2015年5月23日土曜日

お知らせ

このブログの投稿が150件に達し、またアクセス件数も御蔭様で2万件を超えました。しかし、今年の11日から週2回のペースで投稿を続けてきたため、少し息切れがしてきましたので、この辺りで1カ月ほど投稿を休みたいと思います。「映画鑑賞記」に関しては、今後「映画で観る西欧中世」「映画で観る近代中国」などを予定しています。また「読書鑑賞記」については、場当たり的に読んでいるため、特に予告はできません。「家庭菜園」については、基本的に去年と同じであるため、あまり書くことがありません。グリーンピースは、連作障害を克服して大豊作です。ジャガイモもトマトもインゲンも、順調に育っています。また、今年は新しくパプリカを栽培してみました。
 先月動画を投稿してみました。直接ブログに投稿すると、容量がオーバーするため、ユーチューブを介して投稿しています。ただ、映画の場合著作権の問題があり、最初に投降した「天地創造 ノアの方舟」は、著作権がまた1年の残っていました。投稿できる映画は50年以上前のものである必要があり、そうなると投稿できる映画が非常に制約されますが、今後も折に触れて投稿したいと思っています。また、映画の字幕の入れ方が分からないため、投降した映画には字幕が入っていませんが、あまり会話のない場面なので、雰囲気だけ味わってください。

 私の家の前に森があり、一日中鳥の鳴き声がしています。34月にかけては、ウグイスが毎日一日中鳴き続け、現在はセキレイが鳴いています。時々フクロウも鳴いています。こうした鳥の鳴き声を聞きながら畑を耕していると、とても穏やかな気持ちになります。


我が家に咲いていた花です。花の名前は、分かりません。

2015年5月20日水曜日

映画「アレクサンドリア」を観て

2009年にスペインで制作された映画で、古代ローマ帝国末期のアレクサンドリアを舞台としています。この映画の原題は「アゴラ(広場)」です。アゴラとは、古代ギリシアの都市国家の広場=アゴラであり、民会の開催場所でもあったため、比喩的に様々な概念が交わる場を意味し、またアゴラはポリスの中心として複数の道が出会う場所でもあります。そして映画は、さまざまなものがアレクサンドリアに流れ込み、さまざまな葛藤が展開され、やがて歴史が一つの方向に向かっていく様を描いています。












アレクサンドリアは、紀元前4世紀にアレクサンドロスによって建設され、その後プトレマイオス朝の首都となってギリシア文化を継承するとともに、ナイル川デルタ地帯の西端にあって交通の要衝としても繁栄しました。また、アレクサンドリアには大図書館が建設され、世界中のあらゆる分野の書物が集められ、プトレマイオスなど優れた研究者が天文学・数学・哲学などさまざまな研究が行われました。まさにアレクサンドリアは、当時の世界の学問の中心だったといえます。紀元前1世紀にアレクサンドリアは、ローマ帝国の支配下に入りますが、その繁栄はそのまま継続されます。そしてこの映画の主人公は、ここで研究するヒュパティアという女性です。
ヒュパティアは実在した人物で、著書は残っていませんが、優れた天文学者・数学者として知られていました。映画では、彼女が太陽中心説、つまり地動説を証明しようとしたことになっています。すでに紀元前3世紀にアリスタルコスが地動説を唱えていましたが、当時としてはあまりに突飛な考え方に思われたため、彼の説はあまり問題にされませんでした。そして2世紀にプトレマイオスが天動説を確立し、この説が広く受け入れられるようになります。しかしこの説にも、子細に検討すると幾つかの矛盾点があり、映画では彼女はこの矛盾点を解決するため、発想を180度転換して地動説を再検討します。ただ当時の段階では地動説にも致命的な矛盾があり、映画では、彼女はこの矛盾を解くために、太陽の周りを回る地球の動きが円ではなく楕円であるという結論に達しますが、その直後に彼女は殺されてしまいます。いずれにせよ、地動説が日の目を見るには16世紀のコペルニクスを待たねばならず、楕円運動が日の目を見るには17世紀のケプラーを待たねばなりません。
ヒュパティアが生きた時代は、キリスト教が帝国を支配しつつあった時代でした。313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したのは、キリスト教を帝国統治に利用しようとしたからでした。その後も概ねこの政策は継承され、皇帝はキリスト教徒となり、キリスト教徒を重用するようになります。そうなれば寄らば大樹の陰で、続々とキリスト教への改宗が進んでいきます。そしてテオドシウス帝は、380年にキリスト教を国教とし、392年には他の宗教を禁止するに至ります。そして映画は、その前年の391年から始まります。
アレクサンドリアは多様な世界でした。古代エジプト以来の神々、古代ギリシアやローマの神々、そして離散した多くのユダヤ人が住んでいました。さらにアレクサンドリアにはキリスト教の主教座が置かれており、その司祭だったキュリロスという人物が、民衆を扇動して異教徒の弾圧を繰り返していました。特に彼が目の敵としていたのは、大図書館とそこで行われている研究で、それは彼にとって神を冒涜するものでした。そのため彼は民衆を動員して図書館を破壊してしまいます。これによって、ヘレニズム以来蓄積されてきた偉大な文化遺産は失われ、ヨーロッパの科学は長い間低迷することになります。考えて見れば、彼らが行っていることは、今日イスラーム主義者たちが行っていることと同じであり、一神教という特異な宗教は、過激化すると他のものを一切受け入れない傾向にあるようです。
412年にキュリロスはアレクサンドリア教会の総主教となります。過激で野心家の彼にとって、まだ未解決の問題が残っていました。一つはユダヤ教徒の問題で、彼らはアレクサンドリアで大きな勢力を形成していましたので、これを徹底的に弾圧します。さらにヒュパティアの問題がありました。たかが一介の科学者にすぎませんが、彼女はキリスト教に改宗しておらず、しかもアレクサンドリアでなお大きな声望を維持していました。そして415年に、彼女は扇動された民衆によって殺害されます。キュリロスが彼女の殺害を指揮したかどうかは不明ですが、それを望んでいたことは確かです。こうしてヘレニズムの最後の火は、消し去られることになります。
映画はこれで終わりですが、キリスト教はもう一つ重大な問題を抱えていました。ここでは神学上の議論については触れませんが、キュリロスは、暴力・恫喝・陰謀・収賄などあらゆる手を使ってライバルを異端として排斥していきます。すでに異端とされていたアリウス派を徹底的に弾圧するとともに、431年にエフェソス公会議でネストリウス派を異端とし、皇帝さえも破門で脅して屈服させます。もはやローマ帝国はキリスト教に乗っ取られたも同然であり、西ローマ帝国はまもなく滅亡します。
キュリロスの神学は、今日の正統派キリスト教の基盤となっており、今日のキリスト教を生み出したのは、キュリロスだったと言えるかもしれません。それと同時に彼は、ヘレニズム文明の破壊者であり、その過程でヒュパテイアも殺害されました。しかしアレクサンドリアにヘレニズム科学の伝統は残り、やがて7世紀に北アフリカがイスラーム教徒の支配下に入った後、アレクサンドリアはアラビア科学の揺籃地の一つとなっていきます。
この映画にはさまざまな伏線があり、相当複雑ですが、かなりよく出来た映画だと思います。映画では、ヒュパテイアに恋する二人の男性とその運命も描かれていますが、ここでは触れません。


