2017年10月28日土曜日

映画「冬のライオン」を観て

1966年にブロードウェイで上演された演劇作品で、それが1968年にイギリスで映画化されました。内容は、イギリスのプランタジネット朝の創始者へんり2世を中心に、1183年のクリスマスに、シノン城を舞台とした夫婦、親子、兄弟の愛憎を描いており、「冬のライオン」とは、後継者問題に悩むヘンリ2世のことを指します。そして、この物語の背景は本当に複雑です。

 前に、「映画「ヴァキング・サーガ」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/10/blog-post_21.html)で述べたように、イングランドは長くノルマン人の侵入に苦しめられ、結局11世紀に北フランスのノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服してノルマン朝が成立します。しかしそのノルマン朝も12世紀には王位継承を巡って混乱しますが、そうした中でノルマンディー公とアンジュー家の血を引くアンリがヘンリ2世としてイングランド国王に即位し、ここにプランタジネット朝(アンジュー朝)が成立します。そしてアンジュー朝をヨーロッパの大勢力に発展させたのが、ヘンリ2世とアキテーヌ女公アリエノール(エレノア)との結婚でした。

 アリエノールは、相当したたかな女性でした。彼女は、豊かなアキテーヌ地方を中心とする広大な領地の女相続人で、15歳の時父が急逝すると、フランス国王ルイ7世と結婚させられます。1147年に彼女は夫ともに第2回十字軍に参戦しますが、途中で仲違いし、帰国後1152年に近親相姦を理由に離婚します。そして2か月後に11歳年下のアンジュー公アンリと結婚し、アンリがイギリス国王になると、今やフランス国土の3分の2とイングランドを支配するアンジュー帝国が成立することになります。アリエノールは、見事に前夫ルイ7世にしっぺ返しをしたわけです。もっとも、離婚の理由となった近親相姦という点では、アンリの方が血縁的に近かったとのことです。
 ヘンリ2世は有能でバイタリティー溢れる君主で、イングランドやフランスの領地の安定に努めますが、家族には恵まれませんでした。彼には、若ヘンリ、リチャード、ジェフリー、ジョンの4人の息子がいましたが、彼らのうち、一人として父を裏切らない者はいませんでした。1173年若ヘンリは母アリエノールやリチャード、ジェフリーと組んで父に対して反乱を起こします。結局、翌年和解が成立しますが、しかし、ヘンリ2世はアリエノールだけは許さず、以後十数年間反逆の罪でイングランドでの監禁生活を強いることになります。

 ところが、1183年に若ヘンリが病死したため、ヘンリ2世はこの年のクリスマスに、シノン城にアリエノールや三人の息子、新しいフランス王フィリップ2世を呼んで談合します。これが、この映画の舞台です。領域国家という概念が存在しない時代に、王は一身に多くの地位を集め、また家臣たちの個人的な忠誠によって自らの地位を保持していかねばなりません。領地を子供たちに分散させることは自らの国家を分散させることになります。特にアンジュー家はフランス領内に国王よりはるかに多くの領地をもち、その領地の所有者は形式上フランス国王の家臣ということになります。映画では、親子、兄弟、夫婦、愛人などの虚々実々の駆け引きが行われ、結局物別れに終わり、息子たちはそれぞれの領地に帰り、アリエノールは再び監禁されて、映画は終わります。
 その後次男のジョフェリーは1186馬上槍試合での怪我がもとで死亡、1189年ヘンリ2世はリチャードとの戦いの途中で死亡、国王となったリチャードも1199年フランスで戦死します。結局、末っ子のジョンが国王となり、フランスのフィリップ2世と領地を巡って戦い、フランスにおけるアンジュー家の領土をほとんど失います。ジョンはあまり評判のよい君主ではありませんでしたが、結果的には彼の時代に、フランスに支配されないイギリスという政治単位が形成されることになります。一方、リチャードを寵愛したアリエノールは、リチャード即位後摂政となって実権をにぎりますが、リチャード死後隠遁して82歳まで生きます。教養があり、意志の強い女性だったようです。なお、ジョン王については、「映画「ロビン・フッド」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/01/blog-post_21.html)参照して下さい。

 ところで、この映画が制作される2年前に、「ベケット」という映画が制作されました。ヘンリ2世とカンタベリー大司教ベケットとの友情と対立と悲劇的結末を描いた映画で、実はヘンリ2世とアリエノールを演じた俳優が、そのまま「ヘンリ2世」で登場します。カンタベリー大司教ベケットとヘンリ2世との物語は大変有名であり、その後のイギリスの宗教史にも影響を与えますので、是非この映画を観たかったですが、残念ながら手に入れることができませんでした。











