2016年5月28日土曜日

映画「曹操」を観て

2012年に中国で制作された連続テレビ・ドラマで、全41話からなり、三国時代の曹操を主人公としています。
われわれが一般に「三国志」という場合、明代に成立した「三国志演義」のことを指しており、ここにおける主人公は蜀の劉備です。この点については、このブログの「「三国志外伝」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/03/blog-post_23.html)を参照して下さい。魏・呉・蜀という三国の中で一番力のない蜀の君主劉備が主人公というのは不可解であり、本来なら一番強力な魏の曹操が主人公であるべきですが、曹操は悪党としてあつかわれます。劉備が主人公となった理由は、色々あるようですが、一つには正統性ということがあるようです。劉という姓は漢の王室の牲であり、事実かどうかは知りませんが、劉備は漢の王室の子孫だそうです。もっとも、事実であったとしても、300年以上前の王室の子孫の末裔だそうで、劉備の時代には母とむしろを作って暮らしていました。また、強い者に対して弱い者を贔屓する判官贔屓ということもあるでしょう。
一方、劉備という人物は、武勇や学問に優れる分けではなく、見方によっては平凡な人物でしたが、不思議に人を引き付ける魅力があったようです。こうした人物は、中国の歴史上しばしば登場するようで、例えば漢の建国者である劉邦や「水滸伝」の宋江などが知られています。劉備が主人公になるには、それ以外にも色々理由があるようですが、いずれにしても宋代の講談物などでは、しだいに劉備が三国志の主人公となる傾向が現れ、明の「三国志演義」によってこの傾向が確立したようです。それにしても、曹操を悪人にしてしまうのには問題があり、最近では曹操を評価する研究も進んでおり、この映画はそうした傾向を背景に制作されました。
 時代は後漢末期です。後漢王朝は、建国当初から豪族との連合政権という性格をもっており、豪族が強い力をもっていました。ところが、すでに第3代目頃から若年で即位する皇帝が続き、中には生後100日で即位する例もありました。そうなると、皇帝の身近にいる皇后とその縁者=外戚が力をもつようになり、外戚が政治の実権を握るようになります。これに対して皇帝は、やはり自らの身近にいる宦官を用いて外戚を排除しますが、今度は宦官が政治の実権を握るようになります。そこで次の皇帝は、外戚を用いて宦官を追い出します。一方、豪族出身の官僚たちは、自らを清流と称して宦官・外戚と対立し、さらに皇后と皇太后の対立、次期皇帝を巡る後継者争いも加わって、宮廷では泥沼の権力闘争が展開されるようになります。
 当時の皇帝は霊帝で、168年に12歳で即位します。映画では、翌年14歳の曹操が皇帝の遊び相手として出仕しますが、この年、宦官が官僚を弾圧する第二次党錮の禁が起き、都は騒然としていました。また、184年には黄巾の乱と呼ばれる大規模な農民反が起き、一旦鎮圧されますが、各地に残党が残って再起を図っていました。そうした中で、豪族たちは自衛のために軍事力を強化して軍閥を形成するようになり、中央から自立して皇帝権力はますます弱体化していきます。霊帝は、暗愚な皇帝の代名詞のように見なされ、若年で即位し、宦官に操られていましたが、成人すると彼なりの改革を試みたりしており、近年では霊帝の再評価が行われているとのことです。そして189年に霊帝が病死すると、中国は動乱の時代へと突入していきます。
 一方、曹操は有力な宦官の孫でした。宦官は去勢されているので、子や孫がいるはずがないのですが、当時の宦官は自分の名声や財産を残すために養子をとることが広く行われており、曹操の父が宦官の養子となったため、曹操は宦官の孫ということになるわけです。曹操は文武に優れた人であり、その人柄も信頼されていましたが、彼が宦官の孫であったため、常に周囲から軽く観られる傾向にありました。映画では、少なくとも189年以前の曹操は有能な官僚以上のものではありませんでした。ただ、権謀術数を好む傾向は、若い時からあったようで、こうしたことが、彼のイメージの形成に影響を与えているのかもしれません。いずれにしても、彼も故郷で軍隊の養成に励んでいましたが、その規模は他の勢力に比べてまだ小さく、また宦官の孫という立場上、率先して他を率いることは困難でした。
 霊帝の死後、17歳の少帝が即位します。17歳での即位というのは、後漢皇帝の即位年齢としては4番目の高年齢だそうです。しかし皇帝の即位を巡って、再び宦官・外戚・官僚の対立が激化し、この混乱に乗じて甘粛省の董卓が洛陽を占領し、皇帝を廃位・殺害します。少帝の在位は、わずか5カ月でした。代わって少帝の義弟が、わずか7歳で即位します。これが漢王朝最後の皇帝である献帝です。これに対して、各地の有力豪族が反董卓連盟を結成し、名門出身の袁紹が盟主となりますが、董卓は皇帝を連れて長安に遷都し、反董卓連盟もそれぞれ兵力を温存して分裂してしまいます。こうした中で、董卓が弟に暗殺され、群雄の中でまず彼が姿を消します。
 その後、曹操は急速に勢力を拡大し、しだいに袁紹と対立するようになります。この頃曹操は郭嘉(かくか)という軍師を得ます。郭嘉は若い頃から将来を見通す洞察力に優れていたとされ、最初袁紹のもとを訪れましたが、袁紹の人物に失望し、曹操に仕えることになります。郭嘉によれば、「「道」においては面倒な礼・作法に縛られる袁よりは自然体である曹が優れており、「義」においては天子に逆する袁より奉戴を目指す曹が優れており、「治」においては寛(締りの無さ)を以て寛を救おうとする袁より厳しい曹が優れており、「度」においては猜疑心と血縁で人を用いる袁より才能を重んずる曹が優れており、「謀」においては謀議ばかりして実行しない袁より曹が優れており、「徳」においては上辺を飾る人々が集まる袁より栄達と大義を目指す曹のほうが優れており、「仁」においては目に触れぬ惨状を考慮出来ぬ袁より曹が優れており、「明」においては讒言がはびこる袁より曹が優れており、「文」においては信賞必罰な曹は袁より優れており、また、「武」においては虚勢と数を頼みにする袁より要点と用兵を頼みにする曹は優れているのである」(ウイキペディア)とのことです。彼は、曹操に数々の勝利をもたらましたが、38歳の若さで死亡します。後に、赤壁の戦いで敗れた曹操は、もし郭嘉がいればこんなことにならなかったのに、と嘆いたそうです。

