2015年10月17日土曜日

映画でシェイクスピアを観て


はじめに

シェイクスピアについては、ミケランジェロ(「映画「華麗なる激情」を観て」参照http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/blog-post_14.html)ほど多くのことが分かっていません。1564年にイングランド中部の富裕な家庭で生まれ、その後どのように育ち、教育を受けたのかははっきりしません。1582年、18歳の時に彼は26歳の女性アン・ハサウェイと結婚し、3人の子を設けます。1585年頃ロンドンに進出し、その後7年程の空白の後、1592年に新進の劇作家として登場します。当初彼は役者として活躍していたようですが、しだいに劇作に専念するようになり、1612年に引退するまでの20年間に多くの作品を執筆し、1616年に死亡しました。52歳でした。
 シェイクスピアの戯曲は、世界で最も優れた文学作品の一つとして認められ、多くの言語に翻訳されました。人間に対する深い洞察力と表現力は、多くの人々に強い感銘と影響を与えてきました。一般に、彼のような天才的な芸術家は、経済的に恵まれないことが多いのですが、彼の場合は経済的にも成功し、豪邸に住むようになります。その背景には、エリザベス朝における演劇の隆盛と、宮廷の保護がありました。
 エリザベス自身が演劇好きだったこともあって、宮廷に役者を呼んで演じさせたり、ロンドンに公設の劇場を作ったりしたため、演劇は庶民の娯楽としても普及しました。次のステュアート朝時代にも演劇は栄えましたが、清教徒革命が起きると、演劇が禁止されてしまいます。当時、演劇では女性が舞台に出演することは禁じられていました。その理由は風紀を乱すからということで、そのため当時は男性が女装して女性の役を演じていましたが、清教徒は男性が女装することは道徳に反するとして、演劇を禁じたのです。女もだめ、男もだめ、これでは演劇は成り立ちません。
 1660年に王政復古が実現すると、演劇が復活し、女優の出演も認められるようになりますが、その結果、案の定、劇場は娼館のようになり、ポルノまがいの演劇も上演されるようになります。この点については、このブログの「映画で17世紀のイギリスを観て リバティーン」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/17.htmlを参照して下さい。しかし女優の出現は、演劇に新しい道を開くことになります。日本でも、戦国時代に女性が芸を行っていましたが、これも猥褻な出し物が行わるようになったため、女性が舞台に登ることは禁止されました。そのため、江戸時代には「女形」と呼ばれる特異な芸が生まれてくることになります。この点については、このブログの「映画で武士の成立を観て 太平記」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html)参照して下さい。


 シェイクスピアの作品は40本近くあり、そのほとんどが映画化されているのではないかと思います。さらに代表的な作品については、過去に何度も映画化されています。ここで紹介する映画は、たまたま私が観た映画というだけで、重要な作品が多数欠けていますが、一応、シェイクスピアの執筆年代順に並べておきました。

恋におちたシェイクスピア

1998年にアメリカで制作された映画で、シェイクスピアの作品ではなく、シェイクスピア自身を扱っています。シェイクスピアが、「ロミオとジュリエット」を完成させる過程が、コミカルに描かれています。
 映画は、劇作家として売り出し中のシェイクスピアがスランプに陥りますが、資産家の娘ヴァイオラと恋をし、その恋を通じて「ロミオとジュリエット」を生み出していく、という物語です。ヴァイオラは芝居が大好きで、役者になりたいと思っていましたが、女性が舞台に立つことは禁じられています。第一、当時役者は卑しい職業であり、良家の子女が役者になるなど許されません。そこで彼女は男装してロミオ役で稽古に臨みますが、やがて女性であることがばれてしまい、劇場は閉鎖されてしまいます。しかし別の劇場で上演できることになり、シェイクスピアがロミオ役で出演することになりました。ところが上演直前に問題が発生しました。
 ジュリエット役の少年が突然声変わりして、出演できなくなってしまいます。もはや絶体絶命です。そこで急遽演劇を見に来ていたヴァイオラをジュリエット役で出演させることになりました。その結果、愛し合うシェイクスピアとヴァイオラがロミオとジュリエットを演じることになり、二つの恋は舞台と融合することになります。しかし上演が終わった後、女性が出演していることがばれ、大騒動になります。ところが、お忍びで観劇していたエリザベス女王が、事態を円満に解決してくれます。とはいえ、シェイクスピアには妻子がおり、ヴァイオラには親が決めた婚約者がいたため、二人の結婚は初めから無理だったのです。こうして二人は、ロミオとジュリエットと同様に、悲劇的な別れが運命づけられていたのです。
 映画は、一人の芸術家が一つの作品を生み出す過程での苦悩を描いています。この点では、ミケランジェロを描いた映画「華麗なる激情」と同じです。シェイクスピアの名が世に出たのが1592年、「ロミオとジュリエット」が公開されたのが1595頃ですので、この作品がシェイクスピアの名声を不動なものとしたと言えるでしょう。映画の内容はほとんどフィクションだと思われますが、当時ロンドンにあったカーテン座とローズ座という劇場が再現されており、当時の劇場がどのようなものであり、どのように運営されているかを観ることができました。

 全体として出来の良い映画で、とても面白く観ることができました。


じゃじゃ馬ならし

1967年制作のアメリカ・イタリアによる合作映画で、1593年、つまりシェイクスピアの初期の作品である喜劇「じゃじゃ馬ならし」を映画化したものです。この作品も、過去に何度も映画化されており、古くは1908年に最初の映画化が行われています。この作品の原題は「The Taming of the Shrew」で、「Shrew」は、トガリネズミのことで、キィーキィー甲高く耳障りな声で鳴くことから「口やかましい女」の代名詞となっているそうです。












 舞台となったのは、16世紀初めのイタリアのパドヴァです。パドヴァはヴェネツィアに近く、当時商業で栄えた町であると同時に、イタリアで2番目に古い大学のある町です。シェイクスピアの戯曲では、しばしばイタリアが舞台となりますが、当時のヨーロッパの人々にとってルネサンス発祥の地として、イタリアは特別な意味があったのでしょう。ドラマは、ある領主が、面白半分から、たまたま通りかかった酔っ払いに芝居をさせる、というところから始まります。したがって、「じゃじゃ馬なりし」という劇は、劇中劇ということになります。ただしこの映画では、この導入部分は省略されています。
 商人バプティスタには、カタリーナとビアンカという二人の娘がいました。妹のビアンカは美しくて大人しく、多くの人から求婚されていましたが、姉のカタリーナは手の付けられないじゃじゃ馬で、多額の持参金を持たせると約束しても、誰も求婚しませんでした。そうした中で、ヴェローナからやって来た落ちぶれ紳士ペトルーキオが、持参金目当てで彼女に求婚します。彼は、彼女の扱いについて、こう独白します。
 毒づいたら言ってやろう、ウグイスのような美声だと。
渋っ面したら、朝露に濡れたバラのごとくあざやかだと言ってやろう。
口をつぐんでいたら、その多弁を讃え雄弁を褒めよう。
去れと言われたら、泊れと言われたかのごとく熱く礼を述べよう。
結婚を拒んだら、発表の日取りと挙式はいつにするかと聞いてやろう。
ペトルーキオあまりの大胆さに、彼女は結婚を拒否する暇もなく、一方、父親は大喜びで結婚を承諾し、すぐ結婚式を挙げてