2017年7月29日土曜日

映画「ニーチェの馬」を観て

2011年にハンガリーで製作された映画で、ニーチェとは、19世紀後半に活躍したドイツの哲学者です。ニーチェは、ルター派の裕福な牧師の家に生まれますが、彼は神学ではなく、古典文献学を学び、次いで哲学を学びます。1869年に24歳の時、スイスのバーゼル大学に招かれ、その際プロイセン国籍を捨てたため、生涯無国籍者として生きます。その後、健康上の理由もあって大学を辞し、フリーの哲学者として生きていきます。
私には、ニーチェの思想を語る能力はありません。はるか昔に彼の主著「ツァラトゥストラはかく語りき」を読みましたが、ほとんど理解できませんでした。ただ、彼はヨーロッパの伝統的な価値観を覆し、ヨーロッパの思想に新しい局面を開いたとされます。また、彼はアフォリズム(格言)風の言葉で自らの思想を表現しようとしまた。「神は死んだ」「超人」「永劫回帰」などです。そして1889年にイタリアのトリノの広場で、真偽は不明ですが、鞭うたれている馬に駆け寄って泣き始め、そのまま発狂したそうです。その後ニーチェは静かに余生を過ごし、1900年に死亡します。55歳でした。まさに世紀末にふさわしい思想家だったといえるでしょう。
この映画のテーマは、その後この馬はどうなったか、ということらしく、原題は「トリノの馬」です。映画は、一人の農夫とその娘と一頭の馬の、六日間の物語です。二人は荒れ果てた土地の小さな小屋に住み、何日も強い風が吹き続け、外で仕事をすることもできません。食べ物は茹でたジャガイモだけです。朝、井戸から水を汲み、ジャガイモを茹で、二人で黙々と食べ、馬に水と餌をやり、そして寝るだけです。会話はほとんどありません。そして少しずつ終末に向かっていいきます。三日目になぜか馬が餌を食べなくなり、四日目に井戸の水が涸れてしまい、ジャガイモを生で食べようとしますが、とても食べられません。
 五日目に、二人は身の回りの物を持ち、馬を連れて家を出、丘の上まで行きますが、なぜか戻ってきます。丘の向こうには何があったのでしょうか。こちら側より荒れ果てた土地か、それとも「無」か。いずれにしても、今や親子と馬は滅びていくのみです。その日の夜からランプに火がつかなくなり、六日目にはなすこともなく、沈黙と闇が支配します。聖書では、神は六日で天地を創造し、七日目に休息したということになっていますが、この映画では六日で親子と馬は滅び、七日目はありません。

 この映画を観ていて、途中何度が観るのを止めようかと思いましたが、それでも何となく眼が離せなくて、結局最後まで見てしまいました。狭い空間が宇宙のように思われ、六日間が永遠のように思われました。そして七日目が過ぎたら、また同じ様に第一日目が始まるのかもしれません。


2017年7月26日水曜日

夏の野菜

今年はトマトがよく採れました。プランターにいろいろな種類のトマトを8本植えており、定期的に肥料と土の追加を行っているため、大変よく実りました。スーパーで買うトマトと異なり、実が厚いため、ミニトマトを3個も食べると、お腹がくれます。







パプリカは、形は不揃いですが、スーパーで200円くらいするパプリカが数十個収穫されました。









オクラには、とても美しい花が咲きます。











庭中がサツマイモの蔓で一杯になってきました。今年はシルキースイートと安納芋を植えましたが、収穫にはまだ2カ月かかるでしょう。










2017年7月22日土曜日

映画「老人と海」を観て

1958年にアメリカで製作された映画で、ヘミングウェイの同名の短編小説を映画化したものです。第一世界大戦で多くの人が死に、既成の価値観が破壊された時代の中で、「行き場のない人々」という意味で「失われた世代」と呼ばれる人々が登場してきました。その代表的な人物の一人がヘミングウェイで、1926年に出版された彼の「日はまた昇る」は、第一次世界大戦を題材とするものですが、変わらぬ生活に対するやるせなさを描いたものです。
彼は常に危険に身を晒し、そこから小説の着想を得ていたようです。第一次世界大戦の経験から「武器よさらば」を、スペイン内戦の経験から「誰がために鐘は鳴る」を著し、どちらも映画化されました。1952年に、自らのカリブ海での生活経験をもとに「老人と海」を発表し、これに高い評価が与えられて、1954年にノーベル文学賞を受賞します。しかしこの年、二度の飛行機事故に遭遇し、命はとりとめましたが授賞式には出席できず、その後鬱病となり、1961年に銃で自殺しました。
「老人と海」は、カリブ海でカジキ漁をする老漁師(80歳代)の物語です。少年時代からずっと海で暮らしてきた老人は、海のことをとてもよく知っていました。彼は、小さな船にボロ雑巾のような帆を立てて、毎日カジキを釣るために漁にでます。そして、もう何カ月もカジキを釣ることができません。ようやくカジキが針にかかったのですが、とてつもなく巨大なカジキで、釣り上げるのに4日もかかりました。しかし、カジキが大きすぎで船に乗せられないため、船の側面に縛り付けて運んでいくのですが、カジキの血の匂いを嗅ぎつけて多くのサメが殺到し、港に着いた時には、カジキは頭と骨だけになっていました。
この一連の戦いの過程で、老人は断片的に過去を思い出し、今現在行われていることが、過去と深くつながっていることが示されます。本書はヘミングウェイの最高傑作とされていますが、映画の方は、本書の朗読に終わっていました。もちろん登場人物の少なさと舞台のほとんどの小舟の上というだけの映画ですから、大変映像化しにくい題材ではあると思いますが、それでももう少し映像で語って欲しいと思いました。