2015年5月16日土曜日

映画で古代ローマを観て(2)

ザ・ローマ帝国の興亡

2006年にイギリスでテレビ用に制作された映画で、500年に及ぶローマ帝国の盛衰を6つの事件を通じて描いています。6つの事件とは、第1話「ネロ」、第2話「シーザー(カエサル)」、第3話「革命(グラックス)」、第4話「ユダヤ戦争」、第5話「コンスタンティン(コンスタンティヌス)」、第6話「西ローマ帝国の滅亡」です。なお、「ローマ帝国」と言った場合、一般には「皇帝が統治する国」という意味で、オクタヴィアヌスが元首となった紀元前27年を指しますが、「帝国」を「多様な民族を支配する国」として捉えるなら、ポエニ戦争頃から「帝国」と呼んでも良いのではないかと思います。なお、「帝国」については、このブログの以下の項目を参照して下さい。
グローバル・ヒストリー 第6章 古代帝国の成立
 グローバル・ヒストリー 第28章 帝国の崩壊とナショナリズム

1話 ネロ
 ネロは、1世紀の皇帝で、暴君として知られており、ドラマをこの皇帝から始めた理由は、一つには視聴者を引き付けるという意味もあったでしょうが、同時にネロの死はオクタヴィアヌス以来始まった帝政ローマの一つの転換点となりましたので、ドラマはネロから始まってその前と後を描くと言う形になっています。彼は54年に17歳で即位し、当初は名君と言われていましたが、やがて妻や母を死に追いやり、側近である大哲学者セネカを自殺させます。またローマに火をつけたと噂されたことや、キリスト教徒を迫害したこともあり、後世暴君と言われるようになります。
 彼が後世暴君として酷評されたのは、やはりキリスト教徒による批判が強かったからです。ネロがローマに火をつけたという根拠はなく、映画でもローマの火事の場面から始まり、市民の救済に奔走するネロの姿が描かれていました。その後ネロは美しいローマを再建しますので、彼は意外にもローマ市民には評判がよかったようです。キリスト教の迫害についても、むしろ市民の大多数が、ローマの神々にまったく敬意を示さないキリスト教徒を憎んでいたようです。後にキリスト教が天下を取ると、こうした事実はすべて無視され、すべてがネロの異常性に原因があるかのように言われるようになります。こうしたことに対する反省もあってか、映画でもキリスト教についてはまったく扱われていません。この時代には、キリスト教は何万もあるローマ神々の一つでしかありませんでした。
 ただ彼は、皇帝の地位が何であるかを理解していませんでした。彼は芸事をこよなく愛し、何度も演奏会を開いて自ら歌ったり、演技を行ったりしました。はっきり言って彼には芸術についての才能はほとんどなかったと思われますが、周囲の人々はけっして直言しないため、自己陶酔に陥ってしまいます。演奏会には貴族たちに出席を強制し、途中退場を禁止したため、後に皇帝となるウェスパシアヌスは、あまりの退屈さに居眠りをして追放されてしまいます。要するにネロは、皇帝にまったく向いていなかったのだと思います。むしろ彼は大道芸人にでも生まれていれば、幸せだったのかもしれません。事実、彼の催し物には、キリスト教の迫害を含めて、大衆には結構人気がありました。
オクタヴィアヌスに始まる元首政は、事実上皇帝の独裁ですが、独裁を嫌うローマ人に配慮して、あくまでも元老院との共同統治という形をとります。また、すでに実力を失っていた元老院にとっても、こうした元首を守ることによって、かろうじて彼らの権威を維持していたのだと思います。オクタヴィアヌス以来5100年近く続いたこの体制は、ネロの死とともに崩壊し、以後軍人が皇帝を擁立する混乱の時代を迎えることになります。