2017年10月25日水曜日

魯迅を読んで



 魯迅に関する本を三冊読みました。魯迅については日本でも大変よく知られています。日本に留学し、仙台医科大学で学んだこと、白話文学を実践し、「狂人日記」「阿Q正伝」を著し、中国の伝統思想である儒学を痛烈に批判したことなどです。

今村与志雄著 1990年 第三文明者
本書は簡単な伝記と、いくつかの評論からなっています。「狂人日記」「阿Q正伝」については、私もはるか昔に読んだことがあり、前者については白話文学としては十分こなされておらず、後者は小説芸術としてはそれほど高いものではないそうです。それにもかかわらず、「阿Q正伝」が中国古典文学となった所以は、人間の醜悪の権化というべきタイプを創造した作者の悲劇精神が作品を通じて読者に感銘を与えるからだそうです。

 なお、魯迅は日本に7年滞在しており、日本語も堪能ですが、日本文学にはあまり関心がなかったようです。ただ、夏目漱石の作品には熱中し、新刊が出版されると必ず買ってんでいたようです。夏目の文学が魯迅にどの程度の影響を与えたのかについてはよく分かりませんが、確かに夏目の「嘲笑風刺の軽妙な筆致」は、魯迅の文章と似ているような気はします。


竹中憲一著 1985年 不二出版
 魯迅は、1909年に帰国し、1911年に辛亥革命が起きると、彼は新政府の教育部の事務官となり、北京に移り住みます。その後軍閥政府が成立するようになると、多くの革命家は政府から去っていきますが、魯迅はそのまま軍閥政府の官僚として残り、隠遁生活者のように文献研究に励みます。そしてこの時期が、魯迅にとって最も多作な時代でした。しかし国民党による弾圧が強まると、1927年魯迅は上海に移ります。その後彼は評論活動に励み、国民党政府によって彼の著作はしばしば発禁処分とされますが、上海では優雅な生活を送り、1936年に喘息の発作で死亡します。

 本書は、おそらく魯迅の人生で最も実り豊かだった北京での生活を丹念に描き出し、それなりに興味深い内容でした。



















2017年10月21日土曜日

映画「ヴァイキング・サーガ」を観て


2013年にイギリスで制作された映画で、8世紀末のイングランド王国形成期の暗黒の時代を描いています。DVDジャケットの下品な絵も、「ヴァイキング・サーガ」という邦題も、この映画の内容とは何の関係もありません。原題は「暗黒の時代」です。










イングランドには、古くからケルト人が住んでいましたが、紀元前後からローマ帝国の支配下に入り、5世紀ころアングロサクソン人が侵入し、七王国を建てます。この時代については、「映画で西欧中世を観て(1) キング・アーサー」 (http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/06/1.html)を参照して下さい。そして映画の舞台となったのは、七王国の一つノーサンブリア王国です。













ところで、イングランドにおけるキリスト教の普及の仕方には特異なものがあります。ローマ帝国の支配時代にキリスト教はイングランドでもある程度普及しますが、ローマ軍が撤退したのち、キリスト教も衰退してしまいます。ところが、ローマ帝国の支配を受けなかったアイルランドでは、キリスト教がケルト文化と結びついて独自の発展をし、イングランドでキリスト教が衰退した後には、アイルランドの修道士たちがイングランドにキリスト教を布教するようになります。そして、イングランドにおけるキリスト教布教の拠点となったのがノーサンブリア王国で、その北東岸に位置するリンディスファーン島(ホーリー島)に建設されたリンディスファーン修道院が中心となります。なお、リンディスファーン島は、潮が満ちると島となり、干潮になると土手道で本土とつながるようになっており、修道院は今日では廃墟となっていますが、今日でも観光客が集まっています。そしてこの映画の冒頭で、この島が映し出されます。