この物語は、常に危険の中に身を置いて生きてきたヘミングウェイの生涯そのものだったように思います。


2017年7月19日水曜日

「清朝の王女に生まれて 日中のはざまで」を読んで

愛新覚羅 顕(あいしんかくら けんき、中国名は金 黙玉)著 1986年、中央公論社
 著者は、すでに清も滅びた1918年に、清朝の王族の娘として生まれました。父は粛親王で、彼女は彼の38人いる子女の一番末の娘で、彼女の姉には、男装の麗人と呼ばれた川島芳子(愛新覺羅 顯)がいます。粛親王は、清朝滅亡後、日本の援助で帝政の復活を策していたため日本と深い関係にあり、彼女の家には多くの日本人が出入りしていました。さらに当時の王族は日本に留学したり、日本人と結婚したりする人がたくさんいました。愛新覺羅顯(けんし)も日本人と結婚して川島芳子となりました。そして琦は1934年ころ、16歳ころに日本の女子学習院に留学し、1941年に日中戦争が激しくなってきたため、帰国します。つまり彼女は青春時代の大半を日本で過ごしたわけです。
 1949年に中華人民共和国が成立すると、元王族は肩身の狭い生活を強いられます。しかし彼女は、生来楽天的で、したたかだったようで、親戚の子供を引き取り、北京で食堂を経営して暮らしていました。しかし1958年に右派勢力として密告され、15年間の獄中生活と、7年間の強制労働を課せられます。この間に、文化大革命や日中国交回復、さらに改革開放政策への転換があり、やがて彼女の名誉回復がなされます。解放後、日本の学習院時代の友人の勧めで本書を執筆しました。すべて自身で日本語で執筆しました。晩年は、中国での日本語教育に携わり、2014年に95歳で死亡しました。まさに波乱に富んだ人生でしたが、それはこの時代に生きた多くの中国の人々が経験したことだったでしょう。
 本書では、旅順で暮らした少女時代、姉の川島芳子についての思い出、楽しかった日本での生活、革命後の北京での生活、長い獄中生活などが語られます。北京での生活や獄中生活はつらい生活だったと思われますが、本書には暗さはなく、その場その場を強かに生き抜く一人の女性の姿が描かれており、単に彼女一人の生き様だけではなく、この時代に生きた人々の姿が描き出されており、大変興味深い内容でした。

2017年7月15日土曜日

映画「チャタレイ夫人の恋人」を観て

 この映画は、1995年にイギリスで製作された映画で、D.H.ロレンス原作の同名の小説(1928)を映画化したものです。ロレンスが生まれ育ったのはイングランド中部の貧しい炭鉱の町で、彼の父はその炭鉱の労働者でした。ロレンスは二十歳ころから小学校の教員を務める傍ら小説を書き始め、三十歳代には高名な小説家となっていました。
ロレンスの代表作「チャタレー夫人の恋人」の舞台は、彼の故郷の炭鉱町で、時代は1922年です。1919年に第一次世界大戦が終結しましたが、どの国も甚大な被害を被り、国内では労働運動が頻発していました。チャタレー卿は、第一次世界大戦で負傷して下半身が不随となり、性的にも不能となりました。また彼は、炭鉱が存在する領地を所有しており、労働者に対して無慈悲な経営者でした。そのような夫に対して、チャタレー夫人であるコニーは不満を募らせていきます。一方、チャタレー卿は名門貴族であり、子孫を残す必要がありましたので、コニーに他の男性と子をもうけるよう求めます。
コニーは、夫に献身的に仕えていましたが、自分が子をつくるためだけの存在であること、労働者を人とも思わぬ夫の態度に不満を募らせ、コニーは新しく雇われた森番のメニーズと関係をもつようになります。ここで性欲と愛との関係が問題となりますが、しだいにコニーはメラーズを愛するようになり、夫を疎ましく思うようになります。やがてコニーはメラーズの子を身ごもり、夫に離婚を求めますが受け入れられず、結局彼女は夫のもとを去っていきます。
本書が特に話題となったのは、コニーとの詳細な性描写のためでした。本書は出版された当時からいろいろ迫害されましたが、日本でも猥褻として訴えられ、「チャタレイ事件」として話題となりました。私には「猥褻」とは何かについて論じることはできませんが、この裁判の最高裁の判決を引用しておきます。「わいせつの判断は事実認定の問題ではなく、法解釈の問題である。したがって、「この著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合またはその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによって否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである。」(ウイキペディア)。何か分かったようでよく分からない判決でした。