2話「シーザー(カエサル)
 ネロの時代より100年以上前に遡ります。当時のローマは混乱の極みにありました。ローマの政治形態は非常に複雑ですが、思い切り単純化して言えば、貴族である元老院が実権を握り、これに民衆が平民会を基盤に対抗し、もはやローマは内乱状態にありました。こうした中でも、属州の反乱や奴隷の反乱、さらに征服戦争が続けられており、ローマの制度は機能不全に陥っていました。例えば、実際に政治・軍事の指揮を執る2名の執政官は、任期が1年であり、戦争の最中に執政官が任期切れで交替する分けです。こうした危機的状況にあっても、元老院は自らの権益に固執して延々と議論に明け暮れていました。この状態で、ローマがここまで発展してきたのが、不思議なくらいです。
今やローマが必要としたのは、もっと効率的なシステム、つまり「独裁」であり、それを可能とするのは軍事力でした。しかしローマ人が最も嫌うのは「独裁」でした。カエサルはガリアで大勝した後、ローマに向かいますが、彼のライバルであるポンペイウスは元老院とともにギリシアに逃げてしまいます。紀元前48年にポンペイウスを破ると、カエサルは元老院を無力化し、紀元前44年に自ら終身独裁官になります。本来臨時の役職だった独裁官の職を恒久的なものとし、権力を一点に集中させたわけで、このシステムはそのまま彼の後継者オクタヴィアヌス(アウグストゥス)に継承され、帝政の基盤となっていきます。
 カエサルは政治・軍事の天才と言われましたが、映画ではひたすら戦うカエサルが描き出され、軍事力で権力を握る過程が描かれています。しかし彼は、もちろん野心もあったでしょうが、自らの歴史的役割を十分に認識し、それを全うしていったのだと思います。

3話「革命」
 ドラマは、これよりさらに100年近く遡ります。当時ポエニ戦争が終わってまもなくのことであり、兵士は故郷に帰っても土地が失われており、平民の不満が高まっていました。こうした中で、ティベリウス・グラックスが登場し、彼は慣例を無視して護民官の職権を最大限に利用します。護民官は、元老院や執政官の決定に対して拒否権をもち、さらに平民会を招集する権限ももっていました。紀元前133年にティベリウスは護民官に当選すると、貴族の大土地所有を制限し、これを農民に分配するという法案を平民会に提出します。
元老院はあらゆる手を用いて法案の可決を阻止しようとしますが、結局法案は可決されました。しかし護民官の任期は1年であり、ティベリウスが再選を果たそうとしますが、その直前に暗殺されてしまいます。ティベリウスが30歳の時です。その10年後に、弟のガイウスが兄の意志を継いで改革を断行しようとし、21歳の時に護民官となりますが、元老に追い詰められ、自殺します。以後、カエサルが登場するまで、民衆のための改革は一切行われず、ローマは「内乱の一世紀」と呼ばれる混乱の時代を迎えることになります。

4話「ユダヤ戦争」
 再びネロ帝の時代に戻ります。この時代にローマ社会は大きく変化していました。自作農の没落は決定的となっていたため、農民による軍隊というローマの理念の維持は困難となり、傭兵が雇われるようになります。その結果、広大なローマ帝国の各地に膨大な軍隊が常駐され、それぞれの軍団の指揮者は巨大な軍事力をもつようになります。そうした中で、ネロ帝の末期の56年にユダヤで反乱が起きます。
 ローマは属州の宗教や慣習には寛大でしたが、ユダヤ教が独特の一神教を維持していたことや、相次ぐ増税に対する不満から反乱が勃発しました。そして58年にネロ帝が死ぬと、各地の軍団から4人の皇帝が相次いで擁立され、ローマは大混乱に陥ります。そうした中で、ユダヤ戦争を戦っていたユダヤ総督ウェスパシアヌスがローマに向かったため、ユダヤでの戦争は膠着状態となります。しかし、やがてウェスパシアヌスが皇帝となると、ローマ軍はイェルサレムの総攻撃を行い、70年にイェルサレムは陥落し、その後もユダヤ人の抵抗は続きますが、74年にはほぼ鎮圧されることになります。
その後ローマは、1世紀末から2世紀にかけて、五賢帝時代と呼ばれる安定期を迎え、2世紀に第二次ユダヤ戦争が起きると、ローマはユダヤ的なものを徹底的に抹殺し、その結果ユダヤ教徒は世界各地に離散していくことになります。
ところで、ユダヤ戦争初期にユダヤ軍の指揮官だったヨセフスという人物が、ローマ軍に投降し、以後ローマ軍に協力します。映画は、このヨセフスを中心に展開されます。彼は後に「ユダヤ戦記」を著し、本書は誇張が多いのと自己弁護的であるという欠点がありますが、ユダヤ戦争の当事者による記録として、貴重な資料となっています。ヨセフスの「ユダヤ戦記」は日本語にも翻訳され、私はこれをもっていたのですが、一時大量に本を処分した時、一緒に本書も古本屋に売ってしまいました。