ノーサンブリアでは、ケルト文化やアングロ・サクソン文化などが融合したキリスト教文化が開花します。特に、挿絵や装飾がふんだんに施された手書きの福音書が多く作成され、その中でも有名なものはリンディスファーンの福音書です。この福音書は、当時すでに伝説となっており、この福音書を手に入れれば幸福を得られると信じられており、映画は、この福音書を守ろうとする修道士と、それを奪おうとするノルマン人との物語です。なお、この福音書は、宝石を散りばめた表紙は失われましたが、それ以外は非常に良い状態で1300年の歳月を超えて保存されており、大英図書館が所蔵しているとのことです。またウイキペディアによれば、この福音書の完全復刻版が丸善で220万円ほどで購入できるそうです。
 前置きが長くなってしまいましたが、この映画を理解するためには、この程度の予備知識が必要で、私も相当勉強しました。当時のイングランドは、七王国の内部対立、七王国間の対立、飢饉、ノルマン人(ノース人・ヴァイキング)による略奪で苦しんでいました。映画では、まず9世紀に編纂された「アングロサクソン年代記」が読み上げられます。時は793年、「ノーサンブリア王国で大飢饉と異教徒による修道院襲撃が起きた。異教徒たちは聖人の亡骸を犬の糞のように踏みつけた。」「修道士たちは辱めを受け裸で追放された。溺死させられた者もいた。」
 主人公のヘリワードは捨て子としてリンディスファーン修道院で育てられ、今や修道士たちがノース人に殺されていく中で、福音書を守るために先輩修道士と逃亡します。ノース人は故郷に帰っても貧しく、イングランドに定住して安定した生活を築きたいと考えていました。彼らにとって福音書の意味は分かりませんでしたが、イングランドで非常に尊重されているリンディスファーンの福音書を手に入れれば、イングランド支配を正統化できると考えていました。
 一方、ウェセックス王国のエゼルウルフという人物が、ヘリワードたちを護衛します。当時のエセックス王はエグバートで、彼は802年に七王国を統一してイングランド王国を樹立し、エゼルウルフはエグバートの息子で、イングランド王国の第二代国王となる人物です。イングランドの統一を目指す彼らにとってもまた、この福音書は重要な意味をもっていたのです。旅の途中各地の惨状を目の当たりにし、またケルトの宗教を信じる女性にも会いました。当時はまだケルトの宗教を信じる人々(キリスト教から見れば異教徒)がたくさんいたのです。いろいろな人との出会いがあり、当時の暗黒の社会が描き出され、苦労した末に福音書を安全な場所に届けます。その過程で、彼はただの本でしかない福音書を命かげで守ることに疑いをもつようになり、やがて修道士であることを止め、剣をとって侵入者と戦うようになります。そして映画は、「罪なき者の私の人生は、あの夜終わった」というヘリワードの言葉で終わります。
この事件については、おそらくイギリス人なら誰でも知っている事件だと思われますが、日本ではあまり知られておらず、理解するのが厄介な内容です。ただ、映画では様々な民族や宗教が葛藤し合いながら、イングランドが形成されていく状況が描かれており、私には大変参考になる映画でした。


2017年10月18日水曜日

「ザ・グレート・ゲーム」を読んで

ピーター・ホップカーク著 1990年、京谷公雄訳、中央公論社、1992
本書は、内陸アジア、特にアフガニスタンを巡るイギリスとロシアの諜報活動を描いたもので、この壮大な諜報活動は、いつしかチェス・ゲームになぞらえて、「ザ・グレート・ゲーム」と呼ばれるようになりました。










19世紀初頭、ナポレオンがロシアと結んで陸路でインドを攻撃するという壮大な計画をたてました。この計画は実現されませんでしたが、ナポレオンが倒れた後、その後に巨大なロシア帝国が出現し、インドを大英帝国繁栄の基盤とするイギリスにとって、大きな脅威となります。ところが、イギリスは内陸アジアの地図さえろくに知らない状態でしたので、イギリスは多くの軍人をこの地方に派遣し、地理・地形・住民など多岐にわたって調査させます。ロシアは、古くから中央アジアと関わっていますので、比較的この地域の情勢に明るいのですが、イギリスの関心はインドにあり、内陸アジアについてはまったく無知でした。内陸アジアについては、このブログの「映画「ダイダロス 希望の大地」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/09/blog-post_30.html)を参照して下さい。
 本書で述べられているのは、個々の戦争よりも、こうした諜報活動で活躍した多くの人々です。彼らは時には商人に化け、時には巡礼者に化けて諜報活動を続けます。彼らの行動は、ヨーロッパや極東で起きたことと常に連動しており、その意味では巨大なチェス・ゲームのようです。本書に登場する人々は、おそらくイギリスではよく知られた英雄なのでしょうが、私はほとんど知らない人々でした。彼らは、グローバル・ヒストリーの観点から見れば、帝国主義の先兵だったかもしれませんが、同時に彼らは探検家として、この地域についての多くの情報を世界に伝えました。
 本書は、内陸アジアの西トルキスタンを中心に述べられていますが、原書では東トルキスタン、つまり現在の新疆ウィグル自治区についても述べられており、両者を合わせるとあまりに膨大なるため、訳書では割愛されたとのことです。この地区では、ヘディンによる楼蘭の発掘やスタインによる敦煌文書の発見などが行われますが、こうした探検も一連の諜報活動の過程で行われたものと思われます。
 グレート・ゲームは、広い意味では現在まで続いているといえるかもしれませんが、本書では1907年の英露協商をもって終わります。これによってイギリスはアフガニスタンでの優位を確立したわけで、これを可能にした分けは、日露戦争におけるロシアの敗北でした。今や極東の日本も、グレート・ゲームに深く関わっていたわけです。
 本書は、知らない固有名詞が多いので、少し読みにくいかもしれませんが、日本ではあまり知られていない内陸アジアで繰り広げられた雄大なゲームを楽しむことができます。 なお、本書の定価は2300円ですが、アマゾンの古書コーナーでは1万円以上で販売されています。