 董卓死後の長安では、皇帝を奪い合って権力闘争が泥沼化し、皇帝は洛陽へ脱出しますが、洛陽は董卓によって廃墟となっていました。有力豪族たちは、実権のない皇帝を助ける意志を持ちませんでしたが、曹操が皇帝を擁立して、196年に自らの領地にある許昌に宮殿を立て、皇帝を迎え入れます。実権はないとはいえ、400年以上続いた漢王朝の皇帝ですから、これを擁立したとなれば、曹操は形式上中国全土に命令を発することが可能となります。これに対して袁紹が黙っているはずはなく、二人の決戦は避けられない状態となりました。こうした中で、劉備が、小勢力とはいえ重要な役割を果たすようになります。人々は、ようやく劉備が只者ではないことに気づき始めます。

200年、いよいよ曹操と袁紹との決戦が始まります。官渡の戦いです。兵力では袁紹が圧倒的に優位に立っていましたが、曹操の巧みな用兵に翻弄され、結局敗北します。宦官の孫と蔑まれてきた曹操は、ついに華北を掌握し、今や漢室を戴いて、最高の実力者となります。次は南方の征服ですが、207年に頼りとする軍師郭嘉が死亡し、ドラマはここで終わります。一方同じ頃、劉備は天才軍師と言われた諸葛孔明を得、こうして2008年、世に名高い赤壁の戦いが行われます。「三国志」は、この戦いでクライマックスを迎えるわけですが、映画はその直前で終わります。結局曹操が敗れたため、魏・呉・蜀という三国が鼎立することになります。その後も曹操と劉備との間で激戦が繰り広げられますが、決着がつきませんでした。
 216年曹操は魏王に封じられますが、それは飽くまでも漢王朝の枠組みの中での魏王でした。結局曹操は、漢王朝を倒して自ら新王朝を建てることは在りませんでした。それは、漢王朝への忠誠心なのか、それとも漢王朝の枠組みを必要としていたのか、あるいは宦官の孫と言う家柄の卑しさを配慮したのか、私には分かりません。220年に曹操が死ぬと、後継者の曹丕は、献帝に迫って退位させ、自ら皇帝となります。形の上では、献帝が曹丕に18回禅譲を求め、曹丕は18回断った後に受け入れたことになっていますが、事実上は帝位の簒奪でした。ここに漢帝国が名実ともに滅亡することになるわけですが、魏による全土の統一も達成されることは在りませんでした。以後、中国は魏晋南北朝時代と言われる、400年に及ぶ分裂の時代を迎えることになります。
 映画では、多くの人命や地名が登場してくるため、内容を追うのが大変でした。また、曹操自身が官僚的で律儀な人物だったので、前半は少し退屈でした。彼は官僚的な几帳面さで物事を決定し、綿密な計画を立て、自ら軍の先頭に立って戦います。彼は頭痛もちだったようで、何時も頭痛に苦しんでいました。また、後半では女性がほとんど登場せず、画面に華やかさがかけていました。もっとも、曹操に何人の妾がいたか知りませんが、30人以上の子供がいますので、女性関係は相当盛んだったことは間違いありません。
 ただ、「三国志演義」で描かれる曹操とは異なり、実際の曹操は決して劉備の引き立て役ではなく、悪人でも善人でもなく、有能な人物として描かれています。


