2015年2月28日土曜日

映画でアメリカを観る(7)

グッドシェパード
2006年のアメリカ映画で、CIA(中央情報局)の幹部職員の半生を描いています。諜報員としての一生とは、どんなものなのでしょうか。タイトルの「グッドシェパード」とは聖書に由来する言葉で、イエス・キリストの「私は良き羊飼いである。良き羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉の「良き羊飼い」というのが「グッドシェパード」で、国家に忠誠を尽くす「忠犬」といったような意味かと思います。
CIAは、第二次世界大戦中の1942年に設立された戦略事務局(OSS)などをもとに、1947年に設立されました。その主要な任務は諜報活動で、冷戦時代にはソ連との間で諜報戦を展開しました。同時に、CIAはアメリカの利益に反する政府や人物に対して、さまざまな謀略・謀略活動を行ってきました。ここでは個別的にはあげませんが、映画では中南米の農民運動に打撃を与えるため、飛行機で大量のイナゴをまき散らす場面が映し出されていました。また、日本に関して言えば、保守合同や社会党の分裂に関わっており、このことはすでに資料が公開されているため、明白な事実です。そしてこの映画で直接関係するのは、1961年のピックス湾上陸作戦です。
1959年にカストロらによりキューバ革命が起きると、CIAは亡命キューバ人に軍事訓練を行い、1961415日に、国籍を隠したアメリカ空軍がキューバ軍基地を空襲して爆撃機を破壊、続いて反革命軍が17日にピッグス湾への上陸を開始しました。この計画自体はアイゼンハウアー大統領の時から進められていたもので、ケネディが大統領に就任したのは120日でした。作戦は大失敗に終わりますが、この映画では敗因として作戦が敵側に漏れていたということになっています。そしてこの作戦の最高指導者が、この映画の主人公であるエドワード・ウィルソンですが、彼自身は架空の人物で、彼を通してCIA職員の生き方が描かれます。
まずエドワードは、名門イェール大学の学生時代から始まり、まもなく第二次世界大戦が始まります。そうした中で、彼は上院議員の娘と結婚し、彼女はすでに妊娠していましたが、その一週間後に彼はOSSにリクルートされてロンドンに行き、以後6年間帰ってきませんでした。彼は、アメリカには諜報活動の経験がほとんどなかったため、世界一の諜報活動を誇るイギリスのノウハウを学んできました。そして1947年にCIAの設立に際して大きな役割を果たします。アメリカに帰ったとはいえ、彼は多忙であり、また仕事の内容を家族に話すことはできず、子供と遊ぶこともできない毎日でした。
そうした中でピックス湾事件の失敗は彼にとって大きな打撃であり、情報がどこから漏れたかを探索していました。そして犯人は息子でした。息子はたまたま父が作戦について話しているのを聞き、知らずにソ連のスパイの女性と寝ている時に秘密を漏らしてしまったのです。息子は彼女を心から愛しており、結婚を望んでいましたが、父は彼女を密かに殺してしまいます。エドワードは自分が心底いやになりましたが、それでも再びCIAの仕事に戻って行きます。まさに彼は「グッドシェパード」でした。

CIAが戦後世界中で行ってきた謀略活動は、広く知られていることで、その非道な行いは眉をひそめるようなものです。ただ、こうした諜報・謀略活動は、孫子の昔からに行われており、またソ連も同様のことを行っており、決してCIAの専売特許というわけではありません。ただ、こうした組織はしばしば独り歩きすることがあり、自らの力を過信して国家の意志から逸脱してしまうことがあります。あるCIAの幹部が、CIAtheをつけないのは、GODtheをつけないのと同じだと言いました。つまりCIAは絶対的な存在だということだと思います。こういった諜報組織には、やがて自己増殖し、独り歩きする危険性が常にあるのです。我々は、こうした謀略活動を必要としなくなる時代が来ることを望むのみです。

ところで、この映画の冒頭に出てくるのですが、イェール大学には、スカル・アンド・ボーンズ(頭蓋骨と骨)という秘密結社があり、映画では髑髏を使った不気味な入団式が行われます。これは国家主義的で人種主義的な組織ですが、何よりも経済力と政治力をもって大きな影響力をもつことを目指す組織のようです。メンバーは、「とにかく権力の座に駆け上り、成功したら仲間をやはり名誉あるポストに就けるという」ことを目的とするそうです。そして政財界にできるだけ多くの人を送り込み、影響力を行使するのだそうです。この結社からは何人もの大統領が出ていますし、最近ではブッシュ大統領もこのメンバーの一員でした。そして初代CIA長官も、このメンバーの一員でした。

 こうした結社はどこにでもあり、一般的には相互扶助的な役割を果たしますが、あまりにも強力になると、人や国に対する義務よりも、結社に対する忠誠心が優先されるようになります。CIAは、設立当初からスカル・アンド・ボーンズの影響力が強く、しばしば国家の意志を離れて行動することがあるようです。


大統領の陰謀
1976年制作のアメリカ映画で、アメリカ史上最大の政治スキャンダルの一つであるウォーターゲート事件を、ワシントン・ポスト紙の二人の記者が暴くという、実話に基づいた映画です。
ウォーターゲート事件とは、1972年にワシントンDCのウォーターゲート・ビルにある民主党本部に、5人の男が忍び込み、盗聴器を仕掛けている時に警察に逮捕されたという事件です。最初はただのコソ泥事件としてほとんど注目されませんでしたが、ワシントン・ポスト紙の若い記者ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインが執拗に事件を追い、やがて5人がニクソン大統領再選委員会と関係があり、政権中枢とも関係していることをつきとめます。
実はかなり早い段階から、ウッドワードは政府機関の高官から捜査のアドバイスを受けていました。この高官は、自分が死ぬまで名前を明かさないように求めたため、仮名としてディープ・スロートと呼ばれるようになります。ディープ・スロートとは、当時評判になっていたポルノ映画の題名で、大した意味はありません。彼は、立場上守秘義務があるため、具体的な情報を漏らしませんでしたが、捜査の方向性を示唆し、事件の真相を暴く手助けをしました。事件発生から33年後に、当時のFBIの副長官が自分がディープ・スロートであったことを告白しましたが、すでにこの時認知症が進行しており、あまり記憶が残っていませんでした。彼が、ディープ・スロートとなった理由は、ニクソン政権の行動があまりに法を無視したものだったからだとされています。FBIは事件に関して相当の事実を把握していましたが、政権によって捜査を抑えられてしまっていたのです。なお、「ディープ・スロート」は、現在でも「内部告発者」という慣用句として使われています。
ニクソンは、大統領再選が確実だったにもかかわらず、なぜ民主党に対する選挙妨害工作を行ったのかはよくわかりません。そのこともあって、ワシントン・ポスト以外のマスコミは、この事件にあまり関心を示さず、国民もこれをただのコソ泥事件だと思っていました。この間に、ニクソンは中国との関係改善、ヴェトナム戦争の終結、ソ連との軍縮など、華々しい成果を上げていました。ニクソン政権がこうした事件を起こした理由は、謀略と力で敵を叩きのめすという政権そのものの体質によるものとしか言いようがありません。また、かつてニクソンはアイゼンハウアー大統領の後継者としてケネディと選挙戦を争い、ニクソン勝利間違いなしと言われていたにもかかわらず、ケネディに僅差で敗れました。ニクソンには、その苦い思い出があったのかもしれません。
 
