2017年11月15日水曜日

お知らせ

 アクセス回数が145千件を超え、投稿数は368回に達し、1年の日数を超えました。例によって、このあたりでしばらく休息したいと思いますが、このブログもそう長くは続けられないように思います。第一、読書感想記のために読む本がなくなりつつあります。あの膨大な本を読みつくす日が来るとは思いもしませんでしたが、遠からず読み終わりそうです。年をとると色々なものが終わっていき、新しいものが始まりません。


我が家の裏庭




























2017年11月11日土曜日

映画で北京の胡同を観て

北京の胡同を舞台とした映画を二本観ました。胡同とは、北京のかつての城壁内にある路地で、13世紀の元朝時代に作られた道が、明・清時代の新たな道路建設を経て、細切れになってあちこちに残ったものだそうで、最盛期には6000箇所以上もあったそうですので、決して珍しいものではありません。この胡同に面して、四合院と呼ばれる建物が建てられていました。四合院とは、中庭を中央に設け、その東西南北に一棟ずつ建物を配置するもので、本来金持ちが住む家でしたが、やがて貧乏な多くの家族が住むようになります。魯迅はかつて、家族や兄弟・親戚を呼んで四合院に住んだことがあり、老舎は多くの家族が雑居する四合院で育ちました。四合院にはトイレや炊事場が一か所しかなくて不便で、また排水施設やゴミの処理も不十分で、かなり不衛生でした。そうしたこともあって、四合院と胡同は少しずつ取り壊されて近代的なビルが建てられ、2001年の北京オリンピック開催の決定をきっかけにこの傾向は一層進展します。今では、四合院と胡同は観光地化し、古い建物を見るために多くの観光客が集まっているとのことです。


胡同のひまわり

2005年に中国で制作された映画で、1976年、1987年、1999年という3つの節目となった年を中心に、北京の胡同(フートン)で暮らすある家族の生活が描かれています。
 チャン家の当主ガンニャンは、画家志望でしたが、文化大革命時代の強制労働で手を痛め、息子のシャンヤンに画家として才能があると信じ、息子に強制的に絵を学ばせます。一方、母のシウチンはいつか胡同を抜け出し、お金を貯めて役人に賄賂をわたし、公営のアパートをもらうことを夢見ていました。1976年文化大革命も終わり、父が6年ぶりに強制労働から戻り、9歳のシャンヤンと再会し、父は自分が失ったものを息子に受け継がせようと、絵をおしえます。シャンヤンは、明らかに画家としての優れた才能を示していましたが、1987年に厳しい父の指導に反発して家出し、結局連れ戻されます。この頃すでに、改革開放政策により町は活気づき、高層ビルも建設されるようになっており、母はアパートを手に入れるのに必死です。1999年、北京には高層ビルが立ち並び、息子も画家として評価されるようになり、母も念願のアパートを手に入れますが、なぜか父は胡同に住み続け、ある時姿を消します。彼は、初めて自由に自分がしたいことをしようと思ったようです。そしてある時、父の手により胡同にヒマワリの花が植えられていました。

 この映画は、文化大革命以来の激動の時代に振り回された人々や、胡同という貧民街が高層ビルの立ち並ぶ街へと変貌していく姿を描いていています。胡同も四合院も、ずいぶん数は減りましたが、まだ現役で使用されており、何百年も続いた貧民窟は今や文化財となりましたが、その姿かがよく描かれていたと思います。

胡同の理髪師

2006年に中国で制作された映画で、タイトルの通り胡同に住む一人の年老いた理髪師の日常生活を描いています。主人公は、当時実在していた92歳の理髪師本人で、主人公以外の出演者も素人が多いそうなので、これはドラマというよりドキュメンタリーに近いものです。
主人公のチン爺さんは、辛亥革命の2年後、1913年に生まれ、11歳ころから理髪師の修行をはじめ、以後81年間理髪師を続けているそうです。その間に中国では、軍閥支配、日中戦争、国境内戦、文化大革命など激動の時代が続きましたが、彼にとって、今となってはそれも昔話でしょう。胡同の小さな部屋に住み、三輪自転車で出張理髪に行き、代金はインフレに関係なく、いつも5(90100)です。楽しみは友人たちと昔話をしながらマージャンをすることです。何の欲もなく、淡々と毎日同じことを繰り返して生きており、それで彼は十分に幸せでした。
 しかしこの間に北京は激しく変わっていました。3年後にオリンピックを控え、近代的なビルが立ち並び、胡同でも立ち退きの要請が来ています。子供たちは立ち退き金が欲しいため、早く立ち退くことを進めますが、彼の望みは胡同の小さな部屋でひっそりと死んでいくことです。ある時ふと思いついて、自分の葬儀用の写真と死に装束を揃え、死んでも誰にも迷惑をかけないように準備を整え、後は死を待つのみです。まるで昆虫のような一生ですが、考えてみれば、人間の一生は大なり小なり、似たようなもののように思います。結局彼は、2014年に101歳で死亡しました。この間、映画で有名になった彼を訪ねる人が多く、かれはちょっとした有名人になっていたようです。

