2016年1月30日土曜日

映画でゾラを観て

ゾラの生涯


1937年にアメリカで制作された映画で、19世紀のフランスの自然主義作家エミール・ゾラの半生を描いています。自然主義とは、19世紀後半にゾラが提唱した文学思潮で、実証的な科学的手法を用いて、人間の社会をあるがままに描くことを提唱し、日本の文学にも大きな影響を与えました。
 ゾラが生きた時代は、工業化と都市化の急速な進展により、社会矛盾が耐え難いほど増大していた時代でした。映画は、1862年のパリから始まりますが、この時代のフランスはナポレオン3世による第二帝政の時代で、産業が猛烈に発展するとともに、パリ大改造が行われ、貧民は中心部から追い出され、従来のコミュニティは解体され、人々の心は荒んでいました。そんなパリの安アパートの一室で、ゾラと画家のセザンヌが暮らしていました。彼らは、真実を描き、不正を正すのだという信念に燃えていました。そして、1877年に出版された「居酒屋」が大評判となり、これによりゾラは富と名声を手に入れます。一方、セザンヌは故郷の南フランスに帰りますが、映画では、彼はゾラと別れる時、「芸術家は貧乏であるべきだ。お腹が大きくなると、足元が見えなくなる」と言って去って行きました。
 1870年から、ゾラは「ルーゴン・マッカール叢書」の執筆を開始します。それはルーゴン・マッカール家とその子孫たちを通して、第二帝政期のあらゆる側面を描き出すものです。19世紀前半にバルザックが「人間喜劇」において、一つのことに執着し、そのことのために身を滅ぼしていく人々を、連作という手法を用いて描きましたが、ゾラもその手法を用い、遺伝と環境により、人々がどのように影響されるかを描き出しました。その叢書の一部として、「居酒屋」「ナナ」「ジェルミナール」などが含まれるわけです。そして、全20作からなるこの叢書の最期の作品が執筆されたのが1893年であり、その翌年の1894年にドレフュス事件が起こります。
 フランス革命以来、フランスは何度も政体が変革されました。第一共和政の後、ナポレオンの第一帝政、ブルボン復古王政、七月王政、第二共和政、ナポレオン3世による第二帝政、そして普仏戦争後の1870年に第三共和政が成立します。百年足らずの間に6回も政体が変わり、共和政体はなかなか確立しませんでした。第三共和政でも、軍部や王党派が力を持ち、1886年から89年にかけてブーランジェ事件と呼ばれる、軍部によるクーデタ未遂事件も起きます。そして、1894年に、世に言うドレフュス事件が起きます。 
 参謀本部でスパイ事件が発生し、軍の上層部は、何の証拠もないままユダヤ人将校ドレフュスを有罪とし、翌年南米のフランス領ギアナ沖にあるデビルズ島(悪魔島・監獄島)に流刑とします。なお、この監獄はナポレオン3世時代に重罪政治犯の流刑地とされ、1973年制作の映画「パピヨン」の舞台ともなりましたが、あまりに非人道的なため、第二次世界大戦後に閉鎖されました。1896年に、軍の情報部が別の犯人をつきとめ、ドレフュスが無罪であることが明らかとなりましたが、軍部も政府も体面を保つため、ドレフュスを有罪のまま押し通しました。当時のフランスでは、反ユダヤ主義と反ドイツ感情が強く、世論はドレフュスを裏切り者として非難していました。ドレフュスの妻や一部の人々がドレフュスを無罪とするための活動を続けていましたが、ほとんど相手にされず、ゾラもこの問題にあまり関心がありませんでした。
 映画では、ある時ドレフュス夫人が、万策尽きてゾラに助けを求めてきます。当時ゾラは、富も名声も社会的地位も得て、穏やかに暮らしていましたが、夫人が持参した証拠を見て、不正を暴露して正義を貫こうとしていた若い時代の自分が蘇りました。もしここで、ドレフュスの無罪を主張したら、ゾラは地位も名声も失うことが分かっていましたが、もしここで戦わなければ、フランスの民主主義はますます遠のいてしまうと考え、ドレフュス事件を調べ始めます。そして1898年、ゾラはドレフュス事件に関する大統領宛の公開質問状「私は弾劾する」を新聞に掲載します。ゾラ、58歳の時でした。政府はゾラを名誉棄損で訴えますが、それこそゾラの望むところでした。裁判を通じて、ドレフュス事件を再び取り上げることができるからです。
 映画での裁判の場面は、なかなか迫力がありました。今や裁判は、軍や政府の横暴を暴き、フランスの民主主義を守れるか否かという問題となっていました。裁判では、予想通りゾラは有罪となり、禁固刑を言い渡されますが、ゾラはイギリスに亡命し、イギリスから世界中に向けて軍や政府の横暴を訴え続けます。その結果、世論はしだいにゾラを支持するようになり、1899年に政府はドレフュスを釈放し、ゾラも帰国します。この事件は、フランス革命以来なかなか安定しなかった共和政体が、ようやくフランスに定着するきっかけとなった事件で、フランスは二度と王政や帝政に戻ることはありませんでした。またオーストリアのユダヤ人ヘルツルは、新聞記者としてドレフュス事件を取材している過程で、ユダヤ人に対する偏見の大きさを知り、ユダヤ人国家の建設を目指すシオニズム運動をおこし、これが今日のイスラエル国に結びついている分けです。

 ゾラは、1902年パリの自宅で一酸化炭素中毒により死亡します。62歳でした。暗殺説もありますが、真偽は不明です。いずれにしても、ゾラは信念に生きた作家であり、世界中に大きな影響を与えた作家でした。映画も、大変感動的でした。同じころ、セザンヌもようやく人々に認められるようになり、印象派から20世紀の絵画への扉を開きつつありました。