二人の記者の取材は難航を極めました。司法省・FBICIAが政権に抱き込まれ、付け入る隙がなく、さらに二人は命の危険さえ感じるようになっていました。しかし二人は丹念に事実を解明し、やがて大統領執務室での会話がすべて録音されていることが判明し、録音テープが提出されるに至ります。その結果、1974年の大統領弾劾裁判が開始され、同年ニクソンは大統領を辞任します。ニクソンは、「死亡」以外の理由で任期途中で辞職した唯一の大統領です。

 マスコミにはさまざまな功罪があると思いますが、この映画は民主主義の維持と発展にとってマスコミが不可欠の存在であることを、物語っています。

チャーリー・ウィルソンズ・ウォー
2007年制作のアメリカ映画で、1980年代におけるアフガニスタン問題や米ソ冷戦を題材としたコメディですが、実話に基づいているそうです。アフガニスタンについては、「映画でイスラーム世界を観る アフガン零年」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/06/blog-post_8.html)を参照して下さい。
主人公チャールズ・ウィルソンはテキサス州選出の下院議員で、政治にあまり関心のないプレーボーイですが、気さくで明るい性格のため、周囲の人々から愛されていました。ある時、たまたまテレビでソ連軍と戦うムジャーヒディーン(戦士)の姿を見て、彼らが貧弱な武器で戦っているのを気の毒に思い、彼らを助けてやろうと決意します。彼は、反共主義者の女性大富豪やCIAと結んで、ムジャーヒディーンたちに最新の兵器を送り、ソ連軍を苦境に陥れます。その結果1989年にソ連軍はアフガニスタンから撤退し、同年に冷戦終結宣言が行われ、1991年にはソ連邦が崩壊します。
こうして彼は、アフガニスタンを救った男、ソ連を破り冷戦を終結させた男として英雄となるわけですが、それだけで終わっていたら、ここでこの映画を紹介することはありません。大事なことは、この映画がコメディであり、明らかにチャールズ・ウィルソンの英雄的な功績を茶化しているわけです。
現実はどうだったのか。彼が支援したムジャーヒディーンの中にウサーマ・ビン・ラーディンがおり、やがて彼は反米に転じてアルカイーダを結成し、アフガニスタンに成立した反米政権ターリバンを支援し、9.11同時多発テロを起こします。そして、今もアメリカはアフガニスタンの泥沼から抜け出せないでいます。それどころか、世界中にイスラーム教系のテロ集団が拡散し、収拾がつかなくなりつつある、というのが現実です。この映画でも、最後に、「最後にしくじった」というチャールズ・ウィルソンの言葉があげられていますが、実際には彼の行動は最初から間違っていたのです。

大いなる陰謀

2007年制作のアメリカ映画で、この時期にアメリカが置かれていた状況を、三つの場面を同時並行的に描くことによって、アメリカの抱える問題がどこにあるかを問いかけています。
 まずワシントンで、アーヴィング上院議員がロスという女性議員に単独インタビューを受け、その際彼は彼女にアフガニスタンでの新作戦の開始という重大情報をリークします。同じころ、カリフォルニア大学で政治学のマレー教授が、優秀なのに学習意欲を失っているレッドと面談しています。そして同じころ、アフガニスタンでマレー教授の学生だったアーネストとアーリアンという二人の兵士が、アーヴィングが立てた作戦に基づいて敵地に向かっていました。
 アーヴィングは、世界中でアメリカの優位性を示し、それを主導することで自らの政治的力を誇示しようとしていましたが、ロスはマスコミが政府に利用されることを嫌い、このニュースを報道しませんでした。アーネストとアーリアンはそれぞれヒスパニックとアフリカ系で、マレー教授の学生だったのですが、常に疎外感を感じており、自らアメリカが抱える問題に直接参加することを望んで、教授の反対を押し切って志願兵となりました。また、貧しい彼らにとっては、帰国後優遇されることも魅力でした。一方、裕福な家に生まれたレッドは、政治の腐敗や欺瞞性にうんざりしており、積極的に社会や国家に関わる意志がなく、結局教授との話し合いは平行線に終わります。
 アフガニスタンでの新作戦は、情報の誤りと無謀な机上の作戦のため失敗に終わり、アーネストとアーリアンは戦死します。ロスは、かつてイラク戦争の時に政府に騙され、一斉に支持する報道をしたことを後悔しており、アーヴィングの情報を報道しなかったことに満足していました。それはジャーナリストとしての彼女の誇りでした。アーヴィングは、きっと作戦の失敗を人のせいにして、自分はまた新しいゲームをはじめることでしょう。そしてレッドは、テレビでアーネストとアーリアンの戦死を知った時、一瞬その目が鋭く光り、映画は終わります。
こ映画の原題は「Lions for Lambs」で、「ライオンたちが率いる羊たち」といった意味でしょうか。このタイトルは色々な解釈が可能です。有能なライオンが大人しい羊たちを率いて戦いに勝つ、という意味なら「大いなる陰謀」という日本語のタイトルはある程度当たっていますが、それはこの映画の一面しか示しておらず、かえって誤解を招くことになります。原題は、無能なライオンが羊たちを誘導して死に追いやるともとれますし、また、映画の最後に「ライオンが羊に率いられている」という字幕が出ますが、愚かなライオンが賢明な羊たちに率いられるという意味でしょうか。要するにこの映画は、この欺瞞と矛盾に満ちた困難な時代において、人々が自問することを求めているように思います。そしてそのことは、アメリカだけではなく、日本についても当てはまるのではないかと思います。


 以上7回にわたって、映画を通じてアメリカの色々な側面を観てきましたが、何しろアメリカは映画大国であり、私が観た映画などその一部ともいえない程の数です。むしろ、たまたま観た映画を使って、アメリカについて考えてみただけです。


2015年2月21日土曜日

映画でアメリカを観る(6)

