2017年12月29日金曜日

映画「僕たちの家に帰ろう」を観て

2014年に中国で制作された映画で、中国の河西回廊に住むユルグ族という少数民族の、幼い二人の少年が、父母のもとへ帰っていく旅の物語です。






















 河西回廊とは、黄河の西にあるからこう呼ばれ、南に6千メートル級の祁連(きれん/チーリェン)山脈が、北にゴビ砂漠があり、その間に東西に900キロ近い細い通路があり、随所にオアシスが点在しているため、古くから東西交易の通路として重要な役割を果たしてきました。また、この地域には、チベット系の民族、テュルク系・モンゴル系の民族や漢民族などが侵入し、支配し、国を建てました。この映画で扱われているユルグ人はウイグル系で、10世紀には王国を築いたこともあるそうですが、その後西夏によって滅ぼされました。やがてユルグ族は離散し、今日この地域に居住するユルグ人は1万5千人弱だそうです。 
 河西回廊には、中国が認定した55の少数民族のうち22の少数民族が居住しているそうで、このことはいかに多くの民族がこの地で交錯したのかを示しています。しかし、今日ではユルグ人も含めてこの地域の少数民族の多くは、日常語として中国語を話し、彼らの言葉はすたれつつあるようです。ここに住む人々は放牧を生業として暮らしていましたが、「映画で現代モンゴルを観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/09/blog-post_5.html)で述べたように、この地域でも牧草地の乾燥化かが進み、多くの人が羊を売って都市で暮らすようになりました。かつてラクダで旅をした交易路に鉄道が建設され、都市には近代的な建物や工場が立ち並んでいました。
 映画では、両親のもとを離れて暮らしている兄のバーテルと弟のアディカーが、夏休みに両親に会うために旅に出るところから始まります。両親は、牧草地を求めて遠くへ行き、子だもたちは学校へ通うために残ったのです。二人はラクダに乗り、必要な食物と水を携えて旅にでます。まるで三蔵法師の時代に戻ったようです。途中、廃墟となった遺跡や廃屋が多数あり、洞窟には歴史を描いた美しい壁画が描かれており、また廃屋には文化大革命時代の壁新聞がいっぱい貼られていました。まさに、時空を超えて中国の歴史がよみがえります。兄弟は喧嘩をしながらも、たくましく旅を続けますが、ようやく父に巡り合ったとき、父は河原で砂金を拾う仕事をしていました。そして父が行くはずだった草原には、今や工場が立ち並んでおり、もはや放牧生活などは困難な時代となっていたのでした。
 この映画は、兄弟の旅の物語や放牧生活の衰退といった問題を語るとともに、今も昔も変わらない河西回廊の姿をたっぷりと見せるための映画ではないでしょうか。



2017年11月15日水曜日

お知らせ

 アクセス回数が145千件を超え、投稿数は368回に達し、1年の日数を超えました。例によって、このあたりでしばらく休息したいと思いますが、このブログもそう長くは続けられないように思います。第一、読書感想記のために読む本がなくなりつつあります。あの膨大な本を読みつくす日が来るとは思いもしませんでしたが、遠からず読み終わりそうです。年をとると色々なものが終わっていき、新しいものが始まりません。


我が家の裏庭




























2017年11月11日土曜日

映画で北京の胡同を観て

北京の胡同を舞台とした映画を二本観ました。胡同とは、北京のかつての城壁内にある路地で、13世紀の元朝時代に作られた道が、明・清時代の新たな道路建設を経て、細切れになってあちこちに残ったものだそうで、最盛期には6000箇所以上もあったそうですので、決して珍しいものではありません。この胡同に面して、四合院と呼ばれる建物が建てられていました。四合院とは、中庭を中央に設け、その東西南北に一棟ずつ建物を配置するもので、本来金持ちが住む家でしたが、やがて貧乏な多くの家族が住むようになります。魯迅はかつて、家族や兄弟・親戚を呼んで四合院に住んだことがあり、老舎は多くの家族が雑居する四合院で育ちました。四合院にはトイレや炊事場が一か所しかなくて不便で、また排水施設やゴミの処理も不十分で、かなり不衛生でした。そうしたこともあって、四合院と胡同は少しずつ取り壊されて近代的なビルが建てられ、2001年の北京オリンピック開催の決定をきっかけにこの傾向は一層進展します。今では、四合院と胡同は観光地化し、古い建物を見るために多くの観光客が集まっているとのことです。