居酒屋

1956年にフランスで制作された映画で、ゾラの同名の小説を映画化したものです。「居酒屋」は1934年にも映画化されており、その他にもゾラの作品は、「ナナ」をはじめ多数の作品が映画化されています。
 主人公のジェルヴェーズは、若くて美しく、また働き者で、洗濯女として働いていました。彼女はランチエという男性と同棲しており、すでに子供が二人いましたが、ある時ランチエは貯めた金をもって消えてしまいました。彼女は一生懸命働いて子供を育て、やがて屋根職人のクーポーと結婚し、彼との間にナナという女の子がうまれます。ところが、クーポーが屋根から落ちて大怪我をし、直った後も仕事をせず、居酒屋に入り浸って酒に溺れます。この間、ジェルヴェーズは、貯めたお金で念願の店をもって洗濯屋を始めますが、なぜかランチエが戻ってきて、ジェルヴェーズの家に同居し、二人の酒飲みを抱えて、店はしだいに傾き、結局悪意ある友人に店を乗っ取られてしまいます。そしてジェルヴェーズも居酒屋に入りびたり、そのまわりを、乞食のように薄汚れたナナが走り回っています。
 不幸を絵に描いたような救いのない話です。歳をとると気が弱くなるのか、こうした救いのない映画を観ると、気が滅入ってしまいます。この小説が発表された当時、中流階級の人々からは、貧乏人を誇張しすぎている、という批判が強かったのですが、ゾラ自身がパリの下町に長く住み、一時はほとんどどん底に近い生活をしていましたので、貧しい人々の暮らしをよく知っていたと思います。当時のパリは、貧富の差が激しく、惨めな人々はさらに惨めになっていきました。ゾラが描いたのは、そうしたパリの現実だったのだと思います。
 やがて、ジェルヴェーズの娘ナナは、たくましく育ち、高級娼婦となります。当時のパリには成り上がりの金満家が多数出現し、そうした金満家に高級娼婦が群がりました。1879年に発表された「ナナ」は、ジェルヴェーズの娘の物語ですが、私は原作を読んでいないし、映画も観ていません。「ナナ」は過去に何度も映画化されたようです。ナナは、高級娼婦として男たちを魅了し、多くの男達を破滅させていきますが、突如失踪し、伝説の人となる、という話です。実はナナは天然痘にかかり、醜い姿になって、人知れずパリの底辺で死んで行きます。この話も、救いのない話ですが、実在した娼婦の話を基に、この小説を書きましたので、これもまた、当時のパリの現実を描いていたと言えるでしょう。

デュマ(小デュマ)の小説「椿姫」も、19世紀半ばのパリの高級娼婦を描いたもので、1936年にアメリカで映画化されました。高級娼婦として贅沢三昧の生活をしていたマルグリッドは、普段は白い椿をつけ、生理の5日間だけ赤い椿をつけていたため、椿姫と呼ばれました。そんな彼女が、純真な青年の一途な愛に動揺し、享楽に溺れる生活を捨てて、彼の愛を受け入れようとしますが、結局病気のために死んでいく、という物語です。なお、小デュマの父である大デュマは、「モンテ・クリストフ伯(岩窟王)」などで日本でもよく知られる作家です。











ジェルミナール

1993年にフランスに制作された映画で、ゾラの代表作である同名の小説を映画化したものです。この映画は、160分に及ぶ大作で、製作費も半端ではなく、庶民を扱った映画としては異例の規模です。タイトルの「ジェルミナール」は、フランス革命暦の第7月に当たる芽月を意味し、季節としては春で、「すべてのものみな芽吹くとき」という意味です。
 この小説は、1885年に出版され、この頃からゾラは社会主義に傾斜していきます。舞台は1880年代の北フランスの鉱山で、主人公は「居酒屋」のジェルヴェーズの息子エティエンヌ・ランチエです。ランチエは、ジェルヴェーズが最初に同棲していた男の息子で、父親に反発して家を出て行きました。彼はパリで鍛冶屋の見習いをしており、その後機械工となったようですが、不況のため解雇され、この地方に流れてきたようです。彼は無口ですが、どうやら労働運動を行っていたようです。また彼は、酒を飲むと短気になる性格を、親から遺伝的に受け継いでいたようです。
 映画では、炭鉱労働の現場が詳しく描き出されます。子供は8歳になると炭鉱で働き、女性も働きます。家族中で働いても、食べていくのがやっとという状態です。映画ではさまざまな人々が登場し、炭鉱で働く人々の日常生活が描き出されます。毎日、食べ物の工面に必死です。一方、経営者の一族は、毎日贅沢三昧で、労働者の生活にはまったく関心がありません。労働者の生活と経営者一族の生活が対照的に描き出され、当時の社会の不条理が描き出されます。
 そうした中で、経営者は賃金の引き下げを通告してきました。これに対して労働者たちは、ついにストライキを決意し、ランチエが指導者となります。しかし経営者は、憲兵隊を投入して弾圧するとともに、ベルギーから労働者を連れてきたため、ストライキは長引き、これ以上ストライキを続けることが困難となり、労働者たちはしだいに炭鉱に戻って行きます。この間に落盤事故があって多くの労働者が死亡しました。結局ストライキは失敗に終わり、ランチエは炭鉱を去り、映画は終わります。
 この映画も、「居酒屋」や「ナナ」同様に、救いのない物語ですが、最後に次のように述べられます。「空には四月の太陽が誇らしく輝き、大地を温めている。あちこちで種が根を張り芽を吹いて、光と熱を求めて伸びる。樹液が満ち新芽が広がる音は、まるで大きな口づけのように響く。私の耳にはっきりと、仲間の打ち続ける音が聞こえてくる。光あふれるこの若々しい朝に、野原にざわめく。人々は芽生え、復讐を求める軍団は密かに成長し、未来に向け動き始めた。この芽生えの力で大地は張り裂けるだろう。」ゾラは、労働者の団結と社会主義に希望を見出しているように思います。


2016年1月27日水曜日

「子供たちの大英帝国」を読んで

井野瀬久美恵著 1992年 岩波新書
本書には、「世紀末、フーリガンの登場」というサブタイトルがついているように、19世紀末のイギリスで大きな社会問題となった「フーリガン」なるものを通じて、大英帝国の下層階級の実態を描き出しています。
1980年代に、イギリスのフットボール・ファンのマナーの悪さが、「フーリガン」という悪名とともに世界中で話題になりました。「フーリガン」という言葉の本来の意味ははっきりしませんが、どうやら、19世紀後半に中産階級の価値観に反発した若者たちにつけられた名称のようです。彼らは、まだ大人としては見做されていませんが、ポーターやメッセンジャー・ボーイなどとして小銭を稼ぎ、ミュージック・ホールに繰り出し、当時大流行した自転車で走り回り、人々に危害を加えたりしました。さらに、1888年にフットボールのリーグが結成されると、競技場の観客席で暴力沙汰が頻発しました。中産階級の人々は、このような野蛮な行為は外国からに影響に違いないと考え、ルーツのはっきりしない「フーリガン」という言葉を用いたのだそうです。 
このフーリガン現象について、本書は、ミュージック・ホールとの関連、中産階級と労働者階級との関連、学校教育との関連など、さまざまな側面から説明しています。学校教育に関しては、この頃に義務教育が始まりますが、教員の給与は出来高払い制度で、生徒の出席率と成績に応じて、国庫の補助金が決められていたため、教師は笞をつかって生徒に服従と暗記を強制します。それは、中産階級が、労働者階級の子供たちを、中産階級の価値観の中に囲い込もうとするものでした。こうしたことが、「フーリガン」現象の背景の一つとなっていました。

そして、こうした現象は、大英帝国の衰退とも深く関わっていましたが、この点に関しては議論が多岐にわたるため、ここでは触れません。いずれにしても、フーリガンという一つの現象を通じて、大英帝国衰退期のイギリス社会が描かれており、大変興味深く読むことができました。

2016年1月23日土曜日

映画「リンカーン」を観て

2012年公開のアメリカ映画で、本来リンカーン生誕200周年に合わせて2009年に公開する予定でしたが、少しずれこみました。リンカーンは、丸太小屋で生まれ、独学で弁護士となり、ついには大統領にまでなった人物で、まさにアメリカン・ドリームを体現しているような人物であるとともに、南北戦争を指揮し、奴隷解放宣言を発布した人物として、アメリカで最も尊敬されている大統領です。なお、丸太小屋生まれというリンカーン伝説には、多少の脚色があるとしても、大筋では間違っていません。











彼は父親とともに各地を転々とし、彼自身も色々な職業を経験しますが、最後はイリノイ州で弁護士となり、下院議員・上院議員を経て、第16代大統領となります。彼が大統領に就任した頃、アメリカは引き裂かれていました。南北戦争の原因については、多くの議論があり、ここでは深入りしません。一言で言えば、北部と南部では、経済構造が違い過ぎ、もはや共存は不可能になりつつあったということです。そして奴隷制の問題も、対立の大きな要因であり、奴隷解放論者だったリンカーンが、1860年に大統領に当選すると、南北の対立は決定的となります。
アメリカの大統領選挙は11月に行われ、大統領に就任するのは翌年の3月です。ここに4カ月の政治的空白期間があります。交通・通信遮断が発達していなかった当時としては、やむを得ないことだと思いますが、この4か月間に次々と南部諸州が分離し、リンカーンが大統領に就任した時には、アメリカは完全に分裂していました。話が逸れまずが、1930年代の世界恐慌の際、F.ローズヴェルトが大統領に当選しますが、4カ月の空白期間の間に恐慌は最悪となってしまいました。そのため、今日では、大統領の就任は1月に変更されています。
 リンカーンは、一般に言われる程過激な奴隷解放論者ではありませんでした。彼にとって当面最も重要なのは連邦統一の維持であり、そのためなら、奴隷制を認めてもよいと考えていました。この時代は、国民国家の時代であり、イタリアやドイツの統一、日本の明治維新のように、統一的な国民国家の形成が時代の趨勢となっており、リンカーンにとって連邦の統一が何よりも優先される課題でした。しかし戦争が長引くにつれ、また戦争による死傷者が異常に多かったこともあって、北部では厭戦気分が広がり、「南部が独立したければ、独立させればよいではないか」といった意見が強くなってきました。また対外的にも、イギリスは経済的に深く結びついた南部を支持しており、国際的にも北部が孤立する可能性がありました。
 そうした中で、リンカーンは戦争目的を明確にする必要に迫られ、その結果この戦争は、邪悪な奴隷制度を廃止するための戦いであることを明確にします。こうして1863年奴隷解放宣言が発せられ、国民もこれを支持し、奴隷制を禁止するイギリスは南部から手を引きました。この結果、1864年にリンカーンは再選され、また中間選挙で与党共和党も勝利します。しかし問題がありました。憲法上、奴隷制度の問題は州の問題であり、大統領も議会も州の問題に介入する権限がありませんでした。したがってリンカーンは、この宣言を最高司令官の職務としての軍事的指令として行ったのであり、それでも憲法がねじ曲がってしまう程拡大解釈した上での宣言でした。そしてこの宣言は、戦争が終われば無効となり、南部の議員が議会に戻ってくれば、奴隷制度の廃止は困難となります。そこでリンカーンは、戦争が終わる前に、憲法を修正して奴隷制度を禁止しようと考えます。
 映画は、ここから始まります。アメリカの憲法は、1787年に制定されてから今日に至るまで、一切変更されていません。ただ、修正条項が憲法に追加され、今日までに27の修正条項が加えられました。その内の第一修正から第10修正は、憲法発効と同時に、各州の意見を入れて追加されました。その後今日まで17の修正条項が追加される分けですが、その内容は、見方によっては憲法本文と矛盾するものもあります。しかし、矛盾が問題となった場合、連邦最高裁がその時その時の社会情勢に応じて柔軟に解釈しつつ、今日まで至っています。これは、見方によっては、かなりいい加減な憲法とも言えますが、非常に柔軟性のある憲法とも言えます。
 さて、リンカーンが企てたのは、修正13条です。憲法の修正は、議会の3分の2の賛成により各州に修正が提案され、その時の州の数の4分の3が批准して可能となります。これは容易なことではなく、憲法制定から今日まで1万件以上の修正案が提出されましたが、最初の10条をのぞくと、17件しか成立していないわけです。当時、与党の共和党は全員修正に賛成しており、これで過半数を超えていますが、野党の民主党が反対しているため、とうてい3分の2には達しませんでした。映画は、1865年の1月の1カ月間、リンカーンとその側近による多数派工作の過程を描いています。その過程はかなりスリリングで、説得、買収、脅しなど、あらゆる手段が用いられます。そして、131日の議会で、かろうじて3分の2を以上の賛成で可決され、21日にリンカーンが署名しました。もちろんこれで修正される分けではなく、4分の3の州が批准する必要がありますが、その目途はたっていました。したがって、修正13条は事実上成立した分けです。
 その後南部は敗北を重ね、186543日に南部の首都リッチモンドが陥落、9日にはリー将軍が降伏して、南北戦争は事実上終了しました。両軍合わせて60万人もの死者が出るという悲惨な戦争でした。4年間戦い、これ程の死者を出したのですから、リンカーンとしては、奴隷制度廃止という目に見える結果を出さなければ、死者に顔向けができなかったのでしょう。ただリンカーンの奴隷制廃止の思想には問題があります。確かに彼は奴隷制度廃止論者でしたが、黒人と白人の混血が進むのを嫌っており、解放された奴隷はアフリカに帰させるべきだ、という非現実的な考えをもっていました。なぜ非現実的なのかと言えば、今やアメリカの黒人のほとんどがアメリカ生まれであり、彼らはアフリカについて何も知らなかったのです。つまり、リンカーンの思想の根底には、白人優位主義的な側面があったと思われます。
 また、リンカーンはインディアに対しては冷酷でした。祖父がインディアに殺されたこともあるのでしょうが、インディア討伐隊にも加わっているし、大統領在任中は多くのインディアンの殺戮にも手を染めています。サウスダコタのスー族を滅ぼしたのも彼で、これについては、「映画でアメリカを観る(3)  ダンス・ウィズ・ウルブズ」を参照して下さい(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/01/3.html)。彼のインディアンに対する仕打ちは、「インディアン強制移住法」で悪名の高いジャクソン大統領も顔負けです。結局私には、リンカーンは、人道主義者、奴隷制度廃止論者、民主主義者である前に、優れてアメリカ的人間だったのではなかったのかと思われます。
 奴隷制度が廃止され、戦争にも勝利したリンカーンには、南部の再建という大きな仕事がまっていました。彼は、常々南部に対しては寛容の精神で当たるようにと言っていましたが、彼は414日に暗殺され、その後南部に対して非寛容な政策が行われるようになります。大統領暗殺の犯人は、大統領をはじめ政府高官を殺して連邦政府を混乱させ、その間に南部が再起できることを期待したそうですが、大統領が死亡、辞任、解任、執務不能となった場合、大統領の継承者として18番目まで序列が決まっていますので、即座に混乱が起きることはありません。これが独裁者が支配する国とは異なるところです。
 映画はリンカーンの死をもって終わりますが、映画では議会での討論と野次の応酬、リンカーンと妻子との関係、通信室に入り浸って戦争を指揮する姿などが描かれており、大変興味深い内容でした。
 なお、現在のオバマ大統領は第44代大統領であり、過去に10人の大統領が暗殺(4)あるいは暗殺未遂に合っています。そして犯人の多くが、情緒が不安定だったり、精神に疾患を抱えた人々で、こうした人々による犯行を阻止することは極めて困難であり、大統領職は相当リスクの高い職業だといえます。