十二人の怒れる男

 1957年にアメリカで制作された裁判物の映画です。アメリカでは陪審制度が定着しており、年間100万人もの人が陪審員を務めますので、アメリカ人は裁判に関心をもち、そのため裁判物の映画が好きなようです。
陪審制度とは、ウイキペディアによれば「民間から無作為で選ばれた陪審員が、刑事訴訟や民事訴訟の審理に参加し、裁判官の加わらない評議によって事実認定と法の適用を行う司法制度」だそうで、日本の裁判員制度は裁判官が加わるので、陪審制度とは異なります。陪審制度の起源はヨーロッパの中世にあり、封建領主=裁判官の恣意的な判決を抑止するものとして発達していきます。それがイギリスによってアメリカの13植民地に伝えられます。北米植民地においては、裁判官は本国から任命されますが、陪審員は植民地人であるため、本国と植民地との対立が激化すると、陪審員はしばしば植民地に有利な評定を出し、これが植民地人による本国に対する有力な武器となります。こうしたこともあって、1788年に制定された合衆国憲法では、陪審制度が保障されることになります。
アメリカの陪審員は原則として12名です。12という数字がどこから出てくるのか知りませんが、イエス・キリストの使徒が12人であり、アーサー王の円卓の騎士も12人という説があり、また1年は12か月なので、12というのは特別な数字なのでしょう。また評決は全員一致を原則とします。それは、神の意志は一つという中世以来の伝統があるのかも知れませんが、市民の絶対的な意志を示すものという意味もあるでしょう。ただ、一人でも反対する人がいれば審理無効となり、何度でも新たな陪審員のもとで審理をやり直すことになります。
 陪審制には多くの長所があります。まず、陪審制は歴史的に権力の乱用を阻止するものとしての役割を果たしてきました。また、法は常に過去の事例をもとに解釈されますが、時代が変わり市民感覚が変われば、法にも新しい市民感覚が適用されるべきで、陪審制はそうした市民感覚を反映させるのに役立ちます。したがって、陪審制は参加型民主主義の国アメリカにおいては、極めて重要な意味を持ちます。その他にも、司法制度に対する市民の関心を高めたり、裁判の迅速化といった効果もあります。
 一方、陪審制には短所も多くあります。まず、陪審員の判断能力の有無や偏見などが問題となりますが、これは大なり小なり裁判官についても言えることです。むしろ裁判官でも判断が難しいような微妙なケースでは、市民的感覚に従うというのも一つの方法です。また陪審員の判断が弁護士の能力やパフォーマンスに左右される危険性がありますが、一方でそれ程影響されていないという実証的研究もあるそうです。最後に、陪審員に支払うコスト、事務的負担、審理無効の場合の再審などの問題があります。ただ、アメリカの場合、刑事事件の9割が司法取引で終わっており、実際に裁判が開かれるのは1割程度とのことですが、それでも毎年9万件の裁判が行われているそうですから、かなりの負担ではあります。とはいえ、アメリカでは陪審制を廃止すべきという強い意見は少ないとのことで、この制度はアメリカ社会にしっかり根付いた制度といえるでしょう。
 前置きが大変長くなりましたが、映画は極めて単純で、映しだされる場所は、裁判後に陪審員が評議する評議室だけです。事件は、スラムに住む少年が父親をナイフで刺し殺したという事件で、もし事実なら司法取引により懲役20年程度で取引できたかも知れませんが、本人が無実を主張したため裁判となりました。そしてもし陪審員が有罪という評決を出せば、少年は死刑となります。つまり裁判を受けるということは、大きなリスクを伴うということです。裁判の過程は一切映し出されませんが、評議室での話の内容によると、検事は巧みに事実を証明し、公選弁護人も少年を信じておらず、ほとんど反論もしませんでした。普通なら、評議は1時間もあれば終わり、有罪評決がでるところです。
 場面は狭い評議室で、真夏の暑い時でした。誰もが、1週間も裁判の審理に参加してうんざりしており、早く帰りたいと思っていました。ところが一人の陪審員が疑問を投げかけたのです。陪審員は名前で呼ばれることはなく、番号で呼ばれます。そしてこの陪審員は8番でした。彼も少年が無罪だと確信していた分けではありませんが、一人の少年の生死にかかわる問題ですから、疑問点を解消したかっただけです。ところがこの一つの疑問から、次々と新しい疑問が生まれ、しだいに無罪を主張する人が増え、最後に全員一致で無罪の評決が出されます。
 そこに至る議論の過程は大変興味深いものでした。単に事実についての議論だけではなく、個々の陪審員の発言は、それぞれの人が抱える人生や社会を反映しており、何度も喧嘩になりそうでした。一人の陪審員は、ナイターを見に行きたいため、早く終わらせたいと思っていました。一人の陪審員は子供に裏切られ、少年に対する憎しみを抱いていました。そうした人たちが最終的に意見の一致を見るに至る過程が、見事に描き出されていました。場面は一部屋だけであり、セットがほとんど必要ないため、極めて安上がりにできた映画であり、まさに「密室劇の金字塔」と称される映画でした。

 アメリカ人は、学校でも陪審員としての教育を受け、こうした映画を観て学び、陪審員としての自覚を培っていくのだろうと思います。もちろん多くの間違いはあるでしょう。例えば、泥棒が侵入した家で転倒し怪我をしたが、侵入された被害者に対し泥棒が賠償を請求して勝訴した、などという突飛な例があります。ある裁判ドラマで、若い女性が電車に乗っていて、彼女の両側に黒人が座って悪戯しようとしたため、彼女は拳銃で二人を打ち殺し、正当防衛で無罪となる、という話がありました。これは非常に微妙なケースで、過剰防衛とも言えるし、黒人に対する偏見があったとも思われますが、自分の身は自分で守るという原則が優先され、それが市民感覚であったということです。

評決
1982年制作のアメリカ映画で、医療過誤訴訟を扱っています。原作は、ボストンの高名な弁護士が、自らの経験に基づいて著したものだそうです。なお、この映画では、従来英雄ばかりを演じてきたポール・ニューマンが、初めて汚れ役に挑戦し、好評を得ました。
主人公のギャルビンは、一流弁護士事務所で働くエリート弁護士でしたが、ある事件をきっかけに弁護士事務所を追放され、仕事もなく、酒におぼれ、荒んだ生活をしていました。そうした中で、医療過誤の訴えの仕事が入ります。患者は出産のためカトリック系の大病院に入院しましたが、麻酔事故で植物人間となってしまいました。家族は賠償金を得ることを求め、裁判沙汰になることを嫌った病院も20万ドルの賠償金を提示しました。弁護士は成功報酬として賠償金の3分の1を得られます。しかし患者の悲惨な状態を見たギャルビンは、家族の意志を無視して裁判を起こすことを決意します。彼にとっても、これは自分が立ち直るための最後のチャンスだと考えていました。
病院は高名な弁護士を雇い、多くのスタッフと費用を使い、反論の準備をします。病院関係者には口止めをし、さらにギャルビンに女性を近づけてスパイさせます。また、裁判官は、初めから病院を支持しており、ギャルビンが出す証拠をことごとく却下します。もはやギャルビンには、なす術がありません。最終弁論で、彼は陪審員に対し、ただ良心に従って欲しいとだけ頼みます。そして評決は有罪でした。陪審員には、法律の裏をかく高名な弁護士の欺瞞性、権力を振りかざす裁判長の不公平さが、分かっていたのです。これこそが陪審制度の長所です。