2016年5月25日水曜日

「アメリカ文化のいま」を読んで

小林憲二著 ミネルヴァ書房 1995
 著者は、1990年代にアメリカ社会が大きく変質しつつあると考えます。ことの起こりは、1963年のケネディ暗殺で、犯人ついての公式発表である「オズワルド単独犯行」説を信じている人はほとんどおらず、真相の公開は2039年ということになっています。アメリカでは、公文書の公開は原則として30年後ということになっていますが、ケネディ事件に関しては、関係者が生きている可能性がほとんどない2039年まで真相を公開しないということなのでしょう。多分、私も真相を知ることができないのではないかと思われます。
 そして、このことに関して最大の問題は、アメリカ国民がこれを受け入れている、ということです。「アメリカ国民はアメリカの現状に深く関わり、コミュニティとしてのアメリカはまっとうだと信じ、自分たちがバラバラで、内心そのことに深く悩んでいるという事実を認めたくなかったということこそが問われるべきなのだ。」つまり事実を隠蔽する習慣がついてしまった、ということです。そして、そのまま大義のないベトナム戦争に突入し、ますますアメリカ人は事実から目を逸らすようになります。
 著者はアメリカ文学者ですので、アメリカ人のこうした心性の形成を、映画や文学を通じて語ります。私は、アメリカ文学について、まったく知識がないので、大変興味深く読むことができました。そして、現在アメリカの大統領予備選挙で起きているトランプ現象は、こうしたアメリカ人の心性を反映しているのかもしれません。

2016年5月21日土曜日

映画で世界大戦を観て

はじめに

 20世紀前半に起きた二つの世界大戦に関して、2本の映画を観ました。もちろん、世界大戦に関する映画は数えきれない程沢山ありまが、私はこの2本しか観ていません。どちらも、戦争中に起こった小さな物語ですが、戦争というものをく考えさせてくれるの物語です。

西部戦線異状なし

 レマルクの同名の小説がアメリカで映画されたもので、第一次世界大戦の虚しさを描いています。レマルクはドイツの作家で、彼は第一次世界大戦中の1916年に、教師の説得で学友たちとともに志願兵として参戦し、負傷します。1929年にレマルクは、彼自身の戦争体験を基に、「西部戦線異状なし」を発表し、たちまちベストセラーとなり、翌年にはアメリカで映画化されました。彼はその後も反戦的な小説を書き続け、ナチスにより国籍をはく奪されてアメリカに亡命しました。
 映画は、第一次世界大戦初期に、学校の教室で教師が愛国心を叫び、学生たちに志願兵となって戦争に行くようにアジテーションをしている場面から始まります。それは、あたかもヒトラーの演説のようでした。学生たちは熱狂し、我先にと軍隊に志願します。しかし、現実の戦争は、彼らが想像していたものとは全く異なっていました。英雄的な戦いはどこにもなく、ひたすら塹壕を掘り、兵士たちは塹壕の中をかけずりまわっていました。
 ナポレオン戦争の時代には、兵士たちは横一列に並び、敵に向かって前進します。敵は、これに対して一斉射撃を行うわけですから、まるで死刑囚の銃殺のようです。ところが、この時代の鉄砲はあまり当たらなかったようで、生き残った兵士が一気に敵陣に突っ込むというのが、当時の戦法でした。しかし、第一次世界大戦の頃には兵器が随分改善されており、射程距離も命中精度も高まり、また連発銃も使用されるようになります。そうなると、今までのように敵陣に進撃したら、突入する前に皆殺しにされてしまいます。そこで両軍ともに塹壕を掘り始めたのですが、それがどんどん延長され、ベルギーの海岸からスイスの国境まで掘られることになります。塹壕内の居住環境は劣悪で、雨が降れば水につかり、疫病、凍傷、水虫などが蔓延していました。
 こうした戦いに勝利するため、戦車、航空機、手榴弾、毒ガスなど様々な兵器が開発されますが、埒があきません。時々、戦局を切り開くために大決戦を試みますが、膨大の死傷者が出るのみで、戦局はほとんど変わりませんでした。主人公のパウルは、19歳の時に志願し、すでに3年が経ち、級友たちも何人か死にました。お互いに命を守るのが精いっぱいで、何のために戦っているのか分かりませんでした。彼も負傷し、一時帰郷が認められますが、故郷では相変わらず愛国心が叫ばれ、学校では例の教師が相変わらずアジテーションをしていました。彼は故郷の雰囲気に心の安らぎを得ることができず、休暇を返上して戦場に帰って行きます。
 生きるために、ありのままの姿で語り合える戦場の方が、彼は心の安らぎを得ることができました。ある時、比較的平穏な日がありました。例によって、彼は塹壕から敵の前線を監視していたのですが、たまたま目の前を蝶が飛んでいたため、これを捕まえようとして身を乗り出した時、敵の銃弾が彼に命中し、そのまま彼は死んでしまいました。その日の前線から本部への報告は、「本日西部戦線異状なし」というものでした。一人の青年が死んだにも関わらず、です。そして、まもなく終戦を迎えようとしていました。

 映画は冒頭で、「この物語は……冒険物語ではない。死に向き合っている人間にとって、それは冒険と呼べるものではない。これは砲弾から逃れたが、戦争により破壊された若者たちの話である」と述べます。これほど虚しい戦いをしにながら、ヨーロッパは20年後にもう一度、第一次世界大戦よりはるかに大規模な第二次世界大戦を戦うことになります。

レニングラード大攻防 1941

1985年にソ連で制作された映画で、1941年に始まった独ソ戦争でのレニングラード包囲戦を題材としています。日本語タイトルの「レニングラード大攻防」もサブタイトルの「ナチス包囲―戦慄の900日」も大嘘で、原題は「火薬」であり、ほんの数日間を扱っているにすぎません。ただ、タイトルから推測して、ソ連の国威発揚映画だと思って、あまり期待していなかったのですが、意外にもよくできた映画でした。
1939年に第二次世界大戦が始まる直前に、ソ連はドイツと不可侵条約を締結していたため、当初は戦争に巻き込まれませんでした。しかし、この不可侵条約はドイツが二正面作戦を避けるための時間稼ぎにすぎないことは分かっていたはずですが、1941622日にドイツ軍が、北部・中部・南部から総攻撃を開始すると、ソ連軍は総崩れとなります。今回の戦争に関してヒトラーは、フランスなどとの戦争とは異なり、「イデオロギー戦争」「絶滅戦争」と位置付けていました。つまりヒトラーは、スラヴ人を劣等民族として、ドイツ系移民による植民地とするつもりだったとされます。
98日に、ドイツ軍はレニングラードの包囲をほぼ完成し、レニングラードへの空爆を開始します。開戦前のレニングラードの人口は300万を超していましたが、ドイツ軍の急進撃のため、住民はほとんど疎開する暇がありませんでした。直ちに食糧は配給制になりますが、何よりも火薬の在庫が底をついていました。そして映画は、ここから始まります。リニングラード駐屯軍は海軍から火薬を調達することになり、ドイツ軍の包囲網をかいくぐって、火薬をレニングラードに運び込むことになりました。映画は、火薬を運び込む数日間を描いているだけですので、「レニングラード大攻防」というタイトルはひど過ぎます。
この任務を命じられたのは、ニコノフ大佐と5人の部下でした。当時、ニコノフの家には、家を出て行った妻が帰ってきていました。彼女は、別に好きな男性ができたため、子供を連れて家を出て行ったのですが、相手の男性が戦死したため、行き場を失って、子供を預かってくれるように頼みに来たのです。他の隊員も色々問題を抱えていましたが、火薬の補給は緊急を要するため、とりあえず任務に就きます。ドイツ軍による猛烈な空爆で次々と人が死んでいきますが、隊員たちはわりにのんびりしており、冗談を言い合ったりしており、それぞれの個性がよく描かれていました。こうして何とか任務を終了し、ニコノフが家に帰ると、まだ妻がいました。妻はまだ恋人を愛しており、「ファシストに打ち勝とうが、ヒトラーを殺そうが、彼は戻ってこない」と言います。それに対してニコノフは、「生きてみるのがいい。死ぬのは簡単だ」と言い、また一緒に暮らすことを提案して、映画は終わります。多くの死を見てきた男の言葉でした。
この時、レニングラードが包囲されて21目が終わろうとしていましたが、レニングラードの包囲は900日近く続きます。この間のレニングラードは悲惨でした。食糧不足のため餓死する人々が多く、また人肉を食べ、人肉を販売する店まで現れたそうです。19431月からソ連軍の反撃が開始され、19441月に包囲は完全に解かれました。この間に、レニングラード住民の3分の1近くが死亡したとされています。ニコノフ夫婦は、この苦難の時代を生き抜くことができたのでしょうか。



2016年5月18日水曜日

映画「阿部一族」を観て

1995年に放映されたテレビ・ドラマで、森鴎外の同名の原作(大正2(1913))をもとに制作されました。この小説は江戸時代初期の殉死を扱ったものですが、実はその前年に明治天皇が崩御し、乃木希典陸軍大将が殉死しており、当時の世論は乃木の殉死を称賛する一方で、それを前近代的とする批判もありました。そうした中で、この「阿部一族」が執筆された分けです。
 殉死は、古代以来世界各地に見られる風習ですが、こうした風習には強制的殉死と自主的な殉死があります。戦国時代には、主君が戦死すれば家族や家臣が殉死することは美徳とされていましたが、病気などの自然死の場合、殉死する習慣はなかったようです。ところが江戸時代になると戦死する機会が減ったため、主君が自然死でも身近な家臣が殉死するようになり、それが美徳とされるようになりました。そうなると、今度は打算が生れてきます。殉死すれば、その一族・子孫は賞賛され優遇されますが、殉死しなければ不忠者と後ろ指を指されることになります。そこで、江戸幕府は1665年に殉死を禁止しますが、事件はそれ以前の1641(寛永18)に起きました。
 舞台となったのは肥後熊本藩で、1641年に藩主細川忠利が病死しました。主人公の阿部弥一右衛門は、この藩主のもとで異例の出世を遂げた人物でしたので、忠利の生前に、彼を含めて多くの家臣が殉死を願い出ましたが、忠利は殉死を禁止しました。しかし忠利の死後、次々と18人もの家臣が殉死し、人々からは忠義者として賞賛され、藩もそれを黙認していました。世継ぎである光尚は急遽帰国して藩主となり、今までの殉死は認めた上で、改めて殉死を禁止しました。一方、阿部弥一右衛門は先君の遺命を守って殉死をしなかったのですが、周囲から不忠者・臆病者と陰口をたたかれ、ついに耐えかねて殉死します。
 これに対して光尚は、弥一右衛門の切腹を殉死と認めず、阿部家の家格を落として、命令違反への見せしめとしました。阿部家を相続した権兵衛は、これに反発して忠利の一周忌の法要の場で、自ら髷を切って抗議しため、直ちに捕らえられて処刑されます。阿部家に対する二度もの侮辱に対し、阿部家全員が屋敷に立て籠もり、藩の追っ手と戦って、阿部家は全滅することになります。こうなると、もはや忠義の殉死などという話ではなくなってきます。もはやそれは、体面と一族の繁栄の問題であり、殉死というものが、それ程単純なものでないことが、よく分かります。島原の乱が終わったのが1637年で、まだ戦国時代の気風が残っていたとはいえ、時代は太平の世に移りつつあり、価値観が大きく変わりつつありました。しかも大名の嫡子は江戸で暮らしますので、国元の事情に疎く、国元の家臣たちとの間で齟齬が生じやすいものです。今や君主と家臣との関係は、戦場でともに戦ってきた関係とは異なっていたのです。そうした、様々な事情を背景に、阿部一族の問題が発生したようです。