2016年1月20日水曜日

「カナダの歴史」を読んで

木村和男、フィリップ・バックナー、ノーマン・ヒルマー共著、1997年、刀水書房
 サブタイトル「大英帝国の忠実な長女 17131982年」
 本書は、カナダの特色を「イギリス性」にあるとして、カナダの歴史を大英帝国との関係で、通史的に叙述したものです。私が知る限り、カナダ史を扱った専門書はあまり多くないと思います。
もともとイギリスとフランスはニューファンドランド沖合の漁業権を巡って争っていましたが、スペイン継承戦争の結果締結された1763年のパリ条約でカナダがイギリス領となります。その後、イギリスはカナダへの入植を進めますが、アメリカ植民の場合13植民地を希望する人が多く、イギリス領カナダではフランス人の比率が圧倒的に多いというのが実情でした。
 カナダがイギリス性を強めていった大きな理由は、アメリカ合衆国の存在にありました。まず、アメリカ独立戦争の際に王党派として戦った人々の一部はカナダに亡命します。その後カナダは、常にアメリカ合衆国の膨張圧力に晒されます。例えば19世紀半ばに、西部のオレゴンの境界を巡って対立し、さらにアメリカ合衆国がロシアからアラスカを購入したため、カナダは危機意識を強めます。こうしたことを背景に、カナダにも国民意識が形成されてくる分けですが、その国民意識の特色は、アメリカ合衆国との違いを明白にする「イギリス性」を強調することでした。
 しかし、20世紀に入ると、イギリスはカナダよりアメリカ合衆国との関係を重視するようになり、カナダもアメリカ合衆国との経済関係がますます強化され、イギリスとの関係が希薄になっていきます。そして1982年、カナダは自主憲法を制定し、これまでイギリス議会が保持していたカナダ憲法の修正権は消滅します。さらにこの年、イギリスとアルゼンチンとの間でフォークランド紛争が起きますが、カナダでは、イギリス側に立って戦うべきだという世論は、ほとんど生まれませんでした。
 「熟年のカップルとしての英加両国は、離婚こそしなかったが、別れ別れに住むようになった。両国は共に、NATOとコモンウェルスのメンバーであり続けている。両国間の貿易は輸出入合わせて約45億ドルという相当の額ではあるが、いまではイギリスでもないヨーロッパでもない日本が、カナダにとって第二の通商相手国となっている。いまでも多数のイギリスからの移民がカナダに流入しており、その数は他のどの国からの移民よりもずっと多い。英加双方の個人や諸グループは、文化的、専門的に広いネットワークを形成し、協同している。しかし、一つの家族としての意識は、1899年、1914年、39年当時とまったく変わってしまったし、これからも決して元には戻らぬであろう。」


2016年1月16日土曜日

映画「オリヴァー・トゥイスト」を観て

2005年にイギリスで制作された映画で、1837年に出版されたディケンズの同名の小説を映画化したものです。この小説も、過去に映画や舞台で何度も上演されました。この小説は、貧しかったディケンズの少年時代の経験から書かれたもので、彼の初期の作品には、こうした内容のものが多いようです。
映画は、9歳のオリヴァー・トゥイストが養育院から救貧院に連れて行かれるところから始まります。1834年の工場法で9以下の孤児を働かせることが禁止されましたので、孤児は9歳までは養育院で育てれ、9歳になったら救貧院に移して働かせます。同じ1834年に救貧法は最悪の改革が行われましたので、救貧院における待遇も最悪となりました。10歳の時オリヴァーは救貧院を脱走し、7日間歩いてロンドンに行きますが、そこで掏りの親玉に掏りの練習をさせられます。その後色々あって、善意ある人々に助けられ、最後は幸せになったという話です。要するに、正しい心をもっていれば、必ず救われるという話です、
ディケンズの小説は、ストーリーが単純で、善悪がはっきりしており、楽天主義と理想主義を基本とし、ほとんどハッピー・エンドに終わります。そのため、本書は「クリスマス・キャロル」などとともに、児童書としても読まれてきました。ただ、彼の小説の特色は、個性的な脇役を生き生きと描くことで、主人公を浮き上がらせるところにあります。映画でも、救貧院の監督官、意地悪な先輩、掏りの親玉など個性的な人物たちが、オリヴァーの不幸と善良さを際立たせていました。
ディケンズは、常に社会制度の欠陥と、それを受け入れる社会的風潮を問題とします。19世紀前半のイギリスでは、資本主義が猛烈に発展し、それと同時に社会矛盾も耐え難いほど拡大していました。労働者の長時間・低賃金労働、女性・児童の長時間労働、貧困者の増大、犯罪の多発、都市の衛生問題などです。映画では、こうした社会の底辺に生きる人々、役人たちの傍若無人なふるまいなどが描かれますが、都市が妙に綺麗でした。この時代のロンドンは、ほとんど掃き溜めといっていいほど不衛生な町でしたが、道路にはゴミ一つ落ちていませんでした。これは監督のアイロニーなのかも知れません。映画は、あり得ない程ハッピー・エンドで、美しい物語でしたが、これは「綺麗ごと」だという監督の意志表示なのかもしれません。
この映画の監督ポランスキーは、ポーランドのユダヤ人で、ナチスによる迫害を逃れて辛酸をなめた人物でした。その経験もあって、彼は「戦場のピアニスト」を制作し、高い評価を得ました。一方、彼は私生活でいろいろ話題の多い人物です。彼は女優シャロン・ステートと結婚しますが、翌年彼女がカルト集団に惨殺されるという悲劇に見舞われます。その後、アメリカで児童性愛の疑いで逮捕され、有罪となりますが、保釈中にヨーロッパに逃亡してしまいます。こんな彼が、「オリヴァー・ツイスト」のような単純で美しい映画を、素直に造るとは想像できません。