2017年10月14日土曜日

映画「エクソダス」を観て

2014年にアメリカで制作された映画で、「エクソダス」とは旧約聖書の「出エジプト記」(大量脱出)のことです。「出エジプト記」はモーセに率いられたヘブライ人がエジプトから脱出するという物語で、これについては、このブログの「映画で聖書を観る 十戒」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/04/blog-post_3082.html)で詳しく述べました。どちらの映画も、「出エジプト記」をベースにしているため、内容的にはほとんど同じです。
 この映画で少し気になったのは、モーセに神の声を伝えたのが一人の少年だったという点です。この少年が神自身なのか、天使なのか分かりませんが、かなり不気味な少年で、神の厳しい意志を冷酷にモーセに伝えます。また、「出エジプト記」で語られる数々の奇跡については、科学的な説明も可能なように描かれています。たとえば、ナイル川が赤く染まることはしばしば見られる現象だし、イナゴの大群の襲撃や疫病もよくあることです。一番問題となるのは海が割れたということですが、これも引き潮として説明されます。
 しかしモーセの実在や出エジプトという事件については疑う人が多いようです。古代エジプト人はなんでも丹念に記録する傾向があり、何十万人もの人々が脱出した大事件の記録が残っていないのは不自然です。したがって、真偽のはっきりしない事件を科学的に説明する試みは陳腐であり、「出エジプト記」の記述をそのまま再現すればよいように思います。それを信じるか信じないかは、その人の信仰の問題だと思います。

 なお、3Dを駆使した映像は見ごたえがあり、人種的偏見や聖書の解釈について多くの批判が出されたようですが、聖書映画にはこの種の批判はつきもので、娯楽映画としては十分楽しむことができました。



2017年10月11日水曜日

「中国に賭けた青春」を読んで

ニム・ウェールズ(ヘレン・フォスター・スノウ)著、1984年 春名徹・入江曜子訳
岩波書店(1991)

 著者は、「中国の赤い星」で知られるエドガー・スノーの夫人(1932~49)だった人物で、夫とともに中国で取材活動を行うとともに、著述活動にも励みます。本書は、1931年に中国に訪れ、1940年、太平洋戦争が始まる直前に帰国するまでの、中国での彼女の生活を描いたものです。彼女が中国に滞在していたのとほぼ同じ時代に、パール・バック(映画「大地」を観て http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/07/blog-post_1.html)やスメドレーが(「偉大なる道 上下」を読んで」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/04/blog-post_20.html)が活躍していました。

 彼女が中国についたのは彼女が23歳の時で、翌年にはエドガー・スノーと結婚しますので、ジャーナリストとしての修行はまだ始まったばかりです。この時代の中国は日本の満州侵略と国民党と共産党との対立の時代でしたが、当初彼女は中国についての理解も浅く、女性らしい視点で彼女の周囲に起こっていることを描いていました。しかし夫が共産党の拠点である延安で取材し、「中国の赤い星」の執筆を始めると、彼女も全面的に協力し、本書でもその過程が描かれています。また当時知り合った朝鮮人革命家キム・サンの生涯を描いた「アリランの歌」も執筆し、彼女もまたジャーナリスト・作家としての地位を築いていきます。それとともに、彼女は反ファシズムの学生運動にものめり込んでいきます。
 結局、彼女は失意のうちに中国を離れ、夫との共通の接点だった中国を失ったとき、夫との関係も破綻し、1949年に離婚します。その後彼女は、文化大革命後の中国を何度も訪れ、多くの人々と交流し、77歳の時に青春時代の思い出として本書を出版しました。


なお、エドガー・スノーの処女作「極東戦線」が私の書棚に紛れ込んでいました。本書を買ったことをすっかり忘れていました。本書は日本の満州侵略を描いたルポルタージュで、内容的には今日ではよく知られていることですが、文章にはさすがに迫力があります。


