5話「コンスタンティン(コンスタンティヌス)
 2世紀末に五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが死ぬと、再び帝国は混乱状態に陥るとともに、ローマ社会も大きく変質していきます。商品作物を生産する奴隷制大土地所有に代わって、自給自足的な小作(コロヌス)制が普及すると、商品の流通が減少します。ローマ帝国は地中海を中心とした一大ネットワークとして発展しましたが、そのネットワークがしだいに寸断されていきます。また、3世紀に帝国のすべての自由民にローマ市民権が与えられたため、ローマ市民権の特権性がなくなってしまいます。属州の人々がローマ軍で25年働くと市民権が与えられましたが、もはや市民権をもつ意味がなくなり、兵士になる人々が激減したため、周辺のゲルマン民族などから兵士を集めるようになり、軍隊の構成が激変していきます。
 3世紀末にディオクレティアヌス帝は、従来の緩やかで曖昧な政治体制を止め、官僚制に基づく専制支配体制を敷き、これにより帝国は一時的に安定しますが、305年に彼が引退した後、再び帝国は分裂してしまいます。こうした中で、コンスタンティヌスが登場し、324年に帝国を再統一しますが、彼の死後再び帝国は分裂することになります。もはや帝国の統一を維持することは困難となりつつありました。ヨーロッパでは、久しくコンスタンティヌスは名君として賞賛されてきましたが、それはキリスト教世界が生み出した伝説にすぎないと思います。
313年にコンスタンティヌス帝はキリスト教を公認します。彼自身がキリスト教の信仰をどこまで受け入れていたかは不明ですが、彼の母がキリスト教徒だったので、キリスト教に対する偏見はなかったと思われます。映画では、主にキリスト教を受容することの政治的なメリットが語られます。いろいろありますが、帝国の東方ではキリスト教徒が多いため、帝国の統一の過程で彼らを味方につけることができる、などです。そして何よりも重要なのはイデオロギーです。ローマには何万もの神々がいますが、それに対して彼は「帝国は一つ、神も一つ」と宣言し、コンスタンティヌスと神をだぶらせています。つまり統一を維持するために、キリスト教のイデオロギーを利用しようとしたのです。ここに、理想の古代キリスト教帝国という伝説が生まれることになります。
話しは飛びますが、8世紀の半ばに、「コンスタンティヌス寄進状」なるものが出現します。それによれば、コンスタンティヌスがコンスタンティノープルに遷都する際、西方世界をローマ教会に委ねることを約束したというもので、これを根拠にローマ教皇は800年にフランク王国の国王カール1世をローマ皇帝に戴冠します。ここに西欧キリスト教世界が成立したと一般に言われるわけですが、実は「寄進状」なるものが偽作であることが判明しています。つまりローマ教会は偽作文書を用いて西欧世界を乗っ取ったわけですから、これはまさに史上空前の詐欺事件です。カールの伝記作者は、教皇による突然の戴冠にカールは不愉快な顔をしたと記録していますから、カールはこのあたりの事情を知っていた可能性があります。しかし、いずれにしても、ここからコンスタンティヌス伝説が生まれることになります。ここに、フランク王国や神聖ローマ帝国が古代キリスト教帝国の後継者であるという、中世的な国家理念が生まれることになります。
このような意味において、結果論ではありますが、コンスタンティヌスは古代的世界から中世的世界への橋渡しの役割を果たしたと言えるのではないでしょうか。

6話「西ローマ帝国の滅亡」
 ディオクレティアヌス帝やコンスタンティヌス帝による再統一も、結局一時的なものでしかなく、その後も何回か再統一されることはありましたが、それを持続させることは困難でした。330年にコンスタンティノープルに遷都されて以来、東ローマ帝国は独自の発展をしていきますが、西ローマ帝国は衰退の一途をたどって行きます。
 致命的だったのは、ゲルマン民族の大移動で、そのきっかけとなったのが、この映画のテーマである西ゴート族です。西ゴート族はスウェーデンから黒海沿岸のドニエプル川流域に移動し、ローマの傭兵となって帝国領内に居住することが認められていました。そうした中で、東からフン族が移動し、西ゴート族を圧迫したため、西ゴート族が大量に帝国領内に流れ込んできました。この映画の主人公であるアラリックが西ゴート族の王になると、西ローマ皇帝に帝国内に領地を要求します。映画では、長年放浪を強いられて苦しむアラリックと、プライドばかりが高くて実力のない皇帝とが、交互に描かれます。
 結局、410年ローマはアラリックの攻撃によって陥落し、3日間掠奪されて廃墟となります。その後も西ローマ帝国は半世紀以上生き延びますが、それも5世紀後半に滅びます。410年のローマ陥落は衝撃的で、もはや人々はローマを顧みなくなります。6世紀に東ローマ帝国のユスティニアヌスがローマを再征服した時、ローマの人口は500人ほどしかいなかったそうです。

以上、ローマ帝国の興亡に関する6回のシリーズは、人物を中心に歴史を描いており、NHKの「その時歴史は動いた」のイギリス版といったところです。もちろん歴史の上で、ある人物の個性や決断が歴史に大きな影響をあたえることはあるとしても、そのような個性的な人物が出現し、そのような決断をするのには、そこに至る大きな歴史的背景があり、そのことを見逃して個人にだけ焦点を当てるのは問題があります。もっとも歴史を楽しむには、その方がおもしろいので、あまり堅いことは言いません。