胡同のひまわり

2005年に中国で制作された映画で、1976年、1987年、1999年という3つの節目となった年を中心に、北京の胡同(フートン)で暮らすある家族の生活が描かれています。
 チャン家の当主ガンニャンは、画家志望でしたが、文化大革命時代の強制労働で手を痛め、息子のシャンヤンに画家として才能があると信じ、息子に強制的に絵を学ばせます。一方、母のシウチンはいつか胡同を抜け出し、お金を貯めて役人に賄賂をわたし、公営のアパートをもらうことを夢見ていました。1976年文化大革命も終わり、父が6年ぶりに強制労働から戻り、9歳のシャンヤンと再会し、父は自分が失ったものを息子に受け継がせようと、絵をおしえます。シャンヤンは、明らかに画家としての優れた才能を示していましたが、1987年に厳しい父の指導に反発して家出し、結局連れ戻されます。この頃すでに、改革開放政策により町は活気づき、高層ビルも建設されるようになっており、母はアパートを手に入れるのに必死です。1999年、北京には高層ビルが立ち並び、息子も画家として評価されるようになり、母も念願のアパートを手に入れますが、なぜか父は胡同に住み続け、ある時姿を消します。彼は、初めて自由に自分がしたいことをしようと思ったようです。そしてある時、父の手により胡同にヒマワリの花が植えられていました。

 この映画は、文化大革命以来の激動の時代に振り回された人々や、胡同という貧民街が高層ビルの立ち並ぶ街へと変貌していく姿を描いていています。胡同も四合院も、ずいぶん数は減りましたが、まだ現役で使用されており、何百年も続いた貧民窟は今や文化財となりましたが、その姿かがよく描かれていたと思います。

胡同の理髪師

2006年に中国で制作された映画で、タイトルの通り胡同に住む一人の年老いた理髪師の日常生活を描いています。主人公は、当時実在していた92歳の理髪師本人で、主人公以外の出演者も素人が多いそうなので、これはドラマというよりドキュメンタリーに近いものです。
主人公のチン爺さんは、辛亥革命の2年後、1913年に生まれ、11歳ころから理髪師の修行をはじめ、以後81年間理髪師を続けているそうです。その間に中国では、軍閥支配、日中戦争、国境内戦、文化大革命など激動の時代が続きましたが、彼にとって、今となってはそれも昔話でしょう。胡同の小さな部屋に住み、三輪自転車で出張理髪に行き、代金はインフレに関係なく、いつも5(90100)です。楽しみは友人たちと昔話をしながらマージャンをすることです。何の欲もなく、淡々と毎日同じことを繰り返して生きており、それで彼は十分に幸せでした。
 しかしこの間に北京は激しく変わっていました。3年後にオリンピックを控え、近代的なビルが立ち並び、胡同でも立ち退きの要請が来ています。子供たちは立ち退き金が欲しいため、早く立ち退くことを進めますが、彼の望みは胡同の小さな部屋でひっそりと死んでいくことです。ある時ふと思いついて、自分の葬儀用の写真と死に装束を揃え、死んでも誰にも迷惑をかけないように準備を整え、後は死を待つのみです。まるで昆虫のような一生ですが、考えてみれば、人間の一生は大なり小なり、似たようなもののように思います。結局彼は、2014年に101歳で死亡しました。この間、映画で有名になった彼を訪ねる人が多く、かれはちょっとした有名人になっていたようです。

