2015年9月19日土曜日

映画「薔薇の名前」を観て

1986年に制作されたフランス、イタリア、西ドイツによる合作映画で、ウンベルト・エーコによる同名小説『薔薇の名前』を映画化した作品です。原作については、このブログの「「光の帝国・迷宮の革命」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/09/blog-post_16.html)を参照して下さい。
映画の舞台は、1327年における北イタリアのある修道院で、ここで続けて殺人事件が起こったため、フランチェスコ会の修道士ウィリアムが事件の解決を請われて、弟子のアドソとともに、この修道院を訪れます。ウィリアムはもと異端審問官で、「悪魔と戦う」義務がある人として、また幅広い教養をもった人物として、この修道院に派遣されました。修道院には肥え太った修道士が多く、それに対して周辺の住民は、修道院が出す残飯をあさっていました。これが当時の修道院の実態でした。
 当時、カトリック世界では普遍論争と呼ばれる神学・哲学論争が展開されていました。つまり、「薔薇」という類の普遍概念は実在するか、あるいは実在するのは個々の「薔薇」であるかということで、ウィリアムは後者の立場をとっていました。したがって、Roseに定冠詞theがついているわけです。つまり「その薔薇」ということです。修道院での神学論争で、上の例とは多少ことなりますが、「キリストが身に着けていた衣服は、主の所有物か否か」という論争が、死活的問題として議論されていましたが、こうした議論は、信仰心そのものを破綻させる危険性を孕んでおり、実はこうした議論の中で殺人が行われる分けです。
 多くの修道院では修道士たちが、大量の書籍の写本を作っています。印刷機がなかった時代には、これらの日々の努力によって膨大な古典文献が保存されていきました。そしてこの写本作業の中に、ウィリアムは事件のカギがあると考えます。彼はシャーロック・ホームズのように事実を分析し、謎を解いていきます。まず、書写室の本箱に本が少ないことに気づき、どこかに本がかくしてあるはずだと考え、隠し場所を捜し出します。そして殺人の理由は、アリストテレスの「詩学」第2部の存在にあることに気づきます。
 アリストテレスの「詩学」第2部は、喜劇について書いており、この本は失われたと考えられていました。アリストテレスはここにおいて、喜劇が笑いを誘うのは、世俗の人々のありのままの姿や欠点を楽しめるからだと書いており、喜劇は真実の道具だと述べているそうです。ところがこの修道院では、「笑い」が禁じられていました。もし「笑い」が恐れを殺せば、もはや信仰は成立しなくなる。民衆が悪魔を恐れなければ、神は必要とされなくなる。悪魔を恐れるから人々は信仰するのであり、だからこそ魔女裁判や異端審問で人々に悪魔の恐ろしさを見せつけるのです。ところが「笑い」は、神も悪魔も笑いの対象にしてしまう、ということです。
 13世紀に成立したスコラ哲学は、アリストテレスを絶対的な理論的根拠としています。そのアリストテレスが喜劇を称賛していたことが知られれば、喜劇が許容されてしまうことになります。この修道院の長老ホルヘは、信仰と修道院を守るために、この本の存在を知った人々を、次々と殺していったのです。そして最後にホルヘは本に火をつけ、自らも火の中で死んでいきます。まさに信仰と狂気の違いは、紙一重でした。そこまでアリストテレスの喜劇を恐れるなら、最初から燃やしてしまえばよかったのではないかと思うのですが、ホルヘによれば写本は保存のためであって、探求のためではない、ということです。たとえ異端の書であろうと、保存のために黙々と写本を続けます。しかし決して考えるな、ということです。

 映画は、暗く、重々しく、難解でしたが、スリラー映画として観るなら、十分楽しめる映画でした。また、当時の修道院とそこでの生活がかなり正確に再現されており、興味深く観ることができました。原作はイタリアでベストセラーとなり、この映画も好評でした。イタリアの人々も、テロリズムが横行する当時の社会にうんざりし、物事を冷静に見つめるようになっていたのではないかと思います。


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