ローマ帝国の滅亡


1964年にアメリカで制作された映画です。五賢帝の最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(以下アウレリウス帝)の死と、その後のコンモドゥス帝時代の混乱を描いています。
 教科書的な五賢帝時代の説明によれば、皇帝たちは生前に優れた人物を後継者に指名したため、有能な皇帝が続きましたが、アウレリウス帝は愚かな息子コンモドゥスを後継者としたため帝国が混乱した、とされています。さらに賢明なアウレリウス帝が愚かな息子を後継者にした理由として、彼は別の後継者を考えていましたが、公表する前に暗殺された、とされました。この映画でも、そうした筋書きで描かれています。しかし実際には、たまたま五賢帝たちは直系の後継者をもたなかっただけであり、指名した後継者もすべて血縁者でした。そしてアウレリウス帝には直系の後継者がおり、彼以外を後継者にするとしたら、むしろ内乱の原因になってしまいます。
 アウレリウス帝はストア派の哲学者として知られ、質素を旨とし、誰よりも戦争を嫌っていましたが、皮肉にも20年近い治世の大半を戦争に費やすことになります。周辺民族が絶え間なく国境を侵犯し、もはや広大な帝国を維持することは困難となりつつありました。彼以降、多分誰が皇帝になったとしても、帝国の没落を食い止めることはではなかったでしょう。その後の帝国は、さまざまな曲折を経つつも、ゆっくりと確実に没落の道を歩んでいったのです。
 アウレリウス帝は、30年の結婚生活で13人の子を儲けますが、その内男子で生き残ったのはコンモドゥスだけでした。アウレリウス帝は、唯一の後継者コンモドゥスを手元において自ら教育し、コンモドゥスも清廉な青年に成長しました。そのため、180年にアウレリウス帝が死去し、コンモドゥスが帝位に就くことには何の問題もありませんでした。コンモドゥスが19歳の時で、統治の初期には優れた側近にも恵まれ、善政を敷いていました。彼を変えたのは、家庭内の不和でした。かなり年の離れた姉ルキッラは貴族に嫁いでいましたが、野心が強く、夫を出世させるよう弟に要求しますが、聞き入れられなかったため、弟の暗殺を謀ります。暗殺は失敗に終わり、関係者はことごとく処刑されますが、この頃からコンモドゥスは人間不信に陥り、奇行が目立つようになります。趣味の武術にのめり込み、闘技場を建設して剣闘や野獣との戦いを行い、実際彼の腕は相当なものだったようです。
 彼は、公共建造物を建てたり、民衆に見世物を提供したり、食糧を配ったりしたため、民衆には人気がありました。しかしそうした費用は元老院から徴収していたため、元老院からは評判が悪く、結局、192年に元老院によって暗殺されました。31歳でした。
 映画では、アントニウス帝は若い将軍リヴィウスを後継者しようとし、またコンモドゥスの妹ルシラ(ルッキラ)がリヴィウスと恋仲であり、二人はコンモドゥスに迫害されます。結局、最後にコンモドゥスとリヴィウスは闘技場で決闘を行い、コンモドゥスが死亡して終わります。

 映画はそれなりに面白いものでしたが、史実がかなり歪められていました。コンモドゥスは、確かに問題のある人物であり、父ほど有能とは言えませんでしたが、それなりに善政を行っており、彼の時代には戦争も少なく比較的平和でした。かれの悪評の多くは、元老院によって作られたものではないかと思われます。

 2000年にアメリカで制作された「グラディエーター」は、この映画と同じ時代を扱っています。アウレリウス帝は将軍マキシムスに帝位を譲ろうとしますが、コンモドゥスが父を殺害し、マキシムスの家族も皆殺しにしてしまいます。やがてマキシマスは剣闘士となり、コンドゥムスと戦って殺します。したがって話の枠組みは、「ローマ帝国の滅亡」とほとんど同じですが、「グラディエーター」では、アントニウス帝に対するコンモドゥス親子の屈折した感情、さらに姉であるルキッラとの近親相姦などが語られ、それなりに面白い映画ではありましたが、映画で歴史を観ようとする私には、どちらも今一の映画でした。


 古代ギリシア同様、古代ローマについても、あまり感銘を受ける映画には出会えませんでした。キリスト教に関連する映画は沢山あるのですが、「キリスト教は迫害にもめげず信者が増大し、ついにローマの国教となった」といったステレオ・タイプの話は書きたくないので、ここでは触れません。ただ、次に見る映画はキリスト教を扱っていますが、従来とは全く異なる視点で描かれています。


2015年5月13日水曜日

「皇帝たちの中国」を読んで

岡田英弘著 1988年 原書房
本書が主張したいことは、「国」とは塀で囲まれた「城郭都市」のことであり、皇帝による「天下」は存在したが、「中国」という「国」は存在しなかった、したがって「皇帝」の歴史こそが中国の歴史である、ということのようです。これでは「民衆」などは歴史に無関係で、民衆からすれば、皇帝は自分たちに迷惑さえかけなければ、「居ても構わない」という程度のものになってしまいます。
また、日本人は日清戦争で中国と戦ったと思い込んでいる人がいるが、実は清朝は中国ではなかった、と述べられていますが、これなどは私には詭弁と思われます。「清朝は中国ではなかった」という最大の理由は、中国にはまだ国民国家が成立しておらず、国民国家以外は国家とはいえない、君主の財産が国家の原型である、ということのようです。「国家とはなにか」ということについては久しく議論されてきたことであり、あまり単純に定義することは困難だと思いますが、われわれはそうしたことを理解した上で、一定の領域と行政組織をもった政治的単位を便宜上、国家と呼んでいるのではないでしょうか。

 ただ、全体の論旨はともかく、個々の内容に関しては、興味深いテーマやエピソードが多く書かれており、文章も歯切れがよく、読みやすく面白い内容でした。

2015年5月9日土曜日

映画で古代ローマを観て(1)