 私も、最近しばしば自分の死について考えます。できれば私も昆虫のように死んでいきたいと思うのですが、これだけ文明にまみれて生きていると、そういう死に方は無理かもしれません。「生」に執着し、のたうち回って死んでいくのかもしれません。このブログは、そうならないように、心の準備をするために書いているのかもしれません。


2017年11月8日水曜日

「世界の神話がわかる」を読んで

「知の探究シリーズ」、吉田敦彦編、日本文芸社、1997
 世界各地の神話とそのルーツを、6人の研究者が分担して執筆しています。もともと私は神話が好きで、今までにも折に触れて神話に関する本を読んできました。人類が直立歩行し、脳が発達すると、人は様々な問題に対す説明を求めるようになります。太陽はなぜ東から昇り西に沈むのか、人はなぜ死に、死後はどうなるのか。これらの疑問について、当時の人々は、当時知りえたあらゆる知識を総動員して神話を生み出していきます。それは、人間が存立する基盤、社会の規範であり、それなしには人間がいきていけないようなものです。こうした神話を読むと、人間の想像力の豊かさに唖然とさせられます。科学が発達した今日から見れば、神話で説かれていることは幼稚で馬鹿々々しいと思われるかもしれませんが、今日われわれが「科学」と呼ぶものも、宇宙全体から、あるいは人間の歴史全体から見たら取るに足らないほど僅かな知識から全体像を推測しているにすぎません。もしかしたら、何百年か後の人々は、われわれの「科学」を幼稚で馬鹿々々しいものと思うかもしれません。
 「神話が世界観の表明であるということは、哲学の準備であり、また自然界の事物や現象の説明であることは、科学の萌芽でもある。世界観や事象に対する認識を部族の仲間に理解させるためには、言葉と行為による表現が必要であり、自ずとそこには物語が発生する。だから、神話はまた文学の最初の形式でもある。人類の起源を語り、自然界の起源を説明し、守るべき制度や習俗の由来を説明することは、神聖な存在の力が作用して生じてきた部族の物語であって、最初の歴史の形成でもある。また、人類や自然界を超えた彼方に、超越的な力を認識し、その力への服従であることからいえば、原始的な宗教の萌芽である」

 ところで、世界の神話には多くの類似性が見られます。例えばギリシア神話と日本の「古事記」「日本書紀」との類似性が指摘されます。それは偶然なのか、あるいは人間精神が同じような状況に置かれれば、同じような神話を生み出すということか。また、長い年月をかけて伝播したのか。ギリシア神話が生まれてから「古事記」「日本書紀」が編纂されるまで1千年以上の間がありますので、伝播の可能性は十分にあります。もちろん伝播を主張するには、その神話が伝わった経路を証拠をもって実証する必要がありますが、それ自体がワクワクする仕事のように思えます。

2017年11月4日土曜日

映画「戦場に咲く花」を観て

 2000年に日中合作で制作された映画で、終戦間近い1944年秋に満州白頭山(長白山)地区にある南満州鉄道の小さな駅で起きた殺人事件を描いています。なお白頭山は、前に見た「「満州国皇帝の通化落ち」を読んで」の通化の近くです。