 ところで、乃木希典の死は殉死ではなかったようです。彼は、西南戦争で軍旗を失ったことを恥じており、さらに日露戦争で多くの兵士を死なせたことに、強い罪悪感を抱いていました。すでに明治天皇にそのことを打ち明け、自害することを望んだのですが、明治天皇は自分が死んでからにしてくれ、と言ったそうです。そのため乃木はひたすら天皇の死を待ち、天皇の死後自害したため、殉死のように思われましたが、実は自責の念に駆られた自害だったようです。森鴎外は陸軍の高官でしたから、そうした事情を知っていたものと思われます。要するに鴎外は、殉死というものを、一律かつ単純に考えるべきではない主張したかったのでしょう。


2016年5月14日土曜日

映画「副王家の一族」を観て

2007年にイタリアで制作された映画で、19世紀のシチリアの貴族の生活を描いています。類似の映画に「山猫」という映画がありますが、私は観ていません。
シチリアは、地中海のほぼ真ん中にあり、3000年来多くの勢力の支配を受けてきました。そのため、その歴史は極めて複雑ですので、ここでは、直接映画に関係する範囲内のみで述べることにします。シチリアと南イタリア(ナポリ王国)は、18世紀以来スペイン・ブルボン家の支配下に入り、両シチリア王国と呼ばれました。これによって、ブルボン家の国王が両シチリア王国の国王となるのですが、その際スペイン国王の代理として副王が派遣されたのだと思います。この映画の副王家とは、この副王の子孫の一族だと思います。
この映画で登場する副王の子孫ウゼダ家が実在するかどうか知りませんが、当主ジャコモは暴君で、一族を厳しく支配し、多くの人に恨まれていました。そしてこの頃、イタリアの統一運動が盛んとなり、イタリアは大きく変わろうとしていました。1860年にガリバルディが率いる赤シャツ隊がシチリアとナポリに上陸し、両シチリア王国はイタリアに併合されることになります。このイタリア統一をきっかけに、北イタリアでは産業が急速に発展していきましたが、シチリアは何の恩恵も受けることなく、イタリアの発展から取り残され、貴族たちの生活は、ほとんど中世的と言えるほど保守的で、民衆は貧困に喘いでいました。この頃に、貧困に耐えかねた多くの民衆が、アメリカなどに移住していきました。
長男のコンサルヴォは家を出て政治家となり、民衆を基盤とした政党から立候補して議員となりますが、彼もしだいに父と似て独裁的となっていきます。父の信念は、その態度によって、憎悪と冷酷さが人間を前進させるのだと子供たちに教えていましたが、父を嫌っていた息子も、結局父と同じ道を歩むことになります。
そして最後に、191872歳になったコンサルヴォは、自分の一生を回顧して、結局何も変わらなかった、とつぶやきます。しかし、実は違っていました。この時代のイタリアは引き裂かれていました。労働運動、分離運動、地主・資本家などが、それぞれの要求を掲げていました。こうした中で、ムッソリーニがファシスタ党を結成し、急速に台頭してくることになります。