ガーディアン ハンニバル戦記

2006年にイギリスでテレビ用に制作された映画です。タイトルの「ガーディアン」というのは、「守護者」といったような意味なのでしょうか。この映画の内容との関連性がわかりません。原題は単に「ハンニバル」です。この映画の背景となったのはポエニ戦争については、「グローバル・ヒストリー 第6章 古代帝国の成立 ローマ帝国―地中海世界の成立」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/6.html)、および「ローマ・カルタゴ百年戦争」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/02/blog-post_13.html)を参照して下さい。





 カルタゴは、現在のチュニジアの首都チュニスの近くにありました。カルタゴは紀元前8世紀頃フェニキア人の都市ティルスの中継地として建設され、紀元前6世紀には北アフリカ沿岸・シチリア島・イベリア半島南部に勢力を伸ばし、西地中海の覇者となっていました。この頃東地中海ではギリシア人が活動し、ペルシア戦争が起き、ローマはようやく歴史にその姿を現します。ローマは長い年月をかけてイタリア半島を征服し、紀元前264年に始まったポエニ戦争でシチリアを獲得します。ローマではフェニキアはポエニと発音されていたので、ポエニ戦争とはフェニキア戦争のことです。なお、これより百年程前に、アレクサンドロスが東方に大帝国を建設し、その際にカルタゴの母市ティルスは徹底的に破壊されます。つまり地中海世界は激動の時代だったのです。
 紀元前264年に始まった第1回ポエニ戦争で、カルタゴはシチリアを失いました。ハンニバルの父はローマへの復讐を誓ってスペインへ渡り、そこで軍隊を養成します。彼は夢は実現することなく死亡しましたが、息子のハンニバルが父の夢を実現します。彼は歩兵 50,000、騎兵 9,000、戦象 37 頭の兵力でガリア(フランス)に入り、アルプスを越えます。アルプスを越えた時、彼の兵力は26000まで減っていました。しかしその後ハンニバルはローマとの戦いで連勝し、カンナエの戦いではローマ軍を壊滅させます。ローマは大混乱に陥り、そのままハンニバルがローマを攻めていたら、ローマは消滅していたかもしれませんが、彼はローマを攻めず、その後本国からの援助もないまま、15年間もイタリア各地を転戦します。
 この後ローマはハンニバルとの直接対決を避け、ローマの若き将軍スキピオがハンニバルの拠点スペインや故郷の北アフリカ・カルタゴを攻撃します。イタリアで次第に孤立していったハンニバルは、カルタゴに呼び戻され、カルタゴ近くのザマでスキピオと決戦を行います。そしてハンニバルは敗北しますが、スキピオはカルタゴを攻撃せず、ハンニバルの身柄を要求することもありませんでした。そのためスキピオはローマで非難されますが、スキピオはかつて壊滅状態にあったローマを攻撃しなかったハンニバルへの温情に応えたのかもしれません。
 その後ハンニバルはカルタゴの改革に努力しますが、しだいにローマに追い詰められ、東方に亡命し、やがて自殺します。彼は用兵の天才で、その用兵術は今日に至るまで学ばれ続けています。一方スキピオは、ハンニバルを尊敬し、彼の用兵術を徹底的に学び、それを用いてザマでハンニバルを打ち破りました。しかし彼はローマでは疎まれ、やがて隠遁し、奇しくもハンニバルと同じ年に死にました。ハンニバルは、ローマを恐怖に陥れた最大の敵として、長く人々の記憶に残り、親が子を叱る時に、「ハンニバルが来るよ」と脅したのだそうです。
 映画は、それなりに面白くはありましたが、特に目新しいものはなく、ハンニバルの生涯をドキュメンタリー風に描いたものでした。

スパルタカス

1960年に制作されたアメリカ映画で、紀元前1世紀にローマで発生した大奴隷反乱の指導者を扱っています。
 共和政時代のローマの基盤は、自由な農民にありました。彼らはローマが必要とする作物を栽培するとともに、戦時には重装歩兵としてローマのために戦う軍事力の基盤でもありました。ところが、ポエニ戦争あたりから、農民たちが没落し始めます。従来の戦争は、ローマ周辺か、イタリア半島内で行われていたため、農民たちは農繁期になると故郷に帰ることができました。ところが、ポエニ戦争以来海外での戦争が増えため、農民たちは自分の土地を耕作できないことがしばしば起こってきました。その結果、農民たちは土地を手放し、その土地を一部の有力者が買い占めて大土地経営を行うようになります。
 大土地経営においては大量の奴隷が使役されるようになりますが、当時相次ぐ征服戦争によって、大量の安価な奴隷が流入するようになります。初めは、奴隷の流入は征服戦争の結果だったのですが、やがて奴隷を獲得するためにも征服戦争が必要となり、原因と結果が逆転してしまいます。いずれにしても、奴隷たちはわけも分からず遥か彼方から連れてこられ、売買され、過酷な労働を強いられます。こうした中で、過去にもしばしば奴隷の反乱が起き、大きなものだけでも、スパルタクスの反乱を含めて3度あり、スパルタクスの乱は第3次奴隷戦争と言われています。
 奴隷の大部分は農場や鉱山での肉体労働に使役されていましたが、邸宅内の雑用、家庭教師、職人など多くの職種に従事していました。そしてスパルタクスは剣奴でした。剣奴とは、奴隷同士が戦って殺し合いをするのを見せるために武術を学ぶ奴隷で、民衆に非常に人気のあるショーでしたが、奴隷にとってはショーではなく、文字通り命をかけた戦いでした。スパルタクスは、出身地も、生年も、経歴もはっきりしませんし、反乱の直接のきっかけもよく分かりません。映画では、彼が剣奴の訓練所で働いていた女奴隷に恋をし、彼女が他所に売られることを知って、反乱を起こすことになっています。当初70人ほどの奴隷が反乱を起こしましたが、周辺から次々と奴隷が集まり、女子供を含めてたちまち数万人に膨れ上がり、最終的には30万人に達したとされます。
 スパルタクスは非常に聡明な人物だったようです。集まってきた多くの技能をもった人々の能力を生かし、また無秩序な行為を許さず、巨大な集団生活の共同体を作り上げます。戦術的にも様々な工夫をし、ローマの正規軍を次々と打ち破ります。彼が目指したのは、ローマの支配領域の外に逃れることだったようで、アルプス越えを模索したり、海賊船を雇って海に逃れようとしたりしますが、結局うまくいかず、ローマ軍と決戦を行い敗北します。彼は戦場で死んだとされますが、死体は発見されませんでした。ローマは生き残った6千人の奴隷を磔にしますが、映画ではその中にスパルタクスがいたことになっています。
 結局、反乱は失敗に終わり、その後も奴隷制は続きますが、まったく無意味だったわけではありません。その後ローマでは奴隷に対する過酷な扱いは多少緩められるようになり、さらに地主の中には奴隷制から小作制へと転換する人々も現れました。つまりスパルタクスの乱は、ローマにおける「奴隷制全盛の最後の段階だった」といわれています。また、この反乱はハンニバルと同様、ローマの人々を震撼させ、長く子供が言うことを聞かないと、「スパルタクスが来るよ」といって脅したそうです。