2017年10月7日土曜日

映画「ファイヤーハート 怒れる戦士」を観て

2011年にリトアニアで制作された映画で、19世紀後半にリトアニアで活躍した、実在したとされる反逆者タダス・ブリンダを描いています。原題は、直訳すれば「始まり」です。少なくとも、この写真に示されているような場面は、映画にはありません。











リトアニアはバルト三国の一つで、1990年にソ連邦から独立し、ソ連邦崩壊のきっかけとなった国の一つです。リトアニアは、13世紀に大公国が成立して以降急速に成長し、ポーランドと同君連合を結成し、14世紀末にはバルト海から黒海に至る広大な地域を支配するようになります。しかし、15世紀末にロシアでモスクワ大公国が台頭すると、リトアニアはポーランドへの従属を強め、18世紀末にポーランドが分割される過程で、リトアニアはロシア領となります。19世紀にロシアは、ポーランドやリトアニアに対して徹底した同化政策を行ったため、両国は1831年と1863年に反乱を起こします。そして映画の舞台となったのは、1863年におけるリトアニアでの反乱の背景です。
 当時のリトアニアやポーランドは自立性の高い領主が農奴を支配し、過酷な収奪を行っていました。またリトアニアにはポーランド人の領主もおり、彼らを通してロシアはリトアニアを支配していました。そして彼らはロシアの後ろ盾で自らの利権を維持していました。それに対して、タダス・ブリンダのような若者が、ロシア軍や領主を襲ったりしていました。こうした中で、1861年にロシア皇帝アレクサンドル2世は、農奴解放令を発布します。それは、リトアニアやポーランドを含むロシア領に適用されることになりますが、これに対して農奴は喜びますが、領主は不満で、両者の対立が顕在化します。結局農奴解放令は、リトアニアとロシアの対立ではなく、リトアニア内部の対立になってしまい、タダス・ブリンダたちは理念のないただの山賊でしかありませんでした。
 そうした中で、あるリトアニアの領主が、自分の土地を農奴に与えるので、リトアニアの大地のためにロシアと戦えと、タダスに説得し、彼は初めてリトアニア人としてのアイデンティティをもつようになります。これが、ロシアに対する反逆の「始まり」です。映画はここで終わっていますが、1863年に農奴に対して土地も解放されるのですが、この解放は有償であったため、農奴の生活は前よりひどくなったとされます。そのため、この頃からロシア、ポーランド、リトアニアなどで農民反乱が頻発し、この反乱にはタダスも加わっていたはずです。
第一次世界大戦末期の1918年にリトアニアは独立を宣言しますが、第二次世界大戦中の1940年にソ連軍に占領され、第二次世界大戦後にはソ連邦に編入されることになります。そして1990年、ソ連のペレストロイカの影響を受けて独立を宣言し、NATOEUにも加盟するなど、比較的安定した国造りが進んでいますが、意外にもリトアニアでは自殺と殺人事件が多いことでも知られています。その理由は、リトアニア国民としてのアイデンティティが十分に形成されておらず、精神的に不安定な人が多いからではないかとされています。
 映画は内容が複雑で、理解するのに苦労しました。主人公はちょっとドジで、それほど英雄的な人物ではありません。ただ、一人の農奴だった男が、どのようにしてリトアニア人としての自覚を形成していったのかということが、描かれているように思いました。




2017年10月4日水曜日

「歴史を運んだ船」を読んで

茂在乕男著 1984年 東海大学出版会
 本書はまず、「古事記」や「日本書紀」に記されている船に関する記述を抜き出し、それらの言葉のルーツを求め、それらの言葉が南方のポリネシア語に由来していることを提起します。古事記や日本書紀は当然漢字で書かれており、われわれは当然その漢字の意味を考えようとします。しかし南方系の言葉の場合、よく似た音の漢字を当て字として使い、この場合漢字の意味はほとんどありません。例えば、「軽野」とか「枯野」と記される船は、ポリネシア語のカヌーあるいはカノーの当て字ではないか推測します。また、神武天皇の東征の際に記されている「天の盤船(アマのイワフネ)」は「アウトリガー」ではないかと推測します。
 日本人のルーツはどこにあるのか、こうした疑問に対して、従来は北方系説が有力でしたが、最近では南方系も有力になっているようで、結局北方系、南方系などが混じって、日本人の祖先が形成されたと思われます。

 著者は東京商船大学の出身で、歴史家である以前に、船の愛する人であり、筆者が船について語るとき、いつも情熱がこもっているように思われました。もちろん、本書が執筆されたのは、30年以上も前で、この間に水中考古学も飛躍的に発展し、日本語への古代ポリネシア語の影響についての研究も進みましたので、本書の内容は少し古いかもしれませんが、そんなこととは関係なく、本書は非常に面白い本でした。