なお彼は、このブログでも紹介したシェイクスピアの「マクベス」を制作していますが、かなり血みどろの映画のようです。(「映画でシェイクスピアを観て マクベス」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/blog-post_17.html)

2016年1月13日水曜日

「リンカーンの三分間」を読んで

ゲリー・ウィルズ著(1992) 北沢栄訳 共同通信社 1995
 本書は、サブタイトル「ゲティスバーグ演説の謎」にもあるように、リンカーンのゲティスバーグでの有名な演説を、さまざまな角度から論じています。18637月に、南北戦争で最大の激戦となったゲティスバーグの戦いが行われ、3日間に及ぶこの戦いで、両軍合わせて5万人近い死傷者がでました。この戦いで両軍ともに大きな打撃を受けましたが、人的資源の豊富な北部は軍隊の再建が可能でしたが、南部には困難であり、南部の敗北は決定的となっていきます。それとともに、翌年に控えたリンカーンの大統領再選の確率も高くなりました。
 その後連邦政府は、この戦場に戦没者を追悼するための公園墓地=霊園を建設し、1119日に行われた奉献式で、リンカーンの有名な演説が行われました。ただ、厳密に言えば、式典では高名な政治家・学者であるエヴァレットが2時間に及ぶ演説を行っており、これが本来のゲティスバーグ演説です。その後リンカーンが3分ほどのスピーチを行っており、2万人もの聴衆にはほとんど聞き取れませんでした。しかし、彼の演説内容が新聞に掲載されると、演説に対する評価がしだいに高まっていき、今日ではこの演説は、アメリカのみならず、世界の民主主義史上最も重要な演説の一つとされています。
この演説は、簡潔かつ抽象的で、この戦争についても奴隷制についてもほとんど触れていません。本書はこの演説を、当時流行していた古典ギリシア復興の観点、霊園というもの背景、エマソンやホーソンらにより普及した超絶主義の観点、思想の革命、文体の革命という観点から、とらえています。個々の点は分かりにくいのですが、アメリカ人はこの演説については子供の時から教えられているため、この種の本としては珍しくベスト・セラーとなったそうです。

リンカーンの演説は、常に憲法にではなく建国の精神に立ち返ろうとします。「ゲティスバーグ演説は独立宣言と同様にアメリカ精神の誇るべき表れとなり、おそらくそれ以上に影響力をもっている。それがわれわれの独立宣言の読み方までも左右するからである。現在、ほとんどの人にとって独立宣言の意味は、憲法自体を投げ捨てることなく修正することによってリンカーンが語った内容と重なっている。それは、精神の軌道修正であり、知的革命である。これによってリンカーンを超えて、初期の解釈へ引き戻そうとする試みはひどく無価値なものになってしまう。」「一つの理念を掲げた単一の国民というゲティスバーグ演説の概念を受け入れることにより、われわれは変わった。それゆえにわれわれは今、この新しいアメリカに生きているのである。」

2016年1月9日土曜日

映画「遥かなる戦場」を観て


1968年にイギリスで制作された映画で、19世紀半ばのクリミア戦争を題材としています。1960年代に制作された戦争映画は、ヴィクトリア女王百週年を記念して、イギリス軍の勇敢な戦いを描いた映画がおおいのですが(「映画でアフリカ史を観て(2) http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/04/2.html「映画でアフリカ史を観て (3)http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/04/3.html)、 を参照して下さい)、この映画はイギリス軍の無能ぶりを怒りを込めて描いています。











 19世紀のヨーロッパは、ヨーロッパの歴史上稀に見る平和な時代だったと言われています。中世末の百年戦争以来、ヨーロッパは戦争の連続でしたが、1815年のワーテルローの戦い以降、確かにインドや中国での植民地戦争はありましたが、ヨーロッパの大国同士が戦うような大きな戦争はありませんでした。そして1853年から1856年のクリミア戦争は、イギリス・フランス・トルコが同盟し、ロシアと戦った戦いです。そこに至るには様々な背景がありますが、要するにロシアがトルコ領のバルカン半島への進出を企て、それを阻止するためにトルコを援助した分けです。
 映画は、ワーテルローの戦い以来実戦経験のない年老いた高級将校たちが、パーティーやゴシップに明け暮れ、下士官たちには残酷な扱いをしていました。そこへ、インドで戦ってきたノーラン大尉が帰国しますが、当時は「インド帰り」というのは蛮地の垢に染まった者として軽蔑される傾向にあり、さらに彼は直情型だったため、しばしば将軍たちと対立します。そんな時に、クリミア戦争が勃発します。映画では、しばしばアニメを用いて国際情勢の解説をしますが、このアニメが大変面白く、アニメだけ切り取って編集してみたいくらいです。
 戦争では、無能な将軍たちによる無謀な作戦により、ノーランが所属する騎兵隊は全滅し、ノーランも戦死、そして将軍たちが責任の擦り合いをしている場面で終わります。これは戦争というより、ほとんど虐殺でした。従来、この戦闘はイギリス騎兵隊の英雄的戦いとして描かれてきましたが、この映画では虚しい戦いとして描かれています。その後、イギリス・フランス・トルコの連合軍は、ロシア黒海艦隊の基地セヴァストポリを包囲しますが、膠着状態に陥って2年間がたちます。そして突破口を開いたのは連合軍ではなくサルデーニャ王国軍でした。サルデーニャ王国はクリミア戦争に直接関係がありませんでしたが、ここでフランス・イギリスの歓心を得て、イタリア統一に向けて有利な国際関係を築きたかったからです。15000のサルデーニャ兵は、この戦いにイタリア統一の命運がかかっていると信じ、決死の突入を行ってセヴァストポリを陥落させます。
 結局、この戦いには勝者も敗者もありませんでした。ロシアは多少の譲歩をしますが、セヴァストポリは返還され、南下への野心を持ち続け、やがて第一次世界大戦の火種となっていきます。なおクリミア半島は、第二次世界大戦後に行政上ソ連邦内のウクライナに移管されますが、1991年にソ連邦が崩壊してウクライナが独立したため、ロシアはセヴァストポリ軍港をウクライナから租借することになりました。ところが、2014年にウクライナで親欧米政権が成立したことをきっかけに、ロシアはクリミア半島を事実上併合してしまいます。セヴァストポリはロシアの軍港であると同時に、多くの血を流してきた港ですから、ロシアの心情は理解できます。まして、セヴァストポリにアメリカの艦船が入るとしたら、許しがたいことでしょう。しかし、それを言うなら南シナ海は、15世紀における鄭和の南海遠征以来、中国の海であり、中国が領有権を主張できることになります。現在の国際体制や国際法が、欧米に有利なように作られたものであったとしても、やはり今日では国際法に従うしかないのだと思います。
 イギリスは、とりあえずロシアの南下を阻止しましたが、1856年には中国でアロー戦争が起き、1857年にはインドでシパーヒーの乱が起き、多事多難でした。オスマン帝国は、英仏への従属を強め、没落への道を歩んでいきます。フランスは、ナポレオン戦争後国際舞台では低迷していましたが、この戦争後急速に拡大政策を促進することになります。一方、この戦いの過程で、イギリス・フランスはロシアを牽制するため、バルト海でも戦っており、さらに極東でカムチャッカ半島も砲撃していますので、クリミア戦争は地球的規模で戦われていたのです。そしてこの戦争が始まった1853年にペルーが日本に来航し、日本は開国を余儀なくされます。イギリスやフランスは、クリミア戦争に忙しく、日本に関わっている暇がありませんでした。色々な意味で、クリミア戦争はその後の世界の歴史に大きな影響を与えていたのです。