 その後スパルタクスの名は忘れ去られますが、19世紀にカール・マルクスがスパルタクスを階級闘争の見本として高く評価したため、以後彼は社会主義運動の英雄として崇拝されるようになり、20世紀にはドイツで共産党の母体となったスパルタクス団が結成されます。またソ連でスパルタクスの研究が大々的に行われたため、スパルタクスと共産主義が同一視される傾向が生れます。1950年代のアメリカでは、赤狩り旋風が吹き荒れていたため、スパルタクスを主人公とした映画を制作するには勇気がいりました。この映画の原作は、引き受ける出版社がなかったため、自費出版されましたが、大変大きな反響を呼びました。それでも、この映画の制作に対する世論は二分されていましたが、大統領になったばかりのJ.F.ケネディが自ら映画館に出向いて、この映画を鑑賞したため、世論から評価されるようになりました。


2015年5月6日水曜日

「酒池肉林 中国の贅沢三昧」を読んで

井波律子著 1993年 講談社現代新書
 酒池肉林とは、殷の最後の君主紂王の放蕩三昧の生活を表現したもので、紂王に代表される中国の贅沢三昧の例を多数紹介するとともに、その特色と意味を述べています。なお 紂王については、このブログの「映画で中国史を観る 封神演義」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_4967.html
を参照して下さい。
 贅沢はなぜ行われるのか。権力者の場合、「権力が強化されればされるほど、彼らの心には逆に、いかにしても埋めることの真空状態が徐々に広がっていく。独裁者の内なるブラック・ホールともいうべきこうした心の空洞をなんとか埋めようと、皇帝たちは、けばけばしい奢侈の物量作戦をエスカレートさせていくのだ。」ということだそうです。権力者が物量の多さや絢爛豪華さに贅沢を求めたとするなら、六朝時代以降の貴族たちは、質的な贅沢、精神的な贅沢を求めます。

 その他に、商人たちの贅沢、権力から逃れることの贅沢など、さまざまな贅沢について述べられており、大変興味深い内容でした。確かにこうした贅沢は無駄としか言いようがありませんし、そうした贅沢を可能にするには、多くの人々からの搾取が不可欠だったことも間違いないでしょう。ただ同時に、こうした無駄な贅沢が文化の発展に大きく貢献してきたことも事実だろうと思います。

2015年5月2日土曜日

映画で古代ギリシアを観て(2)

インモータルズ -神々の戦い-

 2011年にアメリカで制作された映画で、ギリシア神話を題材としています。「インモータル」とは「不死」とか「神」といった意味で、複数形なので「神々」といった意味だと思います。ここでいう「神」とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教でいうような絶対的な神ではありません。ギリシア神話における神々は、人間と同じように感じ、考え、生活する神であり、もちろん人間よりはるかに大きな能力を持ちますが、人間との決定的な違いは「不死」であるという点だけです。
 ギリシア神話によれば、最初に混沌=カオスがあり、やがて大地=ガイアが現れ、天=ウラノスと交わってさまざまな神々が生み出されます。その子クロノスはウラノスを追放して王となり、さらにクロノスの子ゼウスがクロノスを追放して王となります。一方、クロノスの兄弟姉妹たちはタイタン(ティーターン)と呼ばれ、クロノスは彼らを使ってゼウスとその兄弟たちと戦争します。結局ゼウスたちが戦争に勝ち、ゼウスはタイタン一族をタルタロスと呼ばれる冥界に閉じ込めます。こうしてゼウスを頂点とする神々の秩序が形成されますが、それを確固たるものにする前に、もう一つの凄まじい戦いが行われることになります。
 映画はここから始まります。ハイペリオンという人間の君主が、妻子が死んだことに怨みを抱き、タイタン一族を解き放って神々に復讐しようとしたのです。タイタン一族を解き放つには、エピロスの弓という強力な弓でタルタロスの扉を破らねばならないため、ハイペリオンは、村々を襲って弓を捜し始めました。時は、紀元前1228年ということになっていますが、この年号にどういう意味があるのか分かりません。丁度トロイア戦争の頃に当たります。いずれにしても、この限りでは人間同士の戦いであり、神が手を下すことはできません。そこでゼウスは、テセウスという青年に戦いを委ねます。
 初めテセウスは神を信じていませんでしたが、色々あって神を信じるようになり、ハイペリオンと戦います。しかしハイペリオンはエピロスの弓を手に入れ、タイタン族を解放してしまいます。ここで神々が介入し、タイタン族と神々との凄まじい戦闘が展開され、アテナイやポセイドンが戦死しますが、ゼウスはタイタン族の封じ込めに成功します。アテナイやポセイドンは神(インモータル)であり、彼らは不死(インモータル)のはずなのに、死んでしまいました。この辺の事情はよく分かりませんが、テセウスもハイペリオンを殺し、自らも死にますが、その功績により神となります。