 私も、最近しばしば自分の死について考えます。できれば私も昆虫のように死んでいきたいと思うのですが、これだけ文明にまみれて生きていると、そういう死に方は無理かもしれません。「生」に執着し、のたうち回って死んでいくのかもしれません。このブログは、そうならないように、心の準備をするために書いているのかもしれません。


2017年11月8日水曜日

「世界の神話がわかる」を読んで

「知の探究シリーズ」、吉田敦彦編、日本文芸社、1997
 世界各地の神話とそのルーツを、6人の研究者が分担して執筆しています。もともと私は神話が好きで、今までにも折に触れて神話に関する本を読んできました。人類が直立歩行し、脳が発達すると、人は様々な問題に対す説明を求めるようになります。太陽はなぜ東から昇り西に沈むのか、人はなぜ死に、死後はどうなるのか。これらの疑問について、当時の人々は、当時知りえたあらゆる知識を総動員して神話を生み出していきます。それは、人間が存立する基盤、社会の規範であり、それなしには人間がいきていけないようなものです。こうした神話を読むと、人間の想像力の豊かさに唖然とさせられます。科学が発達した今日から見れば、神話で説かれていることは幼稚で馬鹿々々しいと思われるかもしれませんが、今日われわれが「科学」と呼ぶものも、宇宙全体から、あるいは人間の歴史全体から見たら取るに足らないほど僅かな知識から全体像を推測しているにすぎません。もしかしたら、何百年か後の人々は、われわれの「科学」を幼稚で馬鹿々々しいものと思うかもしれません。
 「神話が世界観の表明であるということは、哲学の準備であり、また自然界の事物や現象の説明であることは、科学の萌芽でもある。世界観や事象に対する認識を部族の仲間に理解させるためには、言葉と行為による表現が必要であり、自ずとそこには物語が発生する。だから、神話はまた文学の最初の形式でもある。人類の起源を語り、自然界の起源を説明し、守るべき制度や習俗の由来を説明することは、神聖な存在の力が作用して生じてきた部族の物語であって、最初の歴史の形成でもある。また、人類や自然界を超えた彼方に、超越的な力を認識し、その力への服従であることからいえば、原始的な宗教の萌芽である」

 ところで、世界の神話には多くの類似性が見られます。例えばギリシア神話と日本の「古事記」「日本書紀」との類似性が指摘されます。それは偶然なのか、あるいは人間精神が同じような状況に置かれれば、同じような神話を生み出すということか。また、長い年月をかけて伝播したのか。ギリシア神話が生まれてから「古事記」「日本書紀」が編纂されるまで1千年以上の間がありますので、伝播の可能性は十分にあります。もちろん伝播を主張するには、その神話が伝わった経路を証拠をもって実証する必要がありますが、それ自体がワクワクする仕事のように思えます。

2017年11月4日土曜日

映画「戦場に咲く花」を観て

 2000年に日中合作で制作された映画で、終戦間近い1944年秋に満州白頭山(長白山)地区にある南満州鉄道の小さな駅で起きた殺人事件を描いています。なお白頭山は、前に見た「「満州国皇帝の通化落ち」を読んで」の通化の近くです。















 主人公の菊地浩太郎は、1936年のベルリン・オリンピックの競馬での入賞者で、国民的英雄でしたが、戦争で負傷して、この駅で療養していました。彼は中国人に対しては残忍な男ですが、なぜか大量のヒマワリの種を持ち込み、丘一面にヒマワリの花を咲かせていました。一方、駅では四人の中国人が働いていましたが、彼らは菊池を恐れ、菊池の顔色を伺いながら暮らしていました。そしてある時、菊池の遺体が発見され、犯人探索のため憲兵隊が派遣され、色々あって結局四人の中国人は全員死んでしまいます。結局、この映画が言おうとしていることはよく分かりませんが、この映画を理解するためには、革命後の中国映画史を理解する必要があるように思われます。
 私はネット上で「中国の歴史社会教育における日本イメージの形成と変遷について  「抗戦映画」 等文芸作品を中心として」(趙軍 千葉商大紀要 2009) という論文を見つけ、大変興味深く読みました。それによれば、1949年中華人民共和国の建国以降、抗戦映画が盛んに制作され、そこでは日本人は鬼子として扱われ、記号化・ステレオタイプ化が行われました。これは、実際に日本が中国で行ったこと、日本に対する中国人の無知、政府による思想統制、などの理由から当然の結果だと思います。しかし日中の国交が回復した1970年代以降、日本についての知識が増えるとともに、文化大革命への反省もあって、日本人をより複眼的に捉え、事実を直視する傾向が生まれてきたとのことです。