 主人公の菊地浩太郎は、1936年のベルリン・オリンピックの競馬での入賞者で、国民的英雄でしたが、戦争で負傷して、この駅で療養していました。彼は中国人に対しては残忍な男ですが、なぜか大量のヒマワリの種を持ち込み、丘一面にヒマワリの花を咲かせていました。一方、駅では四人の中国人が働いていましたが、彼らは菊池を恐れ、菊池の顔色を伺いながら暮らしていました。そしてある時、菊池の遺体が発見され、犯人探索のため憲兵隊が派遣され、色々あって結局四人の中国人は全員死んでしまいます。結局、この映画が言おうとしていることはよく分かりませんが、この映画を理解するためには、革命後の中国映画史を理解する必要があるように思われます。
 私はネット上で「中国の歴史社会教育における日本イメージの形成と変遷について  「抗戦映画」 等文芸作品を中心として」(趙軍 千葉商大紀要 2009) という論文を見つけ、大変興味深く読みました。それによれば、1949年中華人民共和国の建国以降、抗戦映画が盛んに制作され、そこでは日本人は鬼子として扱われ、記号化・ステレオタイプ化が行われました。これは、実際に日本が中国で行ったこと、日本に対する中国人の無知、政府による思想統制、などの理由から当然の結果だと思います。しかし日中の国交が回復した1970年代以降、日本についての知識が増えるとともに、文化大革命への反省もあって、日本人をより複眼的に捉え、事実を直視する傾向が生まれてきたとのことです。

1993年に制作された「さらば我が愛・覇王別妃」は、ある京劇の役者の波乱に富んだ生涯を描いていますが、その中で、四度彼は軍隊のまえで演じています。最初は日本軍の前で、観客が将校たちだったこともあって礼儀正しく演劇を鑑賞し、中国文化を理解していました。二度目と三度目は国民党軍の前で、国民党軍は軍規が乱れており、乱闘騒ぎになってしまいます。そして四度目は解放軍の前で、最後は人民解放軍行進曲の斉唱になってしまいました。結局、一番まともだったのは日本人で、要するにすべての日本人が「鬼子」というわけではない、ということです。この映画は以前に私も観ましたが、非常によくできた映画で、京劇の役者を通して近代中国の歴史をよく描いています。
 そして、2000年に制作された「戦場に咲く花」は、以上のような中国映画史の延長線上にあります。菊池は中国人には無慈悲でしたが、その背景には英雄としての重圧、再び戦場に戻ることの恐怖、故郷で死にかけている妹、妹が好きなヒマワリの花に囲まれて生き、かろうじて心のバランスを維持していたのだと思います。彼は時々優しい顔を見せることがあり、これが彼の本来の姿だったのかもしれません。そして彼は、どうやら殺されたのではなく、自殺したようです。ここでは彼は、もはや単なるステレオ・タイプの記号ではなく、心をもっていました。また日本人に仕える中国人たちも、従来の映画では裏切り者でしたが、彼らにも彼らの思いがあり、結局四人とも死んでしまい、死によって祖国への忠誠を果たします。最後に、犯人逮捕のために来た憲兵は、菊池の自殺を疑っていましたが、英雄が自殺したということは許されませんので、四人の中国人の中から犯人を探し出す(あるいはでっちあげる)必要がありました。そして結局四人全員が死に、憲兵は良心の呵責を感じつつ、任地に去っていきます。彼もまた、単なる記号ではありませんでした。

 この頃から日中関係は「脱戦後」の時代に入り始め、高倉健主演の「単騎、千里を走る」のように、雲南の人々と日本人の訪問者との心の交流を描いた映画なども制作されます。「戦場に咲く花」も、中国映画史の流れの中で観れば、価値ある作品の一つと言えるのではないでしょうか。


















2017年11月1日水曜日

北京の父 老舎

舒乙(シュウ イー)著 1986年 中島晋訳 作品社(1988)
 魯迅とともに中国近代文学の開拓者の一人とされる老舎の伝記で、本書の著者は老舎の子息です。老舎は、1899年に北京の胡同に住む下級軍人の末っ子として生まれ、翌年父が義和団事件で戦死したため、5人の子供多たちを育てました。赤貧洗うがごとき生活でしたが、慈善家の好意で教育を受け、19歳で小学校の校長となりました。この頃魯迅は北京に滞在しており、軍閥政府の下で官僚として古典の研究や教育改革に没頭していましたので、二人はどこかで合ったことがあるかもしれません。
 1936年に「駱駝祥子(らくだのしゃんづ)」を発表し、以後作家活動に専念します。翌1937年に盧溝橋事件が起きて日中戦争が本格化すると、抗日的な小説を多く書くようになり、中華人民共和国の成立後も彼は政府からも人々からも尊敬されましたが、文化大革命が起きると紅衛兵によって暴行され、1966年に自殺します。文化大革命は、文化人にとっては辛い時代でした。1978年に名誉が回復され、1986年に彼の子息によって伝記が執筆された分けです。