 日本の裁判員制度では、6名の民間人と3名の裁判官が協議をします。ただ、私が新聞などで知った範囲内ですが、裁判員は総じて検察寄りの判決を下すことが多いように思います。これは日本とアメリカの政治風土の違いによるものだとは思いますが、日本の裁判員制度の場合、庶民の意見も少しは聞いてやる、という程度のもののように思われます。それに対し陪審制度は、多くの短所があるとしても、権力の暴走と民主主義を守るための、ぎりぎりの歯止めとなっているような気がします。

評決のとき

1996年にアメリカで制作された映画で、人種差別問題を扱っています。私は、この映画を相当前にテレビで放映されているのは見ただけで、あまり正確に覚えていません。
人種差別がまだ強く残っている南部のある町で、黒人の少女が二人の白人の人種差別主義者に暴行され、少女の父カールが二人の犯人を射殺して逮捕されます。知事選への立候補を狙う野心家の検事がカールを起訴し、駆け出しの弁護士シェイクが弁護を依頼されます。彼は、この町の裁判では陪審員に人種主義者が入る可能性があるため、裁判地の変更を求めますが、裁判長は拒否します。裁判長もまた人種主義者でした。そして陪審員は全員白人でした。
裁判が進むにつれ、町中で白人と黒人との対立が高まり、クー・クラックス・クランは、シェイクの家族を襲ったり、家に火をつけたりします。そのため州兵が派遣され、町は厳戒態勢下に置かれます。そうした中で最終弁論を迎えますが、彼はカールから「あなたも所詮白人だ」と言われました。確かに、彼は人種的偏見を持ってはいませんでしたが、それでも自分が白人の目で黒人をも見ていたことに気づきます。最終弁論で彼は、陪審員の良心に訴えます。乱暴された少女が自分の娘だったらどうかを想像してほしいと。そして陪審員は無罪の評決を下しました。

ここでも陪審員の良心が目覚めました。しかし、こうした映画が人々に感動を与えるのは、現実には、必ずしもそうはなっていないからだということです。偏見に満ちた評決は多いし、警察は黒人というだけで逮捕します。最近も、黒人が警官に射殺されるという事件がありましたが、アメリカで人種間の対立を解消させることは、容易ではないようです。

LAW ORDER
 アメリカのテレビで放映された刑事・法廷ドラマで、実に1990年から2010年まで20年間続き、11年連続エミー賞にノミネートされたという記録破りの番組です。毎回冒頭で、「刑事法体系には等しく重要な二つの独立した組織がある。犯罪を捜査する警察、そして容疑者を起訴する検察。これは彼らの物語だ」と述べられます。舞台はニューヨークで、この20年間に9.11同時多発テロやリーマン・ショックなどが起きており、そうしたことがドラマにも反映されています。
 アメリカの司法制度は州によって異なっているため一概には言えませんが、ニューヨークの場合、地方検事は4年に1度の選挙によって選ばれます。西部劇に出てくる保安官(シェリフ)も選挙で選ばれますので、その流れを汲んでいるのかもしれません。いずれにしても、地方検事は住民の意思を反映する政治家でもあるわけです。また、犯罪の大部分が司法取引で決着しますので、ほとんど毎回司法取引の話が出てきます。そうしたやり取りを観ていると、裁判をした場合、陪審員がどのような判断をするのか予想がつかないため、たとえ無実であっても罪を軽くしてもらえるなら、取引に応じてしまう人がいるのではないか、とも思われます。ただ、それはあくまで本人が判断することなので、その点についてはアメリカ人は割り切っているのかもしれません。
 ドラマの数は膨大なので、一つ一つは思い出せませんが、ありとあらゆる犯罪が扱われており、さすがアメリカは犯罪大国・犯罪先進国だと思いました。例えば、はっきり覚えていませんが、ある男性が公園で誘拐され、数日後に再び公園に戻りますが、この男性は腎臓を一つ切り取られていました。さすがアメリカ、という犯罪でした。また、小児性愛や同性愛に関する犯罪も多く、さらにサイコパス(精神病質―反社会的人格の一種)による犯罪も見られます。こうした犯罪は、やがて日本でも起きるようになるのではないかと思っていましたが、最近若い女性が、「人を殺してみたい」という理由で殺人を犯すという事件が続きました。何か背筋が寒くなるような思いです。

 この番組は、今でもアメリカ各地のケーブルテレビなどで再放送が繰り返されているそうです。まさに刑事・法廷ドラマの金字塔とも言うべき番組でした。

2015年2月18日水曜日

王朝貴族物語 古代エリートの日常生活

山口博著 講談社現代新書 1994
 貴族という階級は、時代により、地域により微妙に異なり、われわれもかなり曖昧に貴族という表現を用います。日本の古代においては、本書によれば柔軟に考えても五位以上だそうで、150名から200名くらいだそうです。これらを含めて、いわば行政職の総定員は13000人ほどだそうで、彼らが官僚機構を形成するわけです。
 本書が大変興味深いのは、こうした官僚機構に生きる人々を、現在のサラリーマンと比較して述べている点です。例えば、五位以上をホワイトカラー、それ以下をブルーカラと呼ぶ、といった具合です。こうした比較が適切なのかどうかは分かりません。多分誤解を招く危険性があるのではないかと思います。しかし、私のような素人にとっては、誤解であっても、とりあえず分かりやすいということは大切です。本書では官僚たちが出世するための方法について、さまざまな例を挙げ、また今日のサラリーマンと比較しつつ、王朝官僚ピラミッドの在り方が説明されています。
 王朝官僚が、今日のサラリーマン同様に、いかに苦労しているかが具体的に述べられます。また、「同情すべきは現在のサラリーマンかもしれない。なぜなら、当時の役人は国家に直接奉仕しているので所得税はゼロなのだから」「そのうえ、住むべき土地は国家から無償で与えられるから」とも述べます。

 その他にも、経済問題、女性問題、不安など、さまざまな問題が具体的に取り上げられています。現在との安易な比較は避けたいと思いますが、それでもこの本を通じて、古代人の心が少しだけ分かったような気がします。


2015年2月14日土曜日

映画でアメリカを観る(5)