1993年に制作された「さらば我が愛・覇王別妃」は、ある京劇の役者の波乱に富んだ生涯を描いていますが、その中で、四度彼は軍隊のまえで演じています。最初は日本軍の前で、観客が将校たちだったこともあって礼儀正しく演劇を鑑賞し、中国文化を理解していました。二度目と三度目は国民党軍の前で、国民党軍は軍規が乱れており、乱闘騒ぎになってしまいます。そして四度目は解放軍の前で、最後は人民解放軍行進曲の斉唱になってしまいました。結局、一番まともだったのは日本人で、要するにすべての日本人が「鬼子」というわけではない、ということです。この映画は以前に私も観ましたが、非常によくできた映画で、京劇の役者を通して近代中国の歴史をよく描いています。
 そして、2000年に制作された「戦場に咲く花」は、以上のような中国映画史の延長線上にあります。菊池は中国人には無慈悲でしたが、その背景には英雄としての重圧、再び戦場に戻ることの恐怖、故郷で死にかけている妹、妹が好きなヒマワリの花に囲まれて生き、かろうじて心のバランスを維持していたのだと思います。彼は時々優しい顔を見せることがあり、これが彼の本来の姿だったのかもしれません。そして彼は、どうやら殺されたのではなく、自殺したようです。ここでは彼は、もはや単なるステレオ・タイプの記号ではなく、心をもっていました。また日本人に仕える中国人たちも、従来の映画では裏切り者でしたが、彼らにも彼らの思いがあり、結局四人とも死んでしまい、死によって祖国への忠誠を果たします。最後に、犯人逮捕のために来た憲兵は、菊池の自殺を疑っていましたが、英雄が自殺したということは許されませんので、四人の中国人の中から犯人を探し出す(あるいはでっちあげる)必要がありました。そして結局四人全員が死に、憲兵は良心の呵責を感じつつ、任地に去っていきます。彼もまた、単なる記号ではありませんでした。

 この頃から日中関係は「脱戦後」の時代に入り始め、高倉健主演の「単騎、千里を走る」のように、雲南の人々と日本人の訪問者との心の交流を描いた映画なども制作されます。「戦場に咲く花」も、中国映画史の流れの中で観れば、価値ある作品の一つと言えるのではないでしょうか。


















2017年11月1日水曜日

北京の父 老舎

舒乙(シュウ イー)著 1986年 中島晋訳 作品社(1988)
 魯迅とともに中国近代文学の開拓者の一人とされる老舎の伝記で、本書の著者は老舎の子息です。老舎は、1899年に北京の胡同に住む下級軍人の末っ子として生まれ、翌年父が義和団事件で戦死したため、5人の子供多たちを育てました。赤貧洗うがごとき生活でしたが、慈善家の好意で教育を受け、19歳で小学校の校長となりました。この頃魯迅は北京に滞在しており、軍閥政府の下で官僚として古典の研究や教育改革に没頭していましたので、二人はどこかで合ったことがあるかもしれません。
 1936年に「駱駝祥子(らくだのしゃんづ)」を発表し、以後作家活動に専念します。翌1937年に盧溝橋事件が起きて日中戦争が本格化すると、抗日的な小説を多く書くようになり、中華人民共和国の成立後も彼は政府からも人々からも尊敬されましたが、文化大革命が起きると紅衛兵によって暴行され、1966年に自殺します。文化大革命は、文化人にとっては辛い時代でした。1978年に名誉が回復され、1986年に彼の子息によって伝記が執筆された分けです。

 本書は、父に対する筆者の哀愁に溢れています。生まれ故郷である北京への愛情、抗日戦争時代の放浪生活、そして文化大革命による絶望などです。ただ、内容的には著者の個人的な思い入れが強く、そのまま受け入れてよいのかどうか分かりませんが、老舎についての客観的な研究はまだ少ないようですので、本書は老舎について知るための貴重な資料ではないかと思います。なお、老舎の代表作「駱駝祥子」については、私はずいぶん前に読みました。内容についてはあまり覚えていませんが、どんなに努力しても没落していく一庶民の生活を描いており、当時の中国の闇の深さを感じました。