 私は原作を読んでいないので、本書における性描写がどのようなものなのかは分かりませんが、映画では性描写は抑え気味で、さまざまな矛盾に葛藤する一人の女性の姿が、美しく描かれているように思いました。


2017年7月12日水曜日

「中国、1900年 義和団事件の光芒」読んで

三石善吉著 1996年 岩波新書
 本書は、19世紀末に中国で起きた義和団事件を、さまざまな角度から描き出しています。義和団事件については、このブログの「映画で中国清朝の滅亡を観て 北京の55日」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/08/blog-post_15.html)、「「義和団 中国とヨーロッパ」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/04/blog-post_6.html)を参照してください。
 本書の特色は、中国を文化帝国と位置づけ、義和団運動を千年王国思想と関連付けている点です。まず、文化帝国に関して、中国という国家は、ヨーロッパの主権国家と比較して、儒学を核とする徳による統治が行われた国という考えで、これは「国」というよりは「文明」と呼んだ方がよいように思われます。それに対して、19世紀にヨーロッパで生まれた主権国家という考え方は、今日でこそ地球を覆っていますが、従来にないまったく新しい国家観です。そして、この二つの国家観が義和団事件において激突するわけです。
 千年王国思想というのは、本来ヘブライズムやキリスト教に由来するようで、義和団は反キリスト教を掲げてはいますが、千年王国思想というのはキリスト教の影響を受けたと思われます。ただ一般に、絶望的なまでに辛い社会にあっては、人々の間にいつか救済の時が来るという考えが生まれるのは自然なことで、中国の白蓮教や浄土教もそうした考えをもっており、それらは多分ゾロアスター教にルーツがあると思われますが、似たような思想はどこにでも生まれる可能性があると思います。
 本書は、義和団が生まれてくる背景を、中国の武術集団から当時の中国の社会に至るまで、さまざまな角度から描いており、大変興味深い内容でした。

ウッドハウス瑛子著、1989年、東洋経済新報社
 モリソンはオーストラリア生まれのイギリス人ジャーナリストで、日清戦争頃から中国で活動し、当時の極東情勢に関する多くのニュースをイギリスに送りました。そして義和団事件では北京で籠城し、当時の北京の様子を詳しく伝えました。前に述べた「中国、1900年」は義和団事件の内的要因を深く掘り下げた本でしたが、本書は列強の行動を、モリソンという人物を通して描いています。なお、モリソンは義和団事件における日本軍の活躍を大々的に報道したことで有名で、それがやがて日英同盟につながっていきます。
 内容的には、事件の推移の記述が細かすぎて、少しうんざりしました。





























2017年7月8日土曜日

映画「ボヴァリー夫人」を観て

2016年のアメリカ・ドイツ・ベルギーによる合作映画で、19世紀半ばのフランスの作家フローベールによる「ボヴァリー夫人」を映画化したものです。
 フローベールは、フランス西部の古都ルーアンで富裕な医師の子として生まれましたが、しばしば癲癇の発作に見舞われたこともあって、文学に傾倒していくようになります。彼は当初ロマン主義に憧れ、「ロマン主義的な陶酔や大げさな文章」を書いていましたが、1851年から4年半かけて「ボヴァリー夫人」を執筆します。本書は公衆道徳に反するとして訴えられますが、無罪となり、これによって却って彼の名声は高まり、作家としての不動の地位を確立します。彼は、執筆にあたって多くの資料を読み込み、徹底的に文体を推敲するため、あまり多くの作品を残しませんでしたが、ロマン主義から写実主義への転換に大きな役割を果たしました。
 物語の舞台は、フローベールが生まれたルーアンです。農夫の娘エマは修道院で育ちましたが、小説や物語を読みロマンティックな空想に浸るのが好きでした。やがてエマはシャルル・ボヴァリーという医師と結婚し、娘を出産します。シャルルは、エマを愛していましたが、生真面目で凡庸な人物であり、彼女はしだいに彼との生活に退屈するようになります。そのため彼女は不倫を繰り返すようになり、さらに借金をして高価なものを買い続けます。結局彼女は破産し、恋人にも見捨てられ、毒薬を飲んで自殺します。彼女のロマンティックな夢は、現実とはかけ離れたものだったわけです。そして、これこそが、ロマン主義から抜け出して写実主義に向かうフローベールそのものだったのだのだと思います。

 この映画について、正直なところ幾分退屈でした。この作品は、映画ではなく原作を文字で読むべき作品ではないかと思います。そして、残念ながら私は原作を読んでいません。