2017年1月28日土曜日

映画「仮面の真実」を観て

2003年のイギリス/スペイン合作で、中世イングランドを舞台にしたミステリ映画です。時代は14世紀の終わり頃ですから、人々はペストの流行と百年戦争で疲弊し、教会が腐敗して信仰心も失われていった時代です。なお、この映画の原題は「報い」です。
舞台となった場所は特定できませんが、イングランド内陸部の小さな町です。ヨーロッパでは、11世紀頃から各地に都市が生まれ始めますが、その多くは人口500人程度の町で、一般的には領主の城壁の周囲に家を建てて町になったというケースが多いようです。映画に登場する町もこうした町で、狭い場所に小さな家が建てられ、小さな広場では見世物や処刑も行われていました。
映画では、修道僧ニコラスが、己の欲望に勝てずに人妻との姦通罪を犯し、逃亡しているところから始まります。そして旅芸人の一座に潜りこんで、小さな町にやってきます。旅芸人とは、日本でもそうですが、最下層のアウトローの世界に生きる人々です。しかし、娯楽の少ない時代にあっては、結構人々に喜ばれていました。彼らが町に着いた時、町では一人の女性が少年を殺害した罪で裁かれており、彼女に絞首刑が宣告されました。
彼女は聾唖者で、町の外れに住み、薬草などで病気を治す治療師だったり、霊媒師のような役割を果たしたりしていました。当時よく、町や村の外れにこうした女性(老婆が多い)が住んでおり、人々の役に立っていたのですが、こうした女性は共同体に属しておらず、人々からは奇異の目で見られていました。したがって、少年殺害のような異常な事件が発生すると、こうした女性が疑われることがしばしばあり、後には魔女として迫害されるようになります。そしてここから事件が始まります。
ところで。当時の旅芸人は宗教劇を演じることが多かったのですが、人々の信仰が揺らいできたこともあって、宗教劇はあまり人気がありませんでした。そこで座長は、少年の殺害事件をテーマにした創作劇をやろうと言い出しました。そのために事件を調べていくうちに、彼女が無実ではないかと考えるようになります。やがて、領主が男色で、その欲望ために少年を殺したこと、実は過去に何人もの少年が殺されていること、さらに教会がその事実を知りつつ隠蔽していたこと、そして実はダニエルも人を殺していたこと、が判明します。そして、領主が犯した少年がペストに感染していたことが判明し、したがって領主もペストに感染している可能性があります。怒った領主はダニエルを殺しますが、最後に領主に対して反乱を起こした民衆が城に火をつけ、領主は自らの罪の「報い」を受けることになります。

映画では、しばしば、前に観た「薔薇の名前」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/09/blog-post_19.html)で見られたような宗教論争が行われますが、その論争を通じて信仰心がかなり希薄になっている様を観ることができます。映画の内容はそれ程深いものではありませんが、中世末期の小さな町の風景を観ることができました。


2017年1月25日水曜日

「中国科学の流れ」を読んで

J.ニーダム 1981年、牛山輝代訳 思索社、1984
本書は、中国の科学の歴史を、「火薬と火器」「長生法」「鍼灸療法」などを中心に概略しています。実はニーダムは、1954年以来、「中国の科学と文明」という膨大な作品を執筆・編纂中で、本書の「はじめに」で「わたしはいま81歳なので、もし90歳まで仕事を続けることができれば、長い航海の末、船が港に入りかけるところぐらいまでは、ひょっとしたらみられるかもしれない」と述べています。そしてニーダムは、1995年に95歳で亡くなり、その時点で16冊が出版され、今なお出版中だそうで、そのすべてが日本語に翻訳されているそうです。
この大作は、中国に対する西洋の知識人の認識を一変させるほどの衝撃を与えました。もともとニーダムはイギリスの生化学者でしたので、ヨーロッパの科学に精通しており、ヨーロッパの科学と中国の科学の相違と共通点、そして中国の科学が西方の科学に影響を与えたことについて論じます。この点については、中国科学を過大評価し過ぎているとか、中国科学の西方への影響を過大評価している、といった批判があり、その点について私には判断できませんが、もしそうだとするなら、それはニーダムがいかに中国科学にほれ込んでいたこということだと思います。ただ、科学はヨーロッパでのみ生まれたという根強い偏見が、ニーダムの主張への批判につながったことも事実でしょう。いずれにしても、「中国の科学と文明」は20世紀を代表する著作の一つであろうと思います。
もちろん、このような大作を私自身が読むことは不可能ですが、この「中国科学の流れ」は、香港で行った講演に基づくもので、比較的分かりやすく中国の科学史を述べています。とはいっても、具体的な説明に入ると、容易には理解できず、読み飛ばさざるをえませんでした。それでも、全体の特徴を説明する部分は、大変示唆的でした。例えば、西方と中学の化学の違いは、西方の化学が錬金術を出発点にしているのに対し、中国の化学は不老長寿を目指しているという点などです。