 本書は、父に対する筆者の哀愁に溢れています。生まれ故郷である北京への愛情、抗日戦争時代の放浪生活、そして文化大革命による絶望などです。ただ、内容的には著者の個人的な思い入れが強く、そのまま受け入れてよいのかどうか分かりませんが、老舎についての客観的な研究はまだ少ないようですので、本書は老舎について知るための貴重な資料ではないかと思います。なお、老舎の代表作「駱駝祥子」については、私はずいぶん前に読みました。内容についてはあまり覚えていませんが、どんなに努力しても没落していく一庶民の生活を描いており、当時の中国の闇の深さを感じました。

2017年10月28日土曜日

映画「冬のライオン」を観て

1966年にブロードウェイで上演された演劇作品で、それが1968年にイギリスで映画化されました。内容は、イギリスのプランタジネット朝の創始者へんり2世を中心に、1183年のクリスマスに、シノン城を舞台とした夫婦、親子、兄弟の愛憎を描いており、「冬のライオン」とは、後継者問題に悩むヘンリ2世のことを指します。そして、この物語の背景は本当に複雑です。

 前に、「映画「ヴァキング・サーガ」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/10/blog-post_21.html)で述べたように、イングランドは長くノルマン人の侵入に苦しめられ、結局11世紀に北フランスのノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服してノルマン朝が成立します。しかしそのノルマン朝も12世紀には王位継承を巡って混乱しますが、そうした中でノルマンディー公とアンジュー家の血を引くアンリがヘンリ2世としてイングランド国王に即位し、ここにプランタジネット朝(アンジュー朝)が成立します。そしてアンジュー朝をヨーロッパの大勢力に発展させたのが、ヘンリ2世とアキテーヌ女公アリエノール(エレノア)との結婚でした。

 アリエノールは、相当したたかな女性でした。彼女は、豊かなアキテーヌ地方を中心とする広大な領地の女相続人で、15歳の時父が急逝すると、フランス国王ルイ7世と結婚させられます。1147年に彼女は夫ともに第2回十字軍に参戦しますが、途中で仲違いし、帰国後1152年に近親相姦を理由に離婚します。そして2か月後に11歳年下のアンジュー公アンリと結婚し、アンリがイギリス国王になると、今やフランス国土の3分の2とイングランドを支配するアンジュー帝国が成立することになります。アリエノールは、見事に前夫ルイ7世にしっぺ返しをしたわけです。もっとも、離婚の理由となった近親相姦という点では、アンリの方が血縁的に近かったとのことです。
 ヘンリ2世は有能でバイタリティー溢れる君主で、イングランドやフランスの領地の安定に努めますが、家族には恵まれませんでした。彼には、若ヘンリ、リチャード、ジェフリー、ジョンの4人の息子がいましたが、彼らのうち、一人として父を裏切らない者はいませんでした。1173年若ヘンリは母アリエノールやリチャード、ジェフリーと組んで父に対して反乱を起こします。結局、翌年和解が成立しますが、しかし、ヘンリ2世はアリエノールだけは許さず、以後十数年間反逆の罪でイングランドでの監禁生活を強いることになります。