この映画は、何を言いたいのかよく分かりませんでした。ただ、保守的で、信じられない程因習が支配しているシチリアの社会を観た、という程度でした。

2016年5月11日水曜日

映画で浮世草子と浄瑠璃を観て

大阪物語

1957年に制作された映画で、井原西鶴の「日本永代蔵」「世間胸算用」「万の文反古」をもとに「大阪物語」として制作されました。江戸時代における上方の庶民の生活や人情が描かれています。
江戸時代の前期には、文化の中心はまだ上方にあり、元禄年間(1688 - 1707年)には小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門などが活躍します。小説では、江戸時代初期に仮名交じりで書かれた仮名草子が普及しますが、これが従来の御伽草子と決定的に異なる点は、木版で印刷され、大量に庶民に普及したということです。その背景には庶民が経済力つけ、また識字率が向上したことがあります。仮名草子の作者には、武家など当時の知識層が多く、内容的にも教訓的なものが多かったのですが、井原西鶴の著した「好色一代男」は、それまでの草双紙とは一線を画していました。彼は、現世を「浮世」として肯定し、現実的・合理的な精神を描き出しました。それは「庶民の手による、庶民を対象とした、庶民を主人公とする物語」で、従来の草双紙と区別して、浮世草子と呼ばれるようになります。
西鶴はもともと俳諧師で、一昼夜の間に発句をつくる数を競い、最高で23500句を作ったとされます。1682年には「好色一代男」を出版して大好評となり、以後多くの浮世草子を出版します。さらに1685年には浄瑠璃を手掛けるようになりますが、ちょうどその頃、まだ駆け出しの近松門左衛門が浄瑠璃作家として登場してきます。そして西鶴は、1693年に、52歳で死亡しました。その本領は俳諧師でしたが、むしろ浮世草子によって、日本の文学に新しい道を切り開きました。
映画は、近江の貧しい百姓仁兵衛が、年貢を支払えないため、家族とともに夜逃をするところから始まります。そして、大坂にたどり着きますが、食べ物も仕事もなく困窮します。ところが、大阪には大名などが米を運び込む蔵屋敷がありますが、船から蔵屋敷に米俵を運び込む際に俵から僅かに米が零れ落ちます。仁兵衛はその米を拾い集めて売り、金を貯め、やがては自分の店を持つようになり、さらに倒産した大店を買い入れ、今や仁兵衛は大店の主になりました。しかし、金持になっても仁兵衛はケチのままで、奉公人や家族にも厳しい節約を強要します。ともに苦労をしてきた妻が病気になった時も、ろくに治療もせず死なせてしまいます。さらに息子や娘も、父に愛想をつかせて出てってしまい、今や一人となった仁兵衛は、金箱を抱えて発狂してしまう、という物語です。

 彼が描く人物像には、エミール・ゾラが描くようなリアリズムがあり、「人びとが愛欲や金銭に執着しながら、みずからの才覚で生き抜く姿を描くと同時に、偶然の積み重ねで人の世が思いがけない転回を遂げることをリアリスティックに描いています(ウイキペディア)。」映画は、幾分道徳臭がありましたが、まさに勃興しつつあった町人の姿を、よく描いているように思います。

鑓の権三

1986年に制作された映画で、近松門左衛門の浄瑠璃を映画化したものです。浄瑠璃とは、琵琶法師が語る平曲の一つ「浄瑠璃姫」に由来します。「浄瑠璃姫」とは、三河の浄瑠璃姫と源義経との恋物語です。16世紀に沖縄から三味線が導入されると、三味線や人形を使って平曲を演じるようになり、中でも「浄瑠璃姫」に人気があったため、この芸が浄瑠璃と呼ばれるようになったそうです。なお、人形浄瑠璃は、今日では文楽と呼ばれています。
浄瑠璃が発展するきっかけとなったのは、近松松門左衛門と武本義太夫の出会いにありました。近松松門左衛門は、1653年、越前国(現在の福井県)に福井藩士の子として生まれましたが、やがて武士を捨て、浄瑠璃作家となります。一方、義太夫は摂津国天王寺村の農家に生まれ、やがて京の宇治加賀掾(かがのじょう)の元で浄瑠璃を学び、1684年に大坂道頓堀に竹本座を開きました。1685年に宇治加賀掾が竹本座に対抗するため大坂に進出し、西鶴が彼のために浄瑠璃を書き、近松が義太夫のために書きます。この勝負は互角だったようですが、結局宇治加賀掾は京に引き揚げます。以後近松は竹本座専属の脚本家となり、それとともに浄瑠璃は革新的な変化を遂げていきます。
義太夫は、従来の曲とは異なる義太夫節と呼ばれる曲を生み出し、さらに歌を減らして語りを中心とし、三味線の曲、語り、人形劇を一体化した浄瑠璃を生み出します。これに、文学的に洗練された格調の高い近松の脚本が加わるわけです。近松は、歴史上の英雄を描くと同時に、現実の社会にも題材を求め、義理と人情の板挟みのなかで人間らしく生きようとする人々の極限状況を描きました。西鶴がリアリズムであるとするなら、近松はヒューマニズムであり、若い男女が死ななければならないほど愛し合う姿は、近代的な観念としての恋愛を日本で初めて描いたものとされます(ウイキペディア)
この映画は、近松の代表作というわけではありませんが、武家社会における雁字搦めの掟の故に、死んでいった男女を描いています。映画の冒頭で、1635(寛永12)以来、大名の江戸詰が義務付けられて以来百年が経っていた、という字幕が出て、何のことかと思っていたのですが、最後に分かります。大名は1年おきに江戸に滞在せねばならず、そのためには江戸屋敷をおき、そこに勤務する相当数の藩士が必要です。江戸勤務を命じられた藩士は、相当期間江戸に単身赴任することになり、その間に故郷の妻が不倫をする可能性が高まるということです。
この映画の舞台は出雲の国の松江藩で、主人公は笹野権三という鑓の名人で、鑓の権三と呼ばれていました。彼は、ふとしたことから、夫が江戸在勤中の妻さえとの不倫を疑われ、やむなく二人で出奔することになります。当時、妻を奪われた夫は、相手の男と妻を討つ妻敵討ち(めがたきうち)をせねばなりませんでした。権三もさえも討たれることを覚悟で、京で夫が来るのを待ちます。討つ方も討たれる方も、割り切れない思いだったでしょう。実は、この事件は実話に基づいており、1717(享保2年)7月に京で妻敵討ちが行われ、早くも8月にこの芝居が上演された分けですから、大変ホットな話題だったわけです。そして最後に、近松自身が、参勤交代で江戸に向かう大名行列を見つめつつ、「また妻敵討ちが起こらにゃよいが」とつぶやいて終わります。

