最初からついていたのです。
この映画については、あまりにもよく知られているので、ここでは簡単にしか触れません。前半はジョージア州の大農場経営者の娘スカーレット・オハラの恋愛と南北戦争の勃発、後半は戦争の敗北と再建時代の苦難を描いています。一言で言えば、それは旧き良き南部への郷愁であり、黒人奴隷に対する同情はまったく認められません。それどころか原作では、人種問題や奴隷制の描写について問題になる部分が多くあったため、映画ではそのような箇所は省かれ、登場人物についても何人かの黒人奴隷が省略されています。それでも映画で描かれた黒人は、善良で、少し間抜けで、少しずる賢く、白人の下で働いていることが幸せであるかのように描かています。実際にミッチェルの著書やこの映画には、「奴隷制度を正当化し、白人農園主を美化している」傾向があり、これ対しては、強い批判があります。

ジョージア州では、南北戦争後も黒人に対する強い差別が残ります。そして1960年代にキング牧師が登場し、このジョージアから、黒人差別を撤廃する公民権法の制定を求める運動を開始することになります。

グローリー

1989年にアメリカで制作された映画で、アメリカ南北戦争において実在したアメリカ合衆国初の黒人部隊を描いています。
 南北戦争は、南部11州が合衆国から離脱して、アメリカ連合国を樹立したことから始まりました。戦争は、工業力や人口の差から考えても、初めから北部が有利でしたが、それでも北部は苦戦しました。というのは、南部はこの戦いに勝つ必要がなかったからです。南部は、南部を中心に合衆国を統一しようとしている分けではなく、単に合衆国から離脱しようとしているだけでしたから、北から攻めてくる北軍を撃退すればよかったのですが、北部は北部を中心に合衆国の統一を目指していましたので、南部を軍事的に制圧する必要がありました。しかし北部には、南部を制圧するための大義がありませんでした。そうした中で、合衆国の政権内部に奴隷解放という人道的な目的を大義に掲げようとする動きが形成されてきました。こうした政策の一環として、黒人部隊が創設される分けです。
 主人公のロバート・グルード・ショーは、マサチューセッツ州ボストンの大金持ちの家に生まれ、父は著名な奴隷解放論者でした。ロバートは、ハバード大学を中退後、1861年に第7ニューヨーク歩兵連隊に入隊し、186124歳の時南北戦争が勃発し、ワシントン攻防戦で従軍します。彼は士官学校を出たわけではなく、この30日間の攻防戦が唯一の実戦経験でした。その後父より、1862年に全黒人連隊「第54マサチューセッツ歩兵連隊」の指揮官になるように求められます。志願した黒人の多くは北部の自由黒人でしたが、南部からの逃亡奴隷も含まれており、彼らを訓練するには困難を極めました。
 18631月にリンカーン大統領は奴隷解放宣言を発布します。本来奴隷解放は州の問題であり、大統領に権限がありませんが、リンカーンは合衆国憲法がねじ曲がってしまう程憲法を拡大解釈しました。しかし、この宣言で解放された奴隷は、当面一人もいませんでした。北部には奴隷はいないし、南部はこのような宣言を無視するし、奴隷州のうち北部に加わっていた州には、この宣言は適用されませんでした。ただ、イギリスなど奴隷制に反対していた国々が、アメリカに好意を寄せるようになるという、外交的な効果は大きかったようです。そして18637月にゲティスバーグの戦いで北軍が勝利し、戦局は北軍に有利に傾いていきます。
 一方、黒人部隊は肉体労働ばかり課せられ、戦闘に参加させてもらえません。さらに、白人兵士より黒人兵士の方が給料が安いことが判明し、怒ったロバートは給与受取書を破棄して抗議します。また白人兵士からも、色々嫌がらせを受けました。しかしついに、サウスカロライナ州の難攻不落のワグナー砦の攻撃を命じられました。すでに、白人部隊が何度も試みて多大の犠牲を出している場所です。この戦いで黒人部隊はよく戦いましたが、結局要塞を落とすことはできず、兵士の半分以上が死に、ロバートも戦死しました。彼の体には7発の銃弾が貫通していたとのことです。26歳でした。
 南軍の兵士は、ロバートを侮辱するため、彼の遺体を黒人兵の遺体と一緒に埋葬しました。それを聞いたロバートの父は、そのような埋葬の仕方は、ロバートにとって名誉である、と述べたと言われています。そしてこの戦いでの黒人兵の活躍は、他の黒人に影響を与え、18万の黒人が兵士として志願し、北軍の勝利に大きく貢献しました。