 ところで、この頃から戦争における死者の数が非常に増大するようになりました。その原因は、兵器の発達ということもありますが、同時には鉄道の普及があります。鉄道により、大量の兵士や武器を戦場に送ることが可能になったからです。クリミア戦争では、きわめて多くの負傷者が出たため、ナイチンゲールは従軍看護婦として戦地に向かいます。病院では、軍隊特有の縦割りの命令系統に苦労しますが、何よりも問題だったのは衛生管理でした。なにしろ、病院では負傷による死者よりも、病院内での感染症による死者の方が多かったのです。

 話は逸れますが、以前に「女たちの大英帝国」(井野瀬久美恵著、1989年、講談社現代新書)という本を読みました。それによれば、19世紀半ばのイギリスではヴィクトリア女王を模範とする家族道徳、つまり家庭の天子となることが女性に求められていましたが、現実には、男たちが次々と海外に出て行ったため、「女性余り」現象が生れており、結婚できない女性が増えてきたということです。その結果、女性たち自身が積極的に社会に関わったり、海外に出かけていくようになったということです。ナイチンゲールが海外で活躍した背景には、そうした事情もあったようです。そうした事情はともかく、この時代に勇気ある女性たちが、海外で大きな役割を果たしたことは、まぎれもない事実です。

 さらに話が逸れますが、1859年にサルデーニャ王国がイタリア統一戦争を開始しますが、ここでも多くの死者がでました。スイスのデュナンという人物が、たまたま戦場を通りかかり、その悲惨さに3日間寝食を忘れて、負傷者の救助に没頭します。彼は、戦場での負傷者たちの中には、すぐ手当をすれば助かる人々が沢山いるのに、そのまま放置されて苦しみながら死んでいくことは許されない、と考えました。そこで、彼は敵味方に関係なく、負傷者を救助するための国際的な組織と取決めが必要であることを訴え、やがて国際赤十字社が設立されます。ただ、ナイチンゲールは、もともと財政基盤のしっかりした組織の必要性を主張していましたので、このようなボランティア的な運動には批判的だったようで、彼女は赤十字社の設立には関わりませんでした。
















スイスの国旗
















赤十字
















赤新月


 ところで、赤十字社の標章を知らない人はいないと思いますが、「赤十字」はデュナンの祖国スイスの国旗の色を逆にしたものです。スイスの国旗の由来については、はっきりしませんが、「戦場の血と神」を意味するとか、「文明の十字路」を意味するとか、色々な意見があります。問題は、赤十字社を全世界に広めていく際に、特にイスラーム世界で十字の旗を掲げることに抵抗がありました。そこで、イスラーム世界ではイスラーム教のシンボルである「赤新月」の標章が認められました。実は、その他にも赤十字社の標章には何種類もあり、赤十字社が全世界に広がるには、多くの苦労があった分けです。


 話が完全に映画から外れてしまいましたが、それ程クリミア戦争は後の時代に大きな影響を残したということです。この映画は、興業的にはあまり成功しませんでしたが、私は色々な意味で興味深く観ることができました。なお、騎兵隊の戦闘場面では、あまりに多くの馬が怪我をしたため、以後こうした場面を撮ることが難しくなったそうです。


2016年1月6日水曜日

「時計と人間―アメリカの時間の歴史」を読んで


マイケル・オマーリー著(1990)、高島平吾訳 晶文社 1994
 本書は、機械時計は「与えられたものとしての時」と「自ら使いこなすものとしての時」という二重性をもった時であり、この二重の時がアメリカでどのように浸透していったかを論じています。本書は、高度な専門書ではではありますが、幾分コミカルなタッチで描かれており、大変面白い内容ではありますが、それでもかなり集中して読まないと、論理を追うことができませんでした。
 本書はまず、1826年以来コネチカット州ニューヘブンの町で起こった論争から始まります。この年に、役所は時計を据え付け、自分たちは規則正しい生活をしていることを世に示そうとしました。ところが、この町にあるもう一つの時計、イェール・カレッジの時計と少しずつズレていくことが判明しました。まず役所の時計が少しずつ遅れ始め、次に追いつき始め、さらに追い越すようになったのです。人々は混乱し、大論争が展開されました。神が造りたもうた「時」に間違いがあるはずがない。どちらかの時計が壊れているのではないか、そもそも神の創造物である「時」を機械で切り刻んでよいのか、などです。
 これは「時」とは何かという根本的な問題を孕んでいると同時に、時計という機械に遭遇した人々の最初の混乱でした。時計自体は古くからありましたが、それは修道院でのお祈りの時間を知らせたり、昼の時間を知らせたりする程度のもので、普通の人々が、少なくともこの村の人々が、身近に時を切り刻むのを目撃したのは初めてでした。結局、この「ズレ」が生じた原因は、イェール・カレッジの時計が太陽が真上に来たときを正午とする太陽時計だったのに対し、役所の時計は平均時(標準時)だったということです。ここで、一体どちらの時間を信じるべきなのか、という大論争が起きることになります。
 また、鉄道が西に向かって急速に伸びていくと、今度は時差の問題が起きてきます。鉄道で東西に30分載っているだけで、時差が発生します。では、鉄道の時刻表は、太陽時計(現地時間)に従うのか、標準時に従うのか。さらに工場で労働者が、決められた時間から決められた時間まで働くようになると、時間は売買の対象ともなります。また、20世紀に入って映画が普及すると、「普通のできごとの、予期される、常識的な時間感覚と過程を驚くべき効率をもって侵犯した。映画は通常のできごとのスピードと方向とを、両方とも変えてしまった-リンゴは上に向かって落ち、人々はあとずさりして歩き、花はまたたくまに無から生じ、砕かれた荒石が建物に舞い上がってもとの壁におさまる、という具合。」
 以上にあげた内容は、本書のほんの一部でしかありません。全体にこうした極めて興味深い話が語られています。時計が普及し、その時から時計と人間の戦いが始まる、という物語です。
 なお、本書の訳者解説に、興味深い内容が描かれていました。明治5(18721119)、政府は突如太陽暦に変えることを決定し、同年123日をもって明治6年1月1日とすることが決定されました。決定から実施まで、わずか14日しかなかったわけですから、議論の暇もありませんでした。しかし、政府の命令にも関わらず、かなり長い間123日に正月を祝う人はほとんどいなかったようです。私の祖母は明治生まれでしたので、ずっと旧正月を祝っていました。