 ところが、1183年に若ヘンリが病死したため、ヘンリ2世はこの年のクリスマスに、シノン城にアリエノールや三人の息子、新しいフランス王フィリップ2世を呼んで談合します。これが、この映画の舞台です。領域国家という概念が存在しない時代に、王は一身に多くの地位を集め、また家臣たちの個人的な忠誠によって自らの地位を保持していかねばなりません。領地を子供たちに分散させることは自らの国家を分散させることになります。特にアンジュー家はフランス領内に国王よりはるかに多くの領地をもち、その領地の所有者は形式上フランス国王の家臣ということになります。映画では、親子、兄弟、夫婦、愛人などの虚々実々の駆け引きが行われ、結局物別れに終わり、息子たちはそれぞれの領地に帰り、アリエノールは再び監禁されて、映画は終わります。
 その後次男のジョフェリーは1186馬上槍試合での怪我がもとで死亡、1189年ヘンリ2世はリチャードとの戦いの途中で死亡、国王となったリチャードも1199年フランスで戦死します。結局、末っ子のジョンが国王となり、フランスのフィリップ2世と領地を巡って戦い、フランスにおけるアンジュー家の領土をほとんど失います。ジョンはあまり評判のよい君主ではありませんでしたが、結果的には彼の時代に、フランスに支配されないイギリスという政治単位が形成されることになります。一方、リチャードを寵愛したアリエノールは、リチャード即位後摂政となって実権をにぎりますが、リチャード死後隠遁して82歳まで生きます。教養があり、意志の強い女性だったようです。なお、ジョン王については、「映画「ロビン・フッド」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/01/blog-post_21.html)参照して下さい。

 ところで、この映画が制作される2年前に、「ベケット」という映画が制作されました。ヘンリ2世とカンタベリー大司教ベケットとの友情と対立と悲劇的結末を描いた映画で、実はヘンリ2世とアリエノールを演じた俳優が、そのまま「ヘンリ2世」で登場します。カンタベリー大司教ベケットとヘンリ2世との物語は大変有名であり、その後のイギリスの宗教史にも影響を与えますので、是非この映画を観たかったですが、残念ながら手に入れることができませんでした。











2017年10月25日水曜日

魯迅を読んで



 魯迅に関する本を三冊読みました。魯迅については日本でも大変よく知られています。日本に留学し、仙台医科大学で学んだこと、白話文学を実践し、「狂人日記」「阿Q正伝」を著し、中国の伝統思想である儒学を痛烈に批判したことなどです。

今村与志雄著 1990年 第三文明者
本書は簡単な伝記と、いくつかの評論からなっています。「狂人日記」「阿Q正伝」については、私もはるか昔に読んだことがあり、前者については白話文学としては十分こなされておらず、後者は小説芸術としてはそれほど高いものではないそうです。それにもかかわらず、「阿Q正伝」が中国古典文学となった所以は、人間の醜悪の権化というべきタイプを創造した作者の悲劇精神が作品を通じて読者に感銘を与えるからだそうです。

 なお、魯迅は日本に7年滞在しており、日本語も堪能ですが、日本文学にはあまり関心がなかったようです。ただ、夏目漱石の作品には熱中し、新刊が出版されると必ず買ってんでいたようです。夏目の文学が魯迅にどの程度の影響を与えたのかについてはよく分かりませんが、確かに夏目の「嘲笑風刺の軽妙な筆致」は、魯迅の文章と似ているような気はします。


竹中憲一著 1985年 不二出版
 魯迅は、1909年に帰国し、1911年に辛亥革命が起きると、彼は新政府の教育部の事務官となり、北京に移り住みます。その後軍閥政府が成立するようになると、多くの革命家は政府から去っていきますが、魯迅はそのまま軍閥政府の官僚として残り、隠遁生活者のように文献研究に励みます。そしてこの時期が、魯迅にとって最も多作な時代でした。しかし国民党による弾圧が強まると、1927年魯迅は上海に移ります。その後彼は評論活動に励み、国民党政府によって彼の著作はしばしば発禁処分とされますが、上海では優雅な生活を送り、1936年に喘息の発作で死亡します。