 映画では、ロバートと黒人兵との対立や心の触れ合いが描かれ、大変感動的でした。もちろんこれで黒人問題が解決したわけではありません。南部では、黒人に対してテロ行為が行われたり、黒人に参政権を与えるのを拒否したり、さらに白人用の学校や黒人用の学校などを区別するなど、アパルトヘイトが行われます。北部にも人種差別は根強く残っていきます。1964年に公民権法が制定され、人種差別が禁止されますが、それでもなお差別は残り、特に経済格差が拡大しています。しかし、オバマ大統領が、アフリカ系アメリカ人として大統領になったということは、差別の解消に少しは貢献することになるでしょう。

 なお、ここでは、「黒人」という表現を使っています。本来なら「アフリカ系アメリカ人」という表現を使うべきですが、当時の時代背景を考えて、あえて「黒人」という表現を使いました。

ロード・トゥ・ヘブン

1997年にアメリカで制作されたテレビ用の映画で、南北戦争前後における二人の女性の生き方を描いた映画です。この映画は、本来3時間の長編ですが、日本語版は2時間に短縮されているため、時々話の繋がりが分からなくなります。また、日本語版のタイトルは「ロード・トゥ・ヘブン」と英語風に書いていますが、実際のタイトルは「True Women」です。どこから「ロード・トゥ・ヘブン」というタイトルが出てくるのか、全然分かりません。

映画は、ジョージア州に住む仲の良い二人の少女フィミとジョージアの友情から始まります。しかしフィミは父が死んだため、姉夫婦のいるテキサスへ送られます。一方、ジョージアは奴隷を多く抱える富裕な農場主の娘でしたが、祖母がインディアンで、4分の1の混血でした。そしてこの頃、ジョージア州に白人が殺到し、インディアンは迫害され、1835年にオクラホマに強制移住されたことについては、前に触れました。実は、オクラホマに送られたのはジョージア州のインディアンだけでなく、北米のすべてのインディアンが組織的に送り込まれたのです。こうした風潮の中で、ジョージアは肩身の狭い思いをしながらも、強く成長していきます。

一方、フィミが送られたテキサスは、動乱の時代でした。テキサスやカリフォルニアはもともとスペインの領土でしたが、1821年にメキシコが独立すると、メキシコ領となります。メキシコは、テキサスやカリフォルニアでのアメリカ人による入植を認めていましたが、やがてメキシコはアメリカ人の入植が増えすぎたことを危惧するようになり、一方アメリカ人の入植者たちはメキシコが奴隷制を禁止していることに不満をもっていました。こうした中で両者の対立は決定的となり、1836年にテキサス軍がアラモの砦に立て籠もると、これをメキシコの大軍が包囲し、アラモの砦が陥落します。
しかしその後もテキサスとメキシコとの争いは続き、結局メキシコは同年にテキサスの独立を認めたため、ここにテキサス共和国が成立することになります。ところが1845年にアメリカがテキサスを併合したため、アメリカ・メキシコ戦争が勃発し、結局メキシコは1848年にテキサスやカリフォルニアをアメリカに割譲し、これによってメキシコは領土の半分を失うことになります。結局は、テキサスもカリフォルニアも、アメリカがメキシコから強奪した分けです。そして、この1848年にカリフォルニアでゴールドラッシュが始まり、これがアメリカの西部開拓と経済の発展に大きく貢献したことは、言うまでもありません。
この間に、テキサスはインディアンとの戦いに明け暮れていました。テキサスはコマンチ族の領土でしたが、そこへ白人の移民が殺到したため、コマンチ族が白人を襲うようになった分けです。フィミたちはインディアンを心底憎んでいましたが、彼女には自分たちに責任があることが分かっておらず、インディアンを冷酷な野蛮人としか思っていませんでした。そこへ、医師と結婚したジョージアがテキサスに移住し、奴隷制に基づく綿花農場を開きます。フィミは奴隷制に反対しており、またジョージアがインディアンとの混血であるという拘りもあったのでしょう、あれ程仲のよかったジョージアと対立するようになります。しかしフィミには分かっていませんでした。たとえ自分の奴隷を解放しても、奴隷たちはまた売られるだけであり、むしろ当時の状況では自分が所有する奴隷たちを人道的に扱うことが精一杯であるということを。
そうした中で、1861年に南北戦争が勃発し、二人の夫たちは出征します。このようにテキサスは、メキシコとの戦い、インディアンとの戦い、南北戦争など、戦争に次ぐ戦争でした。そうした中でフィミは女性が政治に発言権を持つべきだと考え、婦人参政権運動を行うようになり、ジョージアを運動に誘います。フィミもジョージアの立場を理解するようになったのです。こうして二人は仲直りしますが、やがてジョージアは病死します。そして臨終の床で、彼女はインディアンの子孫であることに誇りをもって死んでいきます。