大変興味深かったのは鍼灸についてで、中国の医療について本書は次のように述べています。「病気とは、本質的には機能不全あるいは不均衡のことでした。体内の構成要素のどれか一つが、不自然に多の要素に優先するのです。近代的内分泌学が始まってから、この考え方はまた寿命を延ばしましたけれども、この概念は両方の文明にはじめからあったのです。荒削りかもしれませんが、ヨーロッパの瀉血と下剤の使用は、この直接の成果です。なぜならば、それは「病原性体液」は追い出さなければならない、という考え方だったからです。しかし中国では、陰と陽の不完全な均衡とか五行の異常な関係は、よくある診断例でしたが、ずっと深遠なやり方で変えていったのです。鍼療法はここでもまたいわば控訴裁判所でした。そこでの調停の多くは、神経とホルモンをもった生きている人間の身体を、もっとつり合いのいい、安定した状態に戻したのは間違いありません。もっとも、中世の医者たちが、二大要素の相互関係をどうやって具体化したかは、いまだに私たちにも理解し難いのです。」


2017年1月21日土曜日

映画「ロビン・フッド」を観て

2010年のアメリカ・イギリス合作映画です。ロビン・フッドについては、過去に何度も映画化されており、日本でも大変よく知られていますが、一応ロビン・フッドの物語の概略を述べておきます。時代は13世紀初めのジョン王の時代、場所はイングランド中央部のノッティンガム、その近郊のシャーウッドの森に、ロビン・フッドという盗賊(義賊・アウトロー)が、ジョン王の暴政に反発して、民衆を苦しめる代官を懲らしめる、という話です。世界中どこでも、民衆は悪を懲らしめる義賊には、拍手喝さいを送るようです。
ただ、ロビン・フッドについては、後に吟遊詩人に語られているのみであり、その実在を証明する証拠は何も見つかっていないそうです。したがって、ロビン・フッドの物語は、アーサー王伝説程ではないにしても、色々バージョンがあり、ロビン・フッドは農民だったとか、実は貴族だったとか、恋人のマリアンは羊飼いだったとか、実は貴族の娘だったとか、です。なお、上で述べたロビン・フッド物語の概略は、19世紀に生まれたもののようです。
 次に、ロビン・フッドが登場する時代背景に触れておきたいと思います。12世紀半ばに、フランスの大貴族アンジュー家のヘンリ(アンリ)が、イングランド国王となり、プランタジネット朝が成立します。このこと自体は、当時としては特に珍しいことではなく、封建制度の下にあっては、一人の人物があちこちの封建領主であり、さらにイングランドの王冠も手に入れたということであり、極論すれば、後継者なしに国王が死ねばたちまちばらばらになってしまいます。第一、プランタジネット朝の前の王朝であるノルマン朝は、北フランスのノルマンディーを領有する貴族でした。したがってイングランドの国王は、11世紀から14世紀までフランスの貴族が務めていたことになります。このことは、イングランド国王が形式上フランス国王の封建家臣となるという、ややこしい問題を引き起こし、また国王はフランスに滞在することが多く、宮廷でフランス貴族が幅をきかせて在来貴族が不満をもつ、といった問題はありますが、フランスの高い文明がイギリスに伝えられ、イギリス文化の形成に大きな役割を果たすことにもなります。
 さて、ヘンリ2世は、不在がちではありましたが、よくイングランドを統治し、その後のイングランドの政治制度の原型を形成したとされます。しかし、彼は家族には恵まれませんでした。彼には4人の息子がいましたが、ことごとく父に反抗し、妻までも息子の側について反抗し、1189年に失意のうちに死亡します。後を継いだリチャード1世は、在位10年の間でイギリスにいたのは6カ月だけで、後は十字軍遠征など戦いの連続でした。彼はイギリスで金をかき集め、1190年に十字軍遠征に出発します。彼は獅子心王と呼ばれる程勇猛で、聖地でも活躍しますが、一方で3000人近いイスラーム教徒を虐殺するという残虐行為を行っています。結局彼はイェルサレム陥落には失敗し、1292年に帰途につきます。しかし、オーストリアを通過中に、かつて彼が侮辱したオーストリア公に捕虜にされ、巨額の身代金を払って一時帰国しますが、すぐにフランスに渡ってフランス王と戦い、1199年に戦死します。
 こんなリチャード1世でしたが、彼はイングランドでは名君として賞賛されました。それは多分、彼がほとんどイングランドにおらず、何もしなかったからであり、さらに弟のジョンとの比較で名君とされたのだろうと思います。ジョンは、兄が留守だったため、事実上君主としてイングランドを統治しており、すでにその頃からジョンの悪政は評判が悪く、人々の間ではリチャードが帰国すればすべてよくなるという待望がありました。しかし、リチャードは一旦帰国しますが、フランス王との戦争のためすぐにフランスに渡り、今度は二度と帰国しませんでした。そして、このジョンの悪政の時代に、ロビン・フッドが登場するわけです。
 ジョンが本当に暴君だったかどうかは、私には分かりませんが、一般に言われる悪評については、多少割り引いて考える必要があるように思います。まず重税については、兄の十字軍遠征の費用と身代金の支払いの必要によるもので、責任はリチャードの側にあります。また彼はローマ教皇に破門されますが、これは父ヘンリ2世から受け継いだ係争であり、大陸領土のほとんどを失いますが、これも兄リチャードから受け継いだものです。結局彼の悪政は貴族の反発を招き、イギリス憲政師史上、画期的とされるマグナ・カルタを承認することになり、大陸領土をほとんど失ったことは、イングランドが一つのまとまりのある国となる道を開きました。ただし、それはジョンが望んだことではなかったかもしれませんが。
 映画では、ロビン・フッドはリチャードの十字軍に従軍していましたが、リチャードが死ぬと軍隊を脱走してイングランドに帰り、やがて彼が義賊になっていく過程が語られます。話が複雑なので、要点だけを述べます。まず彼の父は、イギリス憲政の出発点となるマグナカルタを書いた人物で、彼もその実現に努力します。次に、フランス国王軍が攻めてくるという情報を得て、ジョンとともに戦いますが、結局彼はジョンに裏切られて義賊となります。また、今回のマリアンはノッティンガムの領主の義理の娘という設定になっています。
 全体にこじ付けが多く、特にマグナ・カルタとの関係には無理があるように思われますが、単なる英雄伝説として観れば、それなりに楽しく観ることのできる映画でした。


2017年1月18日水曜日

「纏足物語」を読んで

 岡本隆三著 1986年 東方書店
纏足(てんそく)とは、女性が幼児の時から足を緊縛して成長を止め、成長しても足の大きさを幼児の時のままにしておく風習で、足の親指以外の指を足底に折り曲げてしまうもので、まさに人体改造です。成長してからも纏足を維持するためには、常に縛っておかなければならないため、相当の苦痛を伴うようです。纏足が普及し始めたのは10世紀頃とされ、清朝が滅びる辛亥革命以後まで続いたそうですので、実に纏足は千年に亘って続けられたことになります。
本書によれば、この世にも奇怪な風習が広がった理由の一つは、朱子学が女性の貞操観念を強調したこと、そしてそれは異民族進出の際に、特に強調されたのだそうです。その結果、女性が外を出歩かないように、歩きにくい纏足が推奨されたということです。さらに、文化の問題があります。裸の女性は、欧米人なら恥部を隠し、アラブの女性は顔を隠し、中国の女性は足を隠し、サモアの女性はヘソを隠すそうです。羞恥心の問題は文化の問題であり、また女性がどの部分に羞恥心をもつかは、男性がどの部分に関心をもつかということでもあります。しかし、中国の男性が、何故女性の足に魅力を感じるのか、理由が分かりません。
本書は、このことを説明するために、中国における数千年に及ぶ男女関係の歴史を縷々と説いており、それ自体大変面白い内容でしたが、それでも纏足が行われる理由としては、納得できませんでした。纏足が一時的な流行なら理解できますが、千年も続いたとなると、容易には理解できません。もっとも、欧米人に流行したハイヒールも纏足と似たような側面があり、ハイヒールも纏足も血流を悪くするため健康上問題がありますが、それが分かっていても続けるのですから、男女の心の機微は理屈では理解できないのかもしれません。



馮驥才(ふうきさい)著、納村公子訳、亜紀書房、1988
 実は、私はこの本を読んでいません。歴史書に関しては、知っている部分を飛ばして読むことができるのですが、小説はそういう分けにはいかず、最近は小説を読む気力がありません。読んでもいないのに「読書感想記」を書くのもどうかと思いますが、内容が面白そうなので、少しだけ紹介したいと思います。まず、タイトルの「三寸金蓮」ですが、足の小さい美女が金の蓮の上を歩いたという故事に因むもので、纏足をすると足が3寸、つまり足が10センチ程度になるということで、したがって「三寸金蓮」とは纏足という意味です。
 清朝は満州人が支配する王朝であるため、当初は纏足が禁止されたのですが、やがて満州人の女性も皆纏足するようになります。しかし清末から民国初期の混乱時代に、纏足を止めたり復活させたり、行きつ戻りつが繰り返されます。つまり人々は、纏足という呪縛から容易に解放されませんでした。それは文化大革命時代に、情勢の変化で右往左往する人々に似ています。

「民族が、直面する問題を解決するときには、勇気とともに冷静さが必要です。覚めた目で現実を見、勇気と冷静さをもって自分自身に立ち向かう。冷静さを欠く自己反省では、真実自分を知ることはできませんし、真実の向上はりません。これが私がこの作品を書いた根本的姿勢です」、と著者自身が述べています。



2017年1月14日土曜日

映画「虐殺の女王」を観て

 1964年にイギリスで制作された映画で、1世紀半ばのローマ帝国支配下の属州ブリタニアでの反乱を描いています。日本語版の「虐殺の女王」というタイトルはひどすぎますが、英語版のタイトル「The Viking Queen」というのも、よく分かりません。歴史上、ヴァイキングが登場するのは9世紀頃であり、この時代にはヴァイキングは存在しません。この映画の物語は、まったくの創作か、あるいはヴァイキング時代に生み出された伝説なのかもしれません。
 紀元前1世紀半ばに、カエサルがブリテン島に進出し、それから100年ほどたった1世紀半ばにローマ帝国の属州ブリタニアが形成されます。この時代のイギリスでは、ケルト人の社会が形成されており、彼らは部族単位で各地に居住し、まだ国家を形成してはいませんでした。この頃のブリタニアのケルト社会についてはよく分かっていないようですが、ケルト人特有のドルイドと呼ばれる祭司階級が大きな力をもっており、映画でもドルイドがローマ支配に反発し、人々を扇動していました。ローマ支配時代のブリタニアは総じて平和でしたが、それでもしばしば各地で反乱が起きていました。映画は、そうした反乱の一つを描いています。
 映画は、ある部族の女王とローマの総督が恋をし、部族とローマとの和平を誓い合いますが、部族の中ではドルイドを中心にローマ支配に反発する勢力があり、ローマ軍の中にも強圧的な支配を望む者もいました。こうしたことを背景に、色々あって、結局女王はローマ軍と戦って死んでいく、という話です。ありきたりのパターンで、大して面白くもない映画でしたが、ローマ支配時代のブリタニアの情勢について、多少のイメージをもつことができました。

 この映画での出来事が事実であったのか、あるいは伝承として伝えられているのかについて、私は何も知りません。ただ、こうした反乱は、各地でしばしば起こっており、こうした事件が伝承として人々の間に残され、やがてそこからアーサー王の伝承が生れてくるのだと思います。アーサー王については、このブログの「映画で西欧中世を観て キング・アーサー」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/06/1.html)を参照して下さい。

2017年1月11日水曜日

「北方から来た交易民」を読んで

佐々木史郎著 1996年 NHKBOOKS

 本書は、アムール川下流域のサンタン人と樺太・蝦夷のアイヌとの交易を扱ったものです。この交易の背後には、中国と日本があり、この地域が一つの交易圏を形成していました。以前に、日本史の側から、部分的ではありますが、サンタン貿易について読んだことがあり、奥州の南部の鉄釜が、この地方で広く重宝されているということを読んだことがあります。南部の鉄釜は品質が良く、中国産の鉄釜の5倍ほどの価格で取引されていたそ
うです。