 神々とタイタン族との戦いは、ギリシア神話でよく語られていることですが、映画における話の大部分は創作かもしれません。神々によるタイタン族との戦いは、多分ギリシア人による先住民族の征服過程が神話化されたものと思われます。丁度日本の「古事記」や「日本書紀」のようなものではないかと思います。

300 〈スリーハンドレッド〉

2007年にアメリカで制作された映画で、紀元前5世紀におけるペルシア戦争でのテルモピレー(テルモピュライ)の戦いを扱っています。
 8世紀頃ギリシア各地にポリスが誕生し、それぞれ独立性が高く、制度的にも微妙に異なっていました。その中でも異色だったのは、スパルタです。スパルタでは、虚弱な新生児は山奥に捨てられ、男子は7歳になると家庭から離されて共同生活を送るようになり、日々厳しい肉体的な訓練と軍事的な訓練を受けるようになります。18歳になると成人と見做されますが、それでも共同で食事をし、妻をもっても夜は兵舎で過ごさねばなりませんでした。一般にスパルタ教育として知られる、このような特異なシステムがなぜスパルタで形成されたのでしょうか。
 一言で言えば、スパルタは先住民であるアカイア人をヘイロタイと呼ばれる奴隷とし、彼らの搾取の上に成り立っていたからです。スパルタによる奴隷支配は過酷を極めたため、しばしば奴隷が反乱を起こしました。当時ヘイロタイの数は15万から25万とされ、それに対して成人スパルタ人の数は8千から1万で、家族を含めても5万程度でした。したがってスパルタ人は奴隷反乱に対処するため、まったく労働することなく軍事訓練に明け暮れ、ヘイロタイの家に盗みに入ったり、彼らを殺したりすることが推奨されたとされます。

 ギリシアで、多くの都市国家が成立し、都市国家同士、都市国家内部で争っている頃、東方では巨大なアケメネス朝ペルシア帝国が成立しており、全盛期を迎えていました。そのペルシアがギリシア征服に動き出したわけですが、その背景については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第6章 古代帝国の成立」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/6.html)参照して下さい。ただ、いろいろな理由はあったにせよ、破竹の勢いのペルシアが、西の端にほんの少し領土を広げようとした、ということだと思います。紀元前490年に、ダレイオス1世がギリシアに軍隊を派遣しますが失敗に終わり、ついで紀元前481年にクセルクセスが自ら軍を率いてギリシアに向かいます。これがこの映画の舞台です。
 ヘロドトスによれば、この時のペルシアの軍隊は200万を超えたとされますが、最近の研究では2030万程度とされています。当時ギリシアではペルシアと戦うことに反対する者が多かったようですが、スパルタの王レオニダスは300の精鋭を率いて出陣します。この他にスパルタ側には、各国の援軍が加わり、7000程度になっていたとのことです。かくして480年テルモピレーの戦いが始まります。戦闘は3日間続き、スパルタ軍は全滅しますが、この間にアテネはサラミスの海戦の準備をすることができました。
 映画の後半はほとんど戦闘場面で、かなり血みどろの場面が続きますので、私の好みにはあいません。スパルタ人たちは鋼鉄のような筋肉を持ち、生きた戦闘マシーンのようでした。映画はほとんどスタジオで作製され、背景などはほとんどCGだそうですが、それなりによくできていました。結局、この映画の目的は、戦闘マシーンによる戦闘場面を描き出すことだったのかもしれません。
 ところで映画では、しばしば「自由のために戦う」という言葉が出てきますが、これはアメリカ人が好きな言葉です。かつては、ペルシア戦争の勝利は、アジアの専制支配に対するヨーロッパの民主主義の勝利であると言われました。しかし、奴隷制が存在するギリシアに民主主義や自由を語る資格があるのでしょうか。ペルシアでさえ、スパルタ程過酷な奴隷制は存在しなかったでしょう。結局ペルシア軍は撤退しますが、ペルシアからすれば、これ以上の犠牲を出して貧しいギリシアを征服する意味がなかったのではないでしょうか。8世紀にイスラーム勢力がフランク王国に侵入し、トゥール・ポワティエ間の戦いで敗北した後イベリア半島に撤退しますが、彼らイスラーム勢力にとっても、これ以上の犠牲を出して貧しいフランク王国を征服する意味がなかったからではないでしょうか。

 結局、古代ギリシアについて、あまり良い映画には出会えませんでした。私に発想の転換を迫るような、斬新な映画はないのでしょうか。