この映画は、短縮されているため話が繋がらず、焦点がどこにあるのかよく分かりませんでした。それでも、南部における白人・黒人・インディアンの関係が、それぞれの立場で描かれており、大変興味深い映画でした。特にジョージアは、白人・インディアン・黒人の接点にある女性であり、当時の南部の複雑さを象徴する女性として描かれているように思われました。

ダンス・ウィズ・ウルブズ

1990年にアメリカで制作された映画で、白人兵士とインディアンとの交流を描いたものです。インディアンという言葉はインド人という意味であり、コロンブスの誤解から生まれた表現で、中南米の先住民はスペイン語でインディオと呼びます。本来これらは、アメリカ先住民とか、ネイティブ・アメリカンと呼ぶべきかもしれませんが、ここでは北米の先住民一般を、とりあえずインディアンと呼ぶことにします。「とりあえず」と言ったのは、北米だけでも極めて多くの部族があり、インディアンからすれば白人もこれらの部族の一つでしかなく、本来は個別の部族名で呼ぶべきですが、便宜上インディアンと総称して呼ぶということです。
かつて西部劇と呼ばれる映画が、大変流行した時代がありました。こうした映画は、主に1860年代から90年代の西部開拓時代を描いた映画で、開拓者魂を持つ白人のヒーローが悪者である白人の無法者や先住民と対決するという勧善懲悪のアクション映画です。そこでは、インディアンは常に悪者で、事実とかけ離れた出鱈目なインディアン像が描かれていました。これに対して、この映画はスー族の風習を比較的正確に再現し、スー族の方言の一つダコタ語を用い、白人が自然を荒らすのに対し、スー族が自然と調和して生きる高潔な人々として描き出しています。
この映画の原作は、白人を批判しているため販売を拒否されていましたが、俳優のケビン・コスナーが、彼自身インディアン(チェロキー)の血を4分の1引いていたこともあって原作に共感し、映画化に踏み切ります。彼は映画の製作に私財の大部分を投じ、自ら監督と主役を引き受けました。結果は大好評で、ゴールデングラブ賞やアカデミー賞を受賞するなど、ケビン・コスナーの監督としての手腕も評価されることになりました。


この映画は南北戦争末期の1865年から始まり、場所は南北戦争の激戦地となったテネシー州です。北軍のダンバー中尉は、自分が生きている社会に馴染めず、ほとんど自殺的な囮作戦を実行しますが、皮肉にも成功して自軍を勝利に導きます。その褒美として好きな任地を選ぶことが許されたため、彼は誰も行きたがらないフロンティアに転任することを求めます。彼が向かったのは、サウスダコタ州にある最前線の砦です。
