死刑台のメロディ

1971年のイタリア/フランスの合作映画で、使用されている言葉はイタリア語です。この映画の原題は「サッコとヴァンゼッティ」で、1920年代にアメリカで起きたサッコ・バンゼッティ事件という冤罪事件を扱っています。
 第一次世界大戦後、アメリカは世界の経済大国となり、経済は空前の発展を迎えましたが、その繁栄を享受していたのは、ほんの一部の人々でしかありませんでした。そして富める者が最も恐れているのは革命であり、実際に1917年にロシア革命が起こっていました。こうした中で、警察はストライキや左翼思想家たちに対する弾圧を強めていました。そして1920年にマサチューセッツ州で強盗事件が起きると、アナキストでイタリア系移民だったサッコとヴァンゼッティが逮捕されました。
 アナキズムの定義は非常に多様で、一言で述べることは困難ですが、少なくとも「無政府主義」という日本語の訳からくるイメージ、つまり「無秩序な無政府状態を望む」とは異なっています。総じてアナキストは巨大な国家権力を嫌い、その意味ではマルクス主義とは相容れません。一部には権力と戦うため武力を用いることもありますが、多くは精神の自由と平和を求める人々です。映画によれば、サッコとヴァンゼッティは、真面目に働いてもなお、踏みにじられるような社会を正したいと考えていました。しかし、ブルジョワにとっては、共産主義も社会主義もアナキズムも皆「赤」であり、徹底的に弾圧すべき対象でした。
 この時代には、前に述べた「世界を揺るがした十日間」の著者ジョン・リードも迫害されました。また、一時鳴りを潜めていた人種主義集団クー・クラックス・クランも活動を活発化させていました。そしてサッコとヴァンゼッティの事件においては、警察も検察も裁判官も、さらに陪審員までも偏見の塊でした。彼らにとって二人が強盗事件の犯人かどうかはどうでもよいことで、二人が「赤」かどうかが問題だっただけでした。
 アメリカには建国以来、WASP(ワスプ)=「""はホワイト、"AS"はアングロ・サクソン、""はプロテスタント」であることが、真のアメリカ人の条件であり、こうした信念がインディアンや黒人を迫害し、またセーラムで起きたような事件の背景でした。19世紀末頃から南欧系や東欧系の移民が急増し、彼らの多くはカトリックやユダヤ人だったため、アングロ・サクソン系の人々は不快感を抱いていました。この頃プロテスタント的な禁欲主義に基づく禁酒法が制定されたのも、こうしたことを背景としています。またこの時代には、アジア系の移民を排斥する移民法も制定されています。
 1921年に陪審員は、明確な証拠もないまま二人に有罪の判決を下し、その結果二人の死刑が決定されました。これに対して全米で二人の無罪を主張する運動が巻き起こってきました。この運動は、二人がアナキストであるかどうかとか、イタリア系であるかどうか、といったことが問題なのではなく、正義が行われなかったこと、そしてアメリカの民主主義の危機を問題としました。そしてこの運動は外国にも波及し、世界的な規模で無罪の要求が行われました。
実は、19世紀末にフランスでも似たような事件が起きます。フランスのユダヤ系将校ドレフュスが、スパイの疑いで逮捕されます。そして彼の無罪の証拠があるにもかかわらず、政府は保守派に配慮して有罪で押し通そうとしました。これはもはやユダヤ人問題ではなく、フランスの民主主義の根幹に関わる問題です。多くの知識人がドレフュスの無罪を主張し、政府を非難します。その結果、政府はドレフュスの釈放を決定します。それは、フランスの民主主義の勝利だったといえます。
一方アメリカでは、多くの反対にもかかわらず、1927年にサッコとヴァンゼッティは処刑されます。アメリカでは民主主義が敗北したわけですが、これをきっかけにこの様な不当な裁判に対する反省も生まれてきました。ヴァンゼッティは、一介の労働者にすぎない自分が、歴史に大きな役割を果たせたことを幸運に思う、と言って死んでいったそうです。 
この映画の主題歌は「あなたたちは、ここにいる」というもので、長い闘争の末に処刑されて肩の荷をおろした二人への鎮魂歌だそうです。さらに、多くの支援にもかかわらず、正義がはたされなかったことへの無力感と二人への同情が込められているそうです。「処刑台のメロディ」という日本語版のタイトルには、こうした意味が込められているのだと思います。
二人の処刑から50年後の1977年に、この判決は誤審であり、二人が無罪であることが正式に認められました。この映画が公開されてから、6年後のことです。


 どうもアメリカという国は、戦争の後にイデオロギー的ヒステリーが起きる傾向があるようです。南北戦争の後には、クー・クラックス・クランの人種主義が吹き荒れ、第一次世界大戦後にはクー・クラックス・クランの復活やサッコ・バンゼッティ事件など、第二次世界大戦後には赤狩り旋風が吹き荒れ、次に述べるオッペンハイマーもこれに巻き込まれることになります。

シャドー・メーカーズ

1989年にアメリカで制作された映画で、最初の原爆製造に携わった人々を描いています。タイトルの「シャドー・メーカーズ(影の製作者たち)」は英国版のタイトルで、この事業が極秘で行われたため、こうしたタイトルが付けられたと思います。原題は「Fat Man and Little Boy」で前者が長崎に、後者が広島に落とされた原爆です。その形状から、前者は「太っちょ」、後者は「ちび」という名称がつけられました。ちなみに、広島に原爆を落とした爆撃機「エノラ・ゲイ」は「陽気なエノラ」という意味です。これらはアメリカ人特有のユーモアですが、あまり笑う気になれません。


ところで、アインシュタインの特殊相対性理論の帰結は、E = mc2(エネルギー (E) = 質量 (m) × 光速度 (c) 2 )で表わされるそうですが、私にはまったく意味が分かりません。私は物理学史が好きで、以前ずいぶん物理学史に関する本を読んだのですが、20世紀になるとまったく理解できなくなります。いずれにしても、この単純な公式が原爆を理論的に裏付ける公式だそうです。ドイツ系ユダヤ人だったアインシュタインは、アメリカのF.ローズヴェルト大統領に、ドイツが開発する前に核兵器を開発するようにという手紙を書いたそうです。F.ローズヴェルト大統領がその手紙に影響されたかどうかは知りませんが、アインシュタイン自身はこの手紙を書いたことを、生涯後悔したとのことです。
どのような経緯かは知りませんが、当時アメリカではドイツが核兵器開発を進めていると信じられており、F.ローズヴェルト大統領は、1942年に核兵器開発計画の開始を指示します。これは当初マンハッタンに本部が置かれたため、マンハッタン計画と呼ばれました。1943年にニューメキシコのロスアラモスに研究所が建設され、アメリカ中から優秀な研究者を集めて研究が開始されました。その責任者として、当時39歳のオッペンハイマーが選ばれました。彼は早熟の研究者で、理論物理学を専攻し、統率力にも定評がありました。ただ、研究者の身辺に多く共産主義者がいたため、厳重な監視体制が敷かれました。そして彼らに与えられた使命は、19カ月で完成させよということでした。
 間もなくドイツでは核兵器開発の計画がないことが判明し、しかも19455月にはドイツが敗北しました。もはや計画を続行する意味がありませんので、研究者の間でも核兵器の開発を止めるべきだという意見が強まっていました。しかし核兵器の完成は目前に迫っており、日本を倒すためにも、また戦後ソ連に対して優位に立つためにも、製造は続行されました。オッペンハイマーも躊躇しましたが、結局1945716日世界で初めて原爆実験を成功させます。ここに至るまでに躊躇はあったにしても、映画では彼は科学者として一つのことを成し遂げた満足感に溢れていました。