 本書は、おそらく魯迅の人生で最も実り豊かだった北京での生活を丹念に描き出し、それなりに興味深い内容でした。



















2017年10月21日土曜日

映画「ヴァイキング・サーガ」を観て


2013年にイギリスで制作された映画で、8世紀末のイングランド王国形成期の暗黒の時代を描いています。DVDジャケットの下品な絵も、「ヴァイキング・サーガ」という邦題も、この映画の内容とは何の関係もありません。原題は「暗黒の時代」です。










イングランドには、古くからケルト人が住んでいましたが、紀元前後からローマ帝国の支配下に入り、5世紀ころアングロサクソン人が侵入し、七王国を建てます。この時代については、「映画で西欧中世を観て(1) キング・アーサー」 (http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/06/1.html)を参照して下さい。そして映画の舞台となったのは、七王国の一つノーサンブリア王国です。













ところで、イングランドにおけるキリスト教の普及の仕方には特異なものがあります。ローマ帝国の支配時代にキリスト教はイングランドでもある程度普及しますが、ローマ軍が撤退したのち、キリスト教も衰退してしまいます。ところが、ローマ帝国の支配を受けなかったアイルランドでは、キリスト教がケルト文化と結びついて独自の発展をし、イングランドでキリスト教が衰退した後には、アイルランドの修道士たちがイングランドにキリスト教を布教するようになります。そして、イングランドにおけるキリスト教布教の拠点となったのがノーサンブリア王国で、その北東岸に位置するリンディスファーン島(ホーリー島)に建設されたリンディスファーン修道院が中心となります。なお、リンディスファーン島は、潮が満ちると島となり、干潮になると土手道で本土とつながるようになっており、修道院は今日では廃墟となっていますが、今日でも観光客が集まっています。そしてこの映画の冒頭で、この島が映し出されます。



ノーサンブリアでは、ケルト文化やアングロ・サクソン文化などが融合したキリスト教文化が開花します。特に、挿絵や装飾がふんだんに施された手書きの福音書が多く作成され、その中でも有名なものはリンディスファーンの福音書です。この福音書は、当時すでに伝説となっており、この福音書を手に入れれば幸福を得られると信じられており、映画は、この福音書を守ろうとする修道士と、それを奪おうとするノルマン人との物語です。なお、この福音書は、宝石を散りばめた表紙は失われましたが、それ以外は非常に良い状態で1300年の歳月を超えて保存されており、大英図書館が所蔵しているとのことです。またウイキペディアによれば、この福音書の完全復刻版が丸善で220万円ほどで購入できるそうです。
 前置きが長くなってしまいましたが、この映画を理解するためには、この程度の予備知識が必要で、私も相当勉強しました。当時のイングランドは、七王国の内部対立、七王国間の対立、飢饉、ノルマン人(ノース人・ヴァイキング)による略奪で苦しんでいました。映画では、まず9世紀に編纂された「アングロサクソン年代記」が読み上げられます。時は793年、「ノーサンブリア王国で大飢饉と異教徒による修道院襲撃が起きた。異教徒たちは聖人の亡骸を犬の糞のように踏みつけた。」「修道士たちは辱めを受け裸で追放された。溺死させられた者もいた。」
 主人公のヘリワードは捨て子としてリンディスファーン修道院で育てられ、今や修道士たちがノース人に殺されていく中で、福音書を守るために先輩修道士と逃亡します。ノース人は故郷に帰っても貧しく、イングランドに定住して安定した生活を築きたいと考えていました。彼らにとって福音書の意味は分かりませんでしたが、イングランドで非常に尊重されているリンディスファーンの福音書を手に入れれば、イングランド支配を正統化できると考えていました。
 一方、ウェセックス王国のエゼルウルフという人物が、ヘリワードたちを護衛します。当時のエセックス王はエグバートで、彼は802年に七王国を統一してイングランド王国を樹立し、エゼルウルフはエグバートの息子で、イングランド王国の第二代国王となる人物です。イングランドの統一を目指す彼らにとってもまた、この福音書は重要な意味をもっていたのです。旅の途中各地の惨状を目の当たりにし、またケルトの宗教を信じる女性にも会いました。当時はまだケルトの宗教を信じる人々(キリスト教から見れば異教徒)がたくさんいたのです。いろいろな人との出会いがあり、当時の暗黒の社会が描き出され、苦労した末に福音書を安全な場所に届けます。その過程で、彼はただの本でしかない福音書を命かげで守ることに疑いをもつようになり、やがて修道士であることを止め、剣をとって侵入者と戦うようになります。そして映画は、「罪なき者の私の人生は、あの夜終わった」というヘリワードの言葉で終わります。
この事件については、おそらくイギリス人なら誰でも知っている事件だと思われますが、日本ではあまり知られておらず、理解するのが厄介な内容です。ただ、映画では様々な民族や宗教が葛藤し合いながら、イングランドが形成されていく状況が描かれており、私には大変参考になる映画でした。