2016年1月2日土曜日

映画「パルムの僧院」を読んで



1948年にフランス制作された映画で、1839年にフランスで出版されたスタンダールの同名の小説を映画化したものです。ナポレオン戦争直後のイタリアのパルマ(フランス語でパルム)を舞台としており、王侯貴族は復活し、民衆を抑圧し、自由主義運動が高まっていました。
















イタリアは、中世以来小さな独立国家が多数存在し、一時ナポレオンにより征服されますが、ナポレオン失脚後再び分裂してしまいます。映画の舞台は、そうした小さな独立国家の一つパルマ公国です。実は、ナポレオンはオーストリア-ハプスブルク家の姫マリー・ルイーズを妻に迎えますが、ナポレオン失脚後彼女にはパルマ公国が与えられたため、この小説の時代のパルマの支配者はマリー・ルイーズでしたが、小説ではまったく別の専制君主が支配していたという設定になっています。 
 スタンダールは、富裕な家庭に生まれ、ナポレオンの下で軍人となりますが、ナポレオン失脚後イタリアに渡り、イタリアで遊びまくったようです。この映画は、この時の経験に基づいていると思われます。文芸思潮としては、当時ロマン主義が全盛でしたが、感情表現を重視するロマン主義に対して、事実をありのままに描く写実主義が生れつつありました。この小説は、こうした写実主義の先駆的な作品の一つとされています。
 主人公は、当時23歳のファブリス(ファブリウス)・デル・ドンゴ侯爵で、幾分軽薄ではありますが、あまり憎めない、直情型で女たらしの、ハンサムな青年です。彼は、ナポレオンに憧れ、ワーテルローの戦いに参戦しますが、ほとんど戦わない内に負傷して逃げ帰ります。パルムでは、叔母であるサンセヴェリーナ公爵夫人ジーナの世話になり、彼女のコネで聖職者の身分を手に入れます。しかも彼女はファブリスを男として愛するようになりますが、彼はあちこちで恋をし、決闘までし、さらに人を殺してしまいます。
 ジーナは、頼りないファブリスの面倒をみ、彼女に対する大臣や大公の好意を利用して、ファブリスのために聖職者の地位を手に入れてやったり、彼が捕らえられると脱獄させたり、大公の暗殺まで行います。一方ファブリスは、牢獄の窓から監獄長の美しい娘クレリアを見つめ、幸福に浸っています。呑気なものです。それに対して、クレリアは侯爵夫人のファブリス脱獄計画を手伝うことになりますが、それは父を裏切ることを意味しましたから、神の前で二度とファブリスに合わないことを誓い、父が決めた婚約者と結婚します。しかし、結局二人は不倫を重ね、小説と映画では多少異なりますが、恋が成就されないことを知ったファブリスは、パルムの修道院で生涯を送ることになりました。
スタンダールの代表作「赤と黒」の主人公もそうですが、どうも彼が描く主人公は、自分の欲望な忠実な人物のようです。そして、その欲望のために身を滅ぼしていきます。「赤と黒」も映画化されているようで、私ははるか昔に原作を読んだのですが、映画は観ていません。むしろ「赤と黒」の方が、王政復古期のフランスを描いており、歴史的にはこちらの方が参考になったかも知れませんが、「パルムの僧院」も、ナポレオン失脚後のイタリアを描いており、それなりに参考になりました。



2016年1月1日金曜日

映画でV.ユーゴーを観て

ヴィクトル・ユーゴーについて

 ヴィクトル・ユーゴーは、19世紀に活躍したフランス・ロマン主義の代表的な作家で、すでに二十歳頃から名声が高まっていました。18世紀ヨーロッパの文芸思潮は古典主義と呼ばれ、古典古代を模範として理性や調和と均衡を重んじ、理性を重視する啓蒙主義が普及しました。ところが、こうした理性重視の風潮が生み出したのは、フランス革命とナポレオン戦争という大混乱でした。その結果、19世紀になると、理性より感受性や主観を、普遍的な国家より国民国家を、古代よりは中世を重視するようになります。ヴィクトル・ユーゴーの小説は、教条主義によって抑圧されてきた個人の独自性を描き出しています。ここで紹介する二本の映画「ノートルダムのせむし男」と「レ・ミゼラブル」には過去に何度も映画化され、日本でも大変よく知られているものです。

 なお、ロマン主義の人々は、教条主義に対する個人の解放だけでなく、専制支配に対する人間性の解放を目指しますので、しばしば政治に関わることがありました。ヴィクトル・ユーゴーも政治と深く関わり、七月王政時代のルイ・フィリップ国王から貴族院議員に任命され、第二共和政時代にも保守派の議員として活躍し、1848年の大統領選挙ではルイ・ナポレオンを強く支持します。しかし、ルイ・ナポレオンが独裁を強めていくと、ユーゴーは激しく彼を非難し、その後19年間に及ぶ亡命生活を余儀なくされます。1870年の普仏戦争でナポレオン3世が失脚すると、ユーゴーは帰国を決意し、英雄としてフランス国民に迎えられます。彼は、その後も執筆活動を続け、1885年に死亡します。83歳でした。