 ロシア革命後、アメリカでは共産主義者に対する弾圧が強まり、第二次世界大戦中には同盟国への配慮もあって一時弾圧が緩みますが、第二次世界大戦後再び弾圧が強化されます。そして1950年には、マンハッタン計画に参加していたローゼンバーグ夫妻が、スパイ容疑で逮捕されました。この年、マッカーシー上院議員が「国務省に所属し今もなお勤務し政策を形成している250人の共産党党員のリストをここに持っている」と発言し、これをきっかけに赤狩り旋風が吹き荒れます。この「250人のリスト」なるものは実在しなかったようですが、アメリカは再びイデオロギー的ヒステリー状態に陥ってしまいます。
 この頃、オッペンハイマーは水爆の開発を依頼されましたが拒否し、むしろ核兵器を国際管理の下におく必要性を訴えます。しかし、妻や弟など近親者が共産党党員であり、自身も共産党の集会に参加したことが暴露され、1954年にオッペンハイマーは公職を追放されることになります。晩年のオッペンハイマーは核兵器を開発したことを後悔しつつ、1967年に62歳で死去します。

 この映画は、核兵器の開発に対する自己弁護的なところがあり、あまり評判のよくない映画でしたが、マンハッタン計画の実情を知る上では、大変参考になる映画でした。


ニューオーリンズ

1947年にアメリカで制作された映画で、ジャズの発祥地ニューオーリンズを舞台としています。
 ニューオーリンズはルイジアナ州にある港湾都市で、もともとフランスの植民地でしたが、19世紀初頭にアメリカが購入しました。したがって本来フランス語でNouvelle-Orléans=「新オルレアン」と呼ばれていましたが、これが英語でニューオーリンズと呼ばれるようになります。この町は、ミシシッピー川の河口近くにあり、ここからミシシッピー川とその支流を通じて、アメリカ内陸部と深くつながっています。内陸部の農産物などがミシシッピー川を下ってニューオーリンズに達し、そこから海外に輸出され、また海外からの商品がニューオーリンズに入って、そこからミシシッピー川を遡って内陸に運ばれていきます。早くからミシシッピー川に蒸気船が登場し、マーク・トゥエインもその船員をしていたことがあり、彼の「トム・ソーヤの冒険」はその経験に基づくものです。

 一方、19世紀初頭にハイチ革命が起きると、白人が奴隷を連れてニューオーリンズなどに流れ込み、さらにアメリカで奴隷貿易が禁止されると、ニューオーリンズは奴隷市場としてで繁栄し、1840年代にはアメリカ最大の奴隷市場となります。このブログの「映画でアメリカを観る マンディンゴ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/01/2.html)でも、ちょうどこの時代のニューオーリンズの奴隷市場が描かれています。その結果黒人人口が増加し、1900年頃には黒人と混血=クリオールの人口が市の半分を超えるまでになります。 こうした背景のもとに、20世紀初め頃のニューオーリンズで、西欧の音楽技術とアフリカ系アメリカ人の独特のリズム感とが結びついて、ジャズと呼ばれる音楽のジャンルが形成されることになります。

 この映画は、1917年のニューオーリンズを舞台としています。ストーリーは、歓楽街のカジノの経営者と、ニューオーリンズに越してきた良家の御嬢さんが恋をする、というだけのことですが、伏線としてジャズの歴史が語られており、ルイ・アームストロングなどジャズの奏者が多数出演しています。当時、酒場やカジノでジャズが演奏されるようになり、大変な人気を博していました。ジャズはまず民衆に広がり、さらにクラシックに飽き足らない一部の変わり者が愛好するようになり、しだいに人々に認知されるようになっていました。
ところが、1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると、ニューオーリンズに軍事基地が建設され、兵士たちに梅毒が感染することを恐れた軍が歓楽街を封鎖してしまいます。歓楽街で働く人々は、アームストロングも含めて、やむなくミシシッピー川を遡ってシカゴに行きます。そしてシカゴでジャズは大評判となります。1920年に禁酒法が制定されると、酒場は地下に潜り、そこでミュージシャンたちが集うようになります。またレコードやラジオの普及によって、ジャズはアメリカを代表する音楽の一つに成長していき、世界中に普及していきました。皮肉にも、軍による歓楽街の封鎖や禁酒法が、ジャズの普及を促したわけです。

 1917年にニューオリンズでは、すでに奴隷制度は廃止されていたものの、差別は歴然としており、そうした行動が映画の随所で見られました。何よりも、映画の最後に白人の女性歌手がジャズを歌いますが、そこには黒人の姿は見られませんでした。

2015年2月11日水曜日

アヘン・アロー戦争を読む






















矢野仁一著「アヘン戦争と香港」「アヘン戦争と円明園」は、いずれも昭和14年に出版されたもので、1990年に中公文庫から復刻されています。出版されたのが昭和14(1937)ですから日中戦争が始まった年であり、特別な思いで書かれたものだろうと思います。なお、両書とも宮崎市定氏が解説を書いています。
この時代を扱った本は、私もかなり読みましたので、全体としては知っていることが多いため、流し読みをしました。ただ、イギリスが対日貿易から対清貿易に切り替えていく過程や、清と中国とのやり取りがかなり詳しく書かれており、大変参考になりました。 
また、アヘン戦争は徹頭徹尾、当時のイギリスの利己心より発した不正極まる暴力行為であり、外交史上最大の汚辱であるにも拘わらず、これに関して専門家の手になる研究発表が皆無であることに、著者は強い憤りを感じています。すでにアヘン戦争から100年近くもたっているのに、当時の研究状況がそのようなものであったことには、私も驚きました。ただ、この時期に日本も中国への侵略を本格化しますので、それへの批判も込められていたかもしれません。また、筆者は、イギリスがアヘンを密輸することの不道徳性を厳しく批判していますが、当時日本軍は満州でアヘンを販売していました。

 「アロー戦争と円明園」は、私が知っている範囲内では、アロー戦争のみを扱った唯一の本です。その内容は極めて詳細で、英仏両国の不義と貪欲を告発しています。ただ詳細すぎて、残念ながら私は話についていけませんでした。また、両書とも政治的・軍事的な動向を詳細に追っていますが、当時の研究動向からすれば当然とは思いますが、民衆が全く登場しません。むしろ民衆の愛国心のなさを批判していますが、この時代の中国に国民国家的な愛国心など存在するはずもないと思います。

2015年2月7日土曜日

映画でアメリカを観る(4)