2017年10月18日水曜日

「ザ・グレート・ゲーム」を読んで

ピーター・ホップカーク著 1990年、京谷公雄訳、中央公論社、1992
本書は、内陸アジア、特にアフガニスタンを巡るイギリスとロシアの諜報活動を描いたもので、この壮大な諜報活動は、いつしかチェス・ゲームになぞらえて、「ザ・グレート・ゲーム」と呼ばれるようになりました。










19世紀初頭、ナポレオンがロシアと結んで陸路でインドを攻撃するという壮大な計画をたてました。この計画は実現されませんでしたが、ナポレオンが倒れた後、その後に巨大なロシア帝国が出現し、インドを大英帝国繁栄の基盤とするイギリスにとって、大きな脅威となります。ところが、イギリスは内陸アジアの地図さえろくに知らない状態でしたので、イギリスは多くの軍人をこの地方に派遣し、地理・地形・住民など多岐にわたって調査させます。ロシアは、古くから中央アジアと関わっていますので、比較的この地域の情勢に明るいのですが、イギリスの関心はインドにあり、内陸アジアについてはまったく無知でした。内陸アジアについては、このブログの「映画「ダイダロス 希望の大地」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/09/blog-post_30.html)を参照して下さい。
 本書で述べられているのは、個々の戦争よりも、こうした諜報活動で活躍した多くの人々です。彼らは時には商人に化け、時には巡礼者に化けて諜報活動を続けます。彼らの行動は、ヨーロッパや極東で起きたことと常に連動しており、その意味では巨大なチェス・ゲームのようです。本書に登場する人々は、おそらくイギリスではよく知られた英雄なのでしょうが、私はほとんど知らない人々でした。彼らは、グローバル・ヒストリーの観点から見れば、帝国主義の先兵だったかもしれませんが、同時に彼らは探検家として、この地域についての多くの情報を世界に伝えました。
 本書は、内陸アジアの西トルキスタンを中心に述べられていますが、原書では東トルキスタン、つまり現在の新疆ウィグル自治区についても述べられており、両者を合わせるとあまりに膨大なるため、訳書では割愛されたとのことです。この地区では、ヘディンによる楼蘭の発掘やスタインによる敦煌文書の発見などが行われますが、こうした探検も一連の諜報活動の過程で行われたものと思われます。
 グレート・ゲームは、広い意味では現在まで続いているといえるかもしれませんが、本書では1907年の英露協商をもって終わります。これによってイギリスはアフガニスタンでの優位を確立したわけで、これを可能にした分けは、日露戦争におけるロシアの敗北でした。今や極東の日本も、グレート・ゲームに深く関わっていたわけです。
 本書は、知らない固有名詞が多いので、少し読みにくいかもしれませんが、日本ではあまり知られていない内陸アジアで繰り広げられた雄大なゲームを楽しむことができます。 なお、本書の定価は2300円ですが、アマゾンの古書コーナーでは1万円以上で販売されています。