映画では、人間の欲望や野心、さらに大義名分が渦巻くどろどろとした人間社会が描かれており、シェイクスピアを思わせるような台詞が飛び交い、大変興味深く観ることができました。

2016年5月7日土曜日

映画「屋根の上のバイオリン弾き」を観て



 「屋根の上のバイオリン弾き」は、19世紀末にユダヤ系ウクライナ人作家ショーレム・アレイヘムによる短編「牛乳屋テヴィエ」が、1964年にミュージカルとして上演されたもので、それが1971年にアメリカで映画化されました。 
 ヨーロッパの中世において、スペインで迫害されたユダヤ人はオスマン帝国などに亡命しセファルディムと呼ばれ、ドイツなどで迫害されて東欧に移住したユダヤ人はアシュケナジウムと呼ばれ、彼らは主に東欧に移住しました。(この点については、このブログの「映画でヒトラーを観て 戦火の奇跡」を参照して下さいhttp://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/02/blog-post_24.html)。彼らは、東欧各地にシュテッテルと呼ばれるユダヤ人コミュニティーを形成し、古くからの伝統とユダヤ教を守ることで、アイデンティティを維持してきました。彼らの言語は、イディッシュと呼ばれ、ドイツ語にヘブライ語などが混ざった言語です。
この映画の舞台となっているのは、ウクライナのアナテフカというシュテッテルです。この村には、なぜか、いつも屋根の上で不安定な姿勢でバイオリンを弾いている人がいました。主人公は、テヴィエという牛乳屋で、彼には妻と5人の娘がいました。そして娘の結婚は、父親が決めるのが伝統でした。ところが、長女のツェイテルは若い仕立屋のモーテルと結婚したいと言い出しました。村では仕立屋は7人で1人前と言われており、しかも娘の結婚は父親が決めるという伝統にも反しましたが、テヴィエは娘の幸せのために、二人の結婚を許します。こうして、伝統は少しずつ崩れていきます。
次女ホーデルはキエフ大学の貧乏学生パーチェルと恋をし、パーチェルが反政府活動で逮捕されてシベリア流刑となると、彼女もパーチェルの後を追ってシベリアへ向かいました。そして三女のハーバは、フョードカというキリスト教徒の青年と結婚するために家出しました。信仰を最後の拠り所として生きてきたテヴィエにとって、娘が異教徒と結婚することは、大きな打撃であり、もはや彼を支えてきた伝統は崩れ去りました。そしてこれに追い打ちをかける事件が起きました。
当時ロシアは、ユダヤ人の追放政策を強めており、周辺の村でも追放が行われたという噂が流れてきていました。当時は、一民族一国家という国民国家の概念が普及した時代で、ユダヤ人など異分子を排除する動きが強まっていました。同じころ、フランスで起きたドレフュス事件も、こうした情勢を背景としています。ロシアでのユダヤ人排斥は「ポグロム」と呼ばれ、ロシア語で「破壊・破滅」を意味するそうです。
こうした中で、ユダヤ人は命令に従うしかありません。ある者は、ロシア領内の別の土地に移動しますが、彼らの多くは、後にナチス・ドイツによって徹底的に迫害されます。ある者はイスラエルに移住し、当時生まれつつあったユダヤ人国家の建設に協力します。そしてテヴィエは、原作ではイスラエルに行ったことになっているようですが、映画ではアメリカに移住します。この時期に、多くの東欧のユダヤ人がアメリカに移住し、今日でもアメリカにはイディッシュの話者が300万人近くいるようです。
最期に、荷物を積んで村を出ていくテヴィエたちの背後から、バイオリン弾きの奏でる曲が流れます。ユダヤ人の生活は、いつ追放されたり、虐殺されたり、ゲットーに押し込められたりするか分かりません。それは、不安定な姿勢で、屋根の上でバイオリンを弾く姿に似ています。つまりテヴィエたちの「伝統」は、初めから不安定な基礎の上に成り立っていた分けです。
映画は、コミカルなタッチで描かれ、哀愁に満ちており、大変感動的でした。

 