ジェシー・ジェームズの暗殺

  2007年のアメリカ映画で、アメリカで人気のある西部の無法者ジェシー・ジェームズを主人公とした映画です。西部劇では、早打ちのガンマン、インディアンと戦う騎兵隊、カウボーイが主役でしたが、この映画では銀行強盗が主役です。
















この映画の舞台となったのは、ミズーリ州です。ミズーリ州は、奴隷州ではありましたが、一人の農場主が所有する奴隷は5人以下という場合が多く、奴隷制が経済の根幹を形成していた分けではありませんでしたので、南北戦争に際して、北軍につくか南軍につくかで意見が分かれてしまいました。そして南軍を支持する人たちはゲリラとなって北軍と戦いますが、その中にジェシー・ジェームズもいました。彼は、186416歳の時に兄とともにゲリラに参加し、戦争が終わった後にも、彼は兄とともに銀行強盗、列車強盗を繰り返し、民衆の間では憎い北部を苦しめる義賊として、大変人気がありました。1866213日に、ジェシー・ジェイムズが世界初の銀行強盗に成功したことから、213日は「銀行強盗の日」となっているそうです。アメリカというのは変な国ですね。
 ジェシー・ジェームズについては、多くの真偽不明のエピソードが残っており、以下にウイキペディアに従って、二つのエピソードを述べます。
1872年に競馬が終了した後、会計係が収益を集めて10,000ドルを銀行へ輸送しようとした時、ジェシーたちが突如襲いかかり、金を奪って去っていきました。銃で撃たれたり死亡したものはいませんでしたが、ただ少女が一人、馬の蹄にひっかけられて怪我をしてしまいました。事件後まもなく「タイムズ」に一通の投書が届けられ、少女への治療代を支払う意思が表明され、「自分たちは何百万ドルを盗んでも咎められない政治家たちよりは道義的に優れていることと、自分たちは自衛のため以外に人を殺さず、金持ちから金を奪って貧乏人に配っている」と釈明がなされていたとのことです。まるで鼠小僧です。
また、ジェシーたちがある農家で未亡人から食事をご馳走になったおり、女性から「この農場でもてなせるのも今日までで、明日からは1,400ドルの借金のために人手に渡る」と打ち明けられました。するとジェシーたちは1,400ドルを贈り物として未亡人に残し、農家に借金取りが訪れ1,400ドルを取り立てて帰っていきましたが、帰り道にジェシーたちが待ち伏せており、1,400ドルを取り返したということです。これらの話はいくらなんでも出来すぎで、誰かの創作と考えた方がよさそうです。
映画では、ジェシーを崇拝する若者が彼の兄とともに、ジェシーにかけられた懸賞金欲しさと、ジェシーへの愛憎相俟って、1882年にジェシーを殺害するに至ります。そこに至る両者の精神的な葛藤は、かなり見応えのあるものでした。そしてジェシーの葬儀には多くの人々が参列し、彼の死を悼みました。ジェシーが34歳の時でした。それに対して、ジェシーを暗殺した兄弟は、人々から卑怯者と罵られ、二人とも最後は自殺することになります。こうした民衆の心情は、日本で源義経を称賛する判官贔屓と似た側面があるのかもしれませんが、同時に西部というほとんど無法地帯で、自力で逞しく生きていく人々の共感があるのかもしれません。


ビリー・ザ・キッド


この時代に活躍した西部のアウトローとして、ビリー・ザ・キッドやワイアット・アープなどが有名です。ビリー・ザ・キッドは、12歳の時に人を殺し、1881年に21歳で殺されるまでに21人殺したとされます。何か数字合わせのようで、あまり信用できませんが、写真にあるように、華奢な体つきでハンサム、射撃と騎乗の腕は相当なものだったようです。映画などでは、弱きを助け強きをくじく義賊として描かれることが多いようです。ワイアット・アープはバッファロー狩りから始まり、保安官助手を務めたり、賭博場や娼館を経営したり、OK牧場で決闘をしたり、まさに法と無法の両側で生きた人物でした。彼は1929年まで生きましたので、西部開拓時代の伝説的な生き証人として、映画の西部劇の制作にも影響を与えました。
 この映画でもう一つ興味をもったのは、ピンカートン探偵社が出てきたことです。「探偵」という職業は、警察組織が未熟な時代に、警察や個人から依頼を受けて、捜索や問題の処理をする職業のことで、シャーロック・ホームズなど小説で名探偵と称される人々が登場します。これに対してピンカートン探偵社は桁外れでした。1850年代に大統領候補だったリンカーンの暗殺を未然に防いで有名になり、以後要人の身辺警護を依頼されたり、大企業に雇われて労働組合のストと破りなどで、実績を上げます。そして映画では、政府がピンカートン探偵社にジェシーの逮捕・殺害を依頼し、ジェシーを暗殺した兄弟が、ピンカートン探偵社のスパイだったことが暗示されています。なお、同探偵社は、最盛期にはアメリカ陸軍の将兵を上回る人数の探偵を雇用しており、今日でも世界有数の警備会社です。


 19世紀後半の西部は無法地帯であり、そこで生きる人々の間に様々な伝説が生まれました。その伝説の真偽はともかく、こうした伝説を通じて、善きにつけ悪しきにつけ、「アメリカ的」なものが形成されていきます。東部沿岸地帯の人々は、長くイギリスへのコンプレックスを持ち続けますが、西部ではイギリスなどとは何の関係もない人々が、無法地帯に独自の社会を形成しつつあったのです。