ノートルダムのせむし男

1939年にアメリカで制作された映画で、1831年に出版されたヴィクトル・ユーゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ(パリのノートルダム)」を映画化したものです。
 まず、映画のタイトルについて、一言述べておきたいと思います。「ノートルダム」というのは、フランス語で「われらが貴婦人」、つまり聖母マリアのことを指しており、したがってノートルダムの名を冠した教会は世界中にあり、日本にもノートルダムを冠した大学が幾つかあります。そして、この映画ではパリのノートルダム大聖堂のことを指しています。ノートルダム大聖堂は、12世紀半ばから13世紀半ばにかけて、ほぼ1世紀かけて建設されました。高さ32.5メートル、9000人を収容できる広さがあり、この映画の舞台となった鐘楼には9つの鐘があります。そして主人公のカジモドは、この鐘楼守です。
 次に「せむし」ですが、これは「くる病」のことで、ビタミンD欠乏症による骨の石灰化障害です。主人公のカジモドは先天性のくる病のようで、彼はそのあまりの醜さの故に、生後まもなくノートルダム大聖堂の前に捨てられ、大聖堂で育てられ、そこの鐘楼守となりました。そして、当時26歳でした。ただし、「せむし」という言葉は、今日では差別用語となっています。この映画のタイトルが「せむし男」になっているため、日本語版ではそのまま訳したのだとおもいますが、原作のタイトルには「せむし」は用いられていません。
この映画のヒロインであるエスメラダは、ジプシーです。ジプシーは、今日差別用語として使用されませんが、北インドからヨーロッパに入ったジプシーはロマと呼ばれ、ここではロマという言葉を使います。ロマの出身ははっきりしませんが、北インドで歌舞音曲を生業とする下層カーストの集団と考えられています。いわば彼らは旅芸人で、11世紀頃から長い年月の間に少しずつ西へ移動し、その過程で地元の習慣や芸を取り入れ、独自の文化を形成していったようです。彼らは、15世紀初めにヨーロッパに出現し、しだいにヨーロッパの人々から、差別と偏見を受けるようになります。しかだって、この小説は、「せむし」と「ジプシー」とい、社会から排除された人々に光を当てている分けです。
ドラマの舞台となった時代は1482年のパリで、ヴァロワ朝のルイ11世の時代です。ルイ11世は、百年戦争を終結させたシャルル7世の子で、なかなか個性的な君主でした。彼は、権謀術数の限りを尽くして貴族勢力の弱体化に努め、また社会や経済の安定化に努めると同時に、知的好奇心も旺盛で、印刷術の普及に力を貸したり、珍しい動物を集めたり、さらに占星術に取りつかれるなど、変な君主でした。このルイ11世が、しばしば映画に登場します。印刷術に興味を示す場面があり、さらにロマの入国を認めたり、ヒロインのエスメラダの釈放を認めたりします。彼は、翌1483年に死にますので、映画に登場するのは、彼の晩年の姿です。
ドラマは、ノートルダムの醜い鐘つきカジモドが、美しいロマの娘エスメラダに恋をするという話です。エスメラダには別に好きな男性がいましたが、エスメラダに横恋慕する貴族がその男性を殺し、その罪をエスメラダになすり付けます。結局、エスメラダは裁判で処刑されることに決まりますが、ここから小説と映画とで内容が異なります。小説では、エスメラダは処刑され、何年か後に処刑台の近くの土の中から、若い女性と背骨が異様に曲がった男性が抱き合って、白骨化した死体が発見されました。あまりに悲惨な結末ですが、カジモドにとっては幸福な死だったのかも知れません。映画では、カジモドがエスメラダを救出し、エスメラダは好きな男性と抱き合って喜び、カジモドは「いっそ石になりたい」と言って、終わります。ほかの映画でも同じようなハッピー・エンドとなっているようですが、カジモドにとっては、こちらの方が不幸だったかもしれません。
 映画では、ノートルダム大聖堂を中心に、乞食や盗人の集団、大道芸人など、パリの最下層に生きる人々が描き出され、大変興味深く観ることができました。

レ・ミゼラブル

1998年にアメリカで制作された映画で、1862年に出版されたヴィクトル・ユーゴーの同名の小説を映画化したものです。この小説については、数えきれない程の映画化・舞台化・派生作品があり、日本でも、すでに明治時代に「ああ無情」というタイトルで完訳されています。「レ・ミゼラブル」というのは、「哀れな人々」といった意味で、日本の児童用のアニメなどでは、主人公の名前をとって「ジャン・バルジャン物語」としている場合もあります。
ヴスクトル・ユーゴーは、1840年代になると文芸思潮がロマン主義から写実主義へ移行していったこともあって、10年以上ほとんど執筆していませんでしたが、亡命中の1862年に本書が出版されました。出版当日には本屋に長蛇の列ができ、労働者はお金を出し合って購入し、回し読みしたといわれます。本書はかなりの長編で、折に触れて当時の歴史が語られるとともに、多くの人々の人生が語られ、それらの人生がジャン・バルジャンの人生と深く関わって行きます。
まず、ジャン・バルジャンの一生を年代順に追ってみたいと思います。彼は、1769年に南フランスの貧しい農家に生まれ、1789年にフランス革命が起きますが、彼の生活は何も変わりませんでした。1795年、彼が25歳の時に、空腹のため1本のパンを盗んで逮捕され、懲役5年の刑を言い渡されますが、4回脱走を企て、その度に刑期を延長されて、結局19年間重労働を強制される徒刑囚として過ごすことになり、そこで人間としての誇りを徹底的に踏みにじられます。この間にナポレオンが権力を握りますが、彼には何の関係もありませんでした。そして1815年、彼が46歳の時、ようやく釈放されます。この年、ナポレオンが最終的に失脚し、ブルボン朝が復活します。
ドラマはここから始まります。釈放されても生活の糧もなく、ただ怒りと不安のみが彼を支配していました。まさに彼は「哀れな人」でした。たまたま通りかかった司教館で、彼はミリエル司教に手厚くもてなされ、久々に人間らしい生活に戻りますが、その夜彼は銀のスプーンを盗んで逃げだしました。翌日彼は逮捕されて司教館に連行されますが、司教は自分がスプーンを与えたのだと主張し、燭台も与えたのになぜ持って行かなかったのだと言って、彼に燭台も与えます。これは非常に有名な話で、児童書などでも取り上げられているものです。そしてこの時から、彼の人生が変わります。
1819年、彼は北フランスのある町でマドレーヌと名乗って工場を経営し、人望があったことから、国王ルイ18世により市長に任命されました。1823年、ジャン・バルジャンの運命は、再び大きく転換します。かつてジャン・バルジャンがいた刑務所の看守ジャベールが、この町の警察署長として赴任してきたのです。囚人は釈放の1年後に警察に報告しなければなりませんが、ジャン・バルジャンはそれをしなかったため、脱獄囚扱いとなっていました。彼は町を出る決意をしますが、その前に2つのことを行う必要がありました。一つは、病に倒れた不幸な女性の死を看取り、里親に預けたコゼットという少女を引き取ることです。もう一つは、別の町で全くの別人がジャン・バルジャンとして逮捕され、裁判にかけられようとしていたため、この囚人の無実を証明するため、自分が名乗り出る必要がありました。この2つの問題を処理した後、ジャン・バルジャンはコゼットとともにパリに移ります。
 パリで、二人は父娘として穏やかに暮らし、そして10年の歳月が流れます。しかしパリに赴任していたジャベールが、1832年にジャン・バルジャンを追い詰めて逮捕しようとします。しかし、今までのジャン・バルジャンの行動を見てきたジャベールには、ジャン・バルジャンを逮捕することができませんでした。ジャベールは両親が刑務所の囚人であったため、刑務所で生まれ、成人後は看守となり、刑務所の外のことを何も知りませんでした。彼にとっては、法が絶対であり、法を守ることが自分の義務だと信じてきました。しかし、ジャン・バルジャンを見逃すということは、自ら法に背くことであり、彼はそのような自分を許せず、自らを罰するために自殺します。彼もまた「哀れな人」でした。
 小説では、さまざまな人間模様が描き出され、様々な「哀れな人々」が登場しますが、映画では、ジャン・バルジャンとジャベールの物語を中心に語られます。それでも、映画は充分ダイナミックであり、感動的でした。