サウスダコタ州は中西部にある州で、グレートプレーンズ(大平原)にあり、「ダコタ」という名前はインディアンのスー族の一つダコタ族の言葉「ダコタ(仲間)」に由来します。グレイトブレーンズとは、ノースダコタ州からテキサス州にかけて縦に貫く大草原で、ロッキー山脈から流れる河川によって肥沃な土地を形成しています。この地域の西の端はロッキー山脈なので、東から移動してくる人々にとっては、この地域が開拓の最前線ということになります。そしてサウスダタは、このグレイトブレーンズの一部を形成します。
この地域は、フランスの植民地ルイジアナの一部でしたが、1803年にアメリカが購入し、アメリカ領となります。この頃スー族がこの地域に進出し、バッファロー狩りを生活の基盤としていました。彼らは騎馬民族でしたが、もともとアメリカ大陸に馬はいません。スペインがメキシコに連れてきた馬が逃亡して野生化し、グレートプレーンズで増殖し、それを先住民が捕獲したものです。この地域はスー族の領域でしたが、しだいに入植者が増え、1855年にはアメリカ軍の砦が建設され、1858年にはスー族との条約によって東部の大半がアメリカに割譲されました。これが、ダンバーが訪れた頃のサウスダコタの状況です。
荒野の真っ只中に小屋のような最前線の砦があり、ダンバーは愛馬シスコとともに、たたった一人で暮らし始めました。また周りをうろつく一匹の狼とも仲良くなり、じゃれあっていました。時々インディアンが様子を見に来ますが、インディアンも、たたった一人で暮らす変な白人をどうすべきか、困っていました。そこで、彼の方からインディアンに会いに行くことにしました。言葉はなかなか通じませんでしたが、かれは次第にインディアンの生活に真の人間らしさを見出していきます。さらに、彼はインディアンのバッファロー狩りに参加し、その勇壮な狩りに魅せられます。インディアンにとって、それは決して虐殺ではなく、生活の糧を得るための神聖な行為でした。
部族の中に一人の白人女性がいました。彼女は5歳の時に他のインディアンに襲われて家族全員を殺され、一人で泣いているところをスー族に救われ育てられました。彼女は英語をほとんど覚えていませんでしたが、片言の英語でデンバーとの通訳をしていました。やがて二人は愛し合うようになって結婚し、彼もスー族とともに暮らすようになります。スー族は、それぞれの特徴を示す名前をつけます。例えば「蹴る鳥」「風になびく髪」などで、白人女性は「拳を握って立つ女」です。村の意地悪な女を、拳で殴ったことからこの名がつけられたそうです。そしてダンバーは「狼と踊る男(ダンス・ウィズ・ウルブズ)」と名付けられました。こうして彼は、初めて心安らかに生きることのできる場を見出したのです。
彼はスー族にアメリカ軍が攻めてくることを伝え、村人とともに冬の陣地に籠ることになりましたが、その前に砦にスー族のことが書かれた日記を取りに戻りました。ところが陣地には軍隊が来ており、彼は裏切り者として処刑されることになります。彼はインディアンによって救出されますが、自分が一緒にいればインディアンが襲われると考え、妻とともに村を去って行きます。
 
映画はここで終わりますが、その後のスー族の運命は悲惨でした。1874年にスー族の領域で金鉱が発見されると、白人が殺到し、軍隊はスー族を虐殺します。さらに、アメリカはスー族の組織的な壊滅を図ります。スー族は狩猟民族で、草原に野生するバッファローを狩って生計を立てていましたが、アメリカ人はこのバッファローを皆殺しにしてしまいます。こうして生活の基盤を失ったスー族は、居留地に閉じ込められて衰退していきます。
 なお、この映画ではスー族の風習をできる限り正確に再現しようとしていますが、限界があったようです。映画に出演しているインディアンさえダコタ語を知らないため、ダコタ語を理解する人物によって特訓をうけます。ところが、ダコタ語は日本語と同様、男性語と女性語があり、ダコタ語の指導員が女性だったため、出演者たちは女性語で演技を行ったわけです。後で、ダコタ語の分かるスー族たちがこの映画を見た時、スー族の族長たちが女性語を話していたので、大笑いしたというエピソードが残っています。



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