遥かなる大地へ


1992年にアメリカで制作された映画で、アメリカン・ドリームをテーマとしていますが、その背景としてアイルランド問題と西部の開拓問題を扱っています。
 アイルランドとイギリスの間には、宗教問題・自治問題・土地問題という三つの問題があります。アイルランドはカトリックの国であり、17世紀にピューリタンのクロムウェルがアイルランドを征服して以来、宗教問題と自治問題が発生します。さらにクロムウェルはアイルランドのほとんどの土地をイギリスの不在地主に与え、農民を小作農民とし、食糧をイギリスに輸出していました。しかも、アイルランド人は土地を分割相続する風習があったため、土地は零細化し、さらに地主は小作料を高くするために恣意的に小作人を追い出しました。これに対して農民の不満が高まっていきます。これが土地問題です。
 こうした中で、1846年にジャガイモ飢饉が起きます。農民たちは、小作料のかからない荒地でジャガイモを栽培し、それが彼らの主食となっていました。ジャガイモは中南米の原産ですが、いまやそれがアイルランド農民の命綱となっていたわけです。ところが1846年にほとんどのジャガイモが立ち枯れし、100万人を超える人々が餓死したと言われます。ジャガイモの立ち枯れには色々な要素が複合的に作用していますが、直接的にはウィルスの感染でした。そして問題は、ジャガイモの立ち枯れにあるのではなく、その後の処置にありました。
 実はジャガイモの立ち枯れはアメリカでもヨーロッパの他の国でも起きていたのですが、アイルランドほど重大な問題に発展しませんでした。つまり他の国では積極的に農民に食糧援助が行われたのに対し、アイルランドではこの時代にも食糧が輸出されていたのです。つまり飢餓輸出です。その背景にはイギリスの労働問題があったようです。当時イギリスでは労働運動が激化していたため、彼らに安い食糧を提供する必要がありました。さらにアイルランドから低賃金労働者を導入して、イギリスの労働者に対抗させるという意図もあったと思われます。こうしたイギリスの態度が、破滅的な飢饉を引き起こすことになります。
 アイルランドでは、多くの餓死者が出る中で、多くの人々が故郷を捨てて世界各地に移民として流出していきました。はっきりしたことは分かりませんが、飢饉が起きてから10年後に人口が半減したといわれ、今日でもアイルランドの人口は飢饉以前に回復していません。その後もアイルランド人の移民は続き、とくにアメリカへの移民が多かったようです。そうした移民のなかに、後に第35代アメリカ大統領となるジョン・F・ケネディの祖先もいました。当時アメリカでは産業が急速に発展し 、多くの労働者を必要としていましたので、まさに流出する側と流入する側の思惑が一致した分けです。
 映画は、1892年のアイルランドから始まります。農民の息子ジョセフが父を殺された復讐のために地主の館に行きます。ところがその屋敷にシャノンという変な娘がいました。彼女は田舎の堅苦しい生活が嫌いで、アメリカで華やかな生活をしたいと願っていました。しかし女一人での旅はできなかったので、彼女はジョセフに、交通費を払うのでアメリカまで連れて行って欲しいと頼みます。アメリカでは、誰でも土地が貰えると聞いたジョセフは、1892年に彼女とともにアメリカに旅立つことになります。自分の土地を手に入れる、というのが彼の夢でした。
 彼女はある程度のお金を用意していましたが、ボストン港に着くと詐欺師にたちまち巻き上げられ、一文無しになってしまいます。その後二人はどん底生活をし、時には空き巣に入ったこともありました。その後いろいろあって、二人は土地を手に入れるため、西部に向かいます。
 1830年代から、インディアンはオクラホマに強制移住させられた話は、すでに述べました (「映画でアメリカ史を観る(3)) 。それ以来オクラホマはインディアンの保留地となっていました。オクラホマとは、「赤い人々」を意味します。ところが、19世紀末になると、鉄道会社がインディアンの土地の半分以上を取り上げ、これを開拓者に分配することになりました。特定の日時に開拓者たちを集め、一斉にスタートして早い者勝ちで土地を手に入れるというもので、これをランドラッシュといいます。最初のランドラッシュは1889年に行われ、1895年までに5回行われます。ジョセフたちが参加したランドラッシュは、多分1893年のものと思われ、最大規模のランドラッシュでした。
 ジョセフとシャノンは土地を手に入れることに成功し、同時に二人が愛し合っていることに気づき、こうして二人は、夢だった自分の土地を耕し、そこで生きていくことになります。これは、典型的なアメリカン・ドリームの物語です。しかしこのアメリカン・ドリームは、インディアンの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはなりません。そしてこの夢は長つづきしませんでした。この夢は、次の映画で打ち砕かれることになります。

 映画の内容は単純でしたが、映画そのものは面白く観ることができました。とくにランドラッシュの場面は壮観でした。

怒りの葡萄

1940年に制作されたアメリカ映画で、スタインベックの同名小説を映画化したものです。

映画の舞台は1930年代のオクラホマです。オクラホマは、グレイトプレーンズの一角を占める肥沃な土地ですが、強風や雷雨が多く、世界有数の竜巻の発生地でもあります。それでも第一次世界大戦中には戦争特需で農業は発展し、農民は借金をして経営を拡大していました。ところが戦後農産物需要が減り、さらに世界恐慌で価格が暴落します。そして、農民に壊滅的な打撃を与えたのは、ダストボールです。
 ダストボールの原因は、未熟な農法にあります。より生産性を高めるため、過剰なスキ込みによって草が除去され、肥沃土は曝され、そこへ日照りが続いて土は乾燥し、土埃とって東方へと吹き飛ばされます。そのほとんどは巨大な黒雲となって東海岸にまで達し、大西洋へと失われていきました。要するにダストボールは、農業の開拓を自然の限界まで引き上げることによって発生した人災だったのです。その結果、多くの農民が東部の資本家によって借金のカタとして土地を奪われ、資本家は集積した土地でトラクターを用いた大規模な農業経営を行うようになります。



土地を失った農民は、土地と仕事がいくらでもある「乳の密のあふれる土地」とうわさされたカリフォルニアに向かいます。この時代のオクラホマからの移住者は、30万から40万と見積もられており、その中には、前の映画で観たジョセフたちも含まれていたかも知れません。そしてこの映画では、トムは一族10人とともに、おんぼろのトラックに乗ってカリフォルニアに向かいました。それは、モーセがユダヤ人を率いてエジプトを脱出し、乳と密の溢れるイスラエルへ向かう姿を彷彿させます。
 しかしカリフォルニアには土地も仕事もありませんでした。例えば、「500人の労働者必要 高給優遇」と書いてある広告を2000枚配布すると、5000人の労働者が集まってきます。そうすると仕事の取り合いになり、賃金が安くなります。さらにストライキを起こせば、警察が介入し、下手をすると射殺されます。これは誰それが悪いといった問題ではなく、富めるものが貧しいものをとことん搾取するという社会の構造が問題なのです。
 ワインを造るには葡萄を足で踏み潰します。映画は、この踏み潰された葡萄を踏み潰された人間にたとえ、そうした人間にも怒りがあることを伝えています。やがてトムは家族のもとを離れ、地下に潜伏して労働運動を行おうと決意します。そして残された家族も、力強く生きて行こうと決意して、映画は終わります。ただ、原作はもう少し複雑で、崇高な終わり方をしています。トムの妹がトラックの中で流産し嘆き悲しみますが、たまたま飢え死にしそうな年寄りに自分の乳を与え、満足そうに笑みを浮かべて終わります。このように踏み潰された人にこそ、人間の真の崇高さがあるということでしょうか。

 1939年にスタインベックの「怒りの葡萄」が発表されると、ジョン・フォードは直ちにこの映画の主演を申し出たそうです。このブログでも彼が主演とした「未知への飛行」を掲載しており、また後に述べる「12人の怒れる男」でも彼が主演を演じますが、いずれも寡黙で多くを語らず、胸に怒りを秘めて不正に立ち向かう役を演じています。この小説と映画は大評判になるとともに、保守層からは激しい批判を受けました。しかしこの小説でスタインベックはノーベル文学賞を受賞し、この映画はアカデミー賞を受賞しています。