 本書は、こうした交易圏についても詳しく述べられていますが、それよりもサンタン人そのものについて、相当詳しく述べています。サンタン人の居住する地域では農耕は困難ですので、まず漁業、さらに狩猟が生業となりますが、同時に毛皮を販売する商人でもあり、中国からは穀物や絹を輸入し、絹は日本にも販売されました。毛皮の中でもクロテンが大変珍重されましたが、クロテンは小さく、採れる毛皮も肉も少なく、さらに毛皮に傷をつけないように捕まえる必要があったため、猟師はあまり好みませんでしたが、商品用としては貴重でした。
 サンタン貿易は、そうとう古くから行われていたようですが、本書では交易が最も発展した18世紀から19世紀にかけての時代が主に述べられています。この時代は、中国東北地方出身の清が中国を支配し、サンタン人も清の支配を受け入れていたため、貿易が活発になったそうです。しかし、やがて清が衰退し、ロシアが進出すると、この交易も衰退していきます。なお、20世紀の初頭に、ロシアの軍人がこの地方を探検する際に、地元の猟師デルス・ウザーラを案内人としました。この探検の体験談は「デルス・ウザーラ」として出版され、映画化もされました。























2017年1月7日土曜日

映画でペルシア戦争を観て


スパルタ総攻撃

1962年にアメリカで制作された映画で、以前に述べた「300(スリー・ハンドレッド)」と同じテルモピレーの戦いを扱っています。「300」は、スパルタという異常な環境で異常な教育を受けて戦闘マシーンと化した人間を描いており、歴史的には意図的に事実とは異なる描き方がされています。これについては、このブログの「映画で古代ギリシアを観て(2)  300 (スリー・ハンドレッド)http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/05/blog-post.htmlを参照して下さい。
「スパルタ総攻撃」の原題は「300人のスパルタ人」で、ペルシアがスパルタを総攻撃したという意味なら、間違っています。ペルシアがギリシアを総攻撃したのであり、アテネの入り口に当たるテルモピレーでスパルタが待ち伏せしたのです。スパルタが総攻撃したという意味なら、これも間違いです。スパルタ人は300人しかいませんでした。また、あたかも300人だけで戦ったかのような誤解されがちですが、他の都市の兵士を含めて2000人前後はいたと思われます。それにしても、ペルシアとの兵力差は圧倒的です。
この映画では、テルモピレーの戦いに至る経過が述べられています。スパルタには、実権のない二人の王がおり、その一人がレオニダスです。軍隊を出すためには、二人の王と議会の承認が必要でしたが、議会は、祭りの最中に軍を出すことはできないとして反対しましたが、レオニダスは王が自由に動かせる親衛隊300を連れて出陣します。もちろんスパルタにも事情がありました。スパルタは常に奴隷(ヘイロータイ)の反乱という内部不安を抱えており、多くの軍隊を外にだすことは危険だったのです。

この間、アテネの将軍テミストクレスが何度も登場します。アテネとスパルタはいつも争っていましたが、今回はめずらしく手を組みます。はっきりいって、争っている場合ではありませんでした。ギリシアのポリスの中にはペルシアに寝返るポリスも多く、アテネもスパルタも存亡の危機に立たされていたのです。ポリスはいつも争ってはいましたが、ペルシアという異質で巨大な勢力を前にして、彼らにもギリシア人という意識が芽生えていたのです。そして紀元前4808月に、スパルタ軍は3日間にわたってペルシア軍を食い止めて全滅しました。この間に、アテネの住民の多くはアテネから脱出し、アテネはペルシア軍によって占領されますが、テミストクレスに率いられた海軍が、サラミス湾に集結し、テルモピレーの戦いの1カ月後にサラミスの海戦を開始することになります。


300 帝国の進撃
2014年にアメリカで制作された映画で、前に述べた「300(スリー・ハンドレッド)」の続編ですが、サラミスの海戦を題材としたファンタジー・アドベンチャー映画で、歴史的に学ぶものは何もなく、CGによる戦闘場面を見せるだけの映画でした。
映画では、テミストクレスは誠実な将軍として描かれていますが、実際には独裁的で、かつ賄賂をも厭わない策略家だったようです。結局テミストクレスは、ペルシア戦争後、過大な栄誉と権力を求めたため、オストラシズム(陶片追放)によって追放され、ペルシアに亡命しました。当時、ペルシアに亡命すること自体は珍しいことではなく、今日政治的に敗北した人の多くがアメリカに亡命するように、当時も政治的敗者の多くがペルシアに亡命し、ペルシアはこれを受け入れました。ペルシア帝国は、自由を抑圧するアジアの残虐な独裁国家として語られることが多いのですが、実際にはギリシアよりずっと懐の深い国だったのです。