2016年5月4日水曜日

映画で旅芸人を観て

はなれ瞽女おりん

 水上勉が1975年に発表した同名の小説が、1977年に映画化されました。
 旅芸人とは、古代以来世界中どこにでもおり、サーカスや奇術師など、さらにヨーロッパ中世の吟遊詩人も旅芸人です。日本でも、古くから旅芸人はおり、江戸時代でも関所手形がなくても、芸を見せれば関所を通れたそうです。こうした旅芸人は、娯楽の少ない農村では、大変喜ばれたそうです。
そして、この映画の瞽女(ごぜ)も、旅芸人の一種です。瞽女とは、眼の見えない女性が、三味線などを弾いて門付を行う旅芸人で、すでに室町時代には存在していたとされます。瞽女は、地域ごとに集団を形成して生活し、幼い頃から芸を教えられ、集団で門付巡業を行っていました。こうした集団の中で育った少女は、初潮を迎えると、皆の前で三々九度の杯を壊して神の嫁にしてもらい、男性と交わらないことを誓います。こうした原則を守らなければ、女だけで旅をしていれば常に男性に襲われる危険があるし、子供が生まれても、盲目の女性が育てていくことは困難だからです。そのため、禁を犯した瞽女は集団から追放され、一人で暮らしていかなければなりません。こういう人を「はなれ瞽女」と呼びます。
この映画の主人公のおりんは、はなれ瞽女でした。眼の見えない女性が、一人で門付の旅をすることは、容易なことではありません。映画は、おりんが26歳の時から始まります。この頃、彼女は鶴川仙蔵という男性と出会い、彼と心が通い合うようになり、一緒に旅をしていました。男はほとんど彼女の体を求めるのですが、鶴川はまったく彼女に体を求めず、彼女にいつも優しくしてくれました。そうした中で、彼女は彼に自分の身の上を話すようになります。彼女は若狭の小浜で生まれ、生まれつき目が見えず、6歳の時に母がいなくなり、新潟の瞽女屋敷に連れて行かれ、そして二十歳の頃男に半ば無理やり犯され、瞽女屋敷を追放されました。以後、彼女は半ば瞽女として、半ば娼婦として生きてきましたが、彼女には暗さはなく、強かに生きていました。
彼女は鶴川という男性と知り合ってから、初めて女らしい幸せを求めるようになります。しかし鶴川は、自分の身の上について決して話そうとしませんでした。実は彼は脱走兵でした。当時は大正時代で、シベリア出兵が行われており、彼は金持ちの身代わりに徴収され、脱走しました。さらに彼は、おりんに乱暴を働いた男を殺したため、警察に捕らえられてしまい、おりんは生きる希望を失ってしまいます。それから、どれ程の歳月が流れたのかわかりませんが、小浜の岬の先に白骨化した女性の遺体が発見され、そばには薄汚れた赤い着物が落ちていました。彼女は自殺していたのです。彼女は、鶴川に合わなければ、一生強かに生きて行けたかもしれません。しかし鶴川に合い、幸せへの希望を抱き、そして鶴川を失ったとき、もはや生きていくことができなかったのだと思います。
映画では、北陸の厳しくも美しい風景や、大正時代の風俗がよく描かれており、悲しくも美しい映画でした。それにしても、篠田正浩という監督は、映画の中とはいえ、妻の岩下志保を裸にさせたり、暴行させたり、やりたい放題ですね。

竹山ひとり旅

1977年に制作された映画で、津軽三味線の名手高橋竹山(本名定蔵)の一生を描いた映画で、当時まだ存命していた竹山自身が語りを務めています。
 津軽三味線というのは、弦を打つように強く弾く奏法のことです。三味線自体は、新潟の瞽女を通してかなり以前から津軽に普及していましたが、幕末の頃にボサマ(仁太坊」(にたぼう))という人物が革新的な奏法を導入したといわれます。それは、お祭りなどでは多くの奏者が並んで三味線を弾くため、より目立つための奏法だとされます。ここに津軽三味線と呼ばれる奏法が生まれる分けですが、三味線で門付をする人はボサマと呼ばれるようになります。
 竹山は1910年に生まれ、2~3歳の頃麻疹による高熱で失明し、15歳の時にボサマに弟子入りして三味線を習い、17歳頃からボサマとして各地を放浪します。時代的には、前に述べたおりんとほぼ同じです。映画にストーリーはほとんどなく、竹山の放浪の姿を描いているだけですが、その間に色々な人と出会います。泥棒、飴売り、年老いたボサマなどで、こうした人々との出会いを通じて、彼の人間形成が行われていきました。まもなく第二次世界大戦が始まり、人々にボサマに恵む余裕がなくなり、ボサマとしての生活が困難となります。一度結婚しますが失敗し、1938年に同い年のナヨという盲目のイタコと再婚します。
 イタコというのは、霊媒師、祈祷師、シャーマンといった意味ですが、彼女の場合、人々の悩みを聞いたりするカウンセラーのような役割も果たしており、竹山より稼ぎがよかったため、竹山の仕事がなくなっても、竹山を支え続けました。この間にも、多くの人との出会いや苦しみがあり、そうした経験を通じて、竹山の三味線に心が宿るようになっていきます。そして、1950年から津軽民謡の神様とも呼ばれた成田雲竹の伴奏者となり、しだいに竹山の名が世に知られるようになります。1975年に自伝「津軽三味線ひとり旅」が出版され、1977年にこの映画が制作されました。1986年にはアメリカ公演が行われ、アメリカの評論家たちから絶賛され、今や高橋竹山と津軽三味線の名声は不動のものとなりました。そして1998年に、竹山は87歳で死亡します。
 映画では、東北地方の厳しい自然と貧困が描き出され、そこに自然にボサマが溶け込んでいるように思われました。盲人は常にどんな地域にもおり、北陸の瞽女もそうですが、彼らは決して厄介者ではなく、その地方に溶け込んで生きていました。また、竹山の母は、くじけそうになる息子を常に叱咤激励し、決して見捨てることはありませんでした。こうした人々に支えられて、竹山は芸を極めることができたのだと思います。
しかし、戦争がそうした生活を困難にし、さらに戦後、ラジオ・テレビなど娯楽が普及すると、旅芸人の存在意義が失われていきます。こうした芸は伝統的な民衆芸能であり、それらは、戦後次々と失われていきましたが、その一部は、竹山などを通して広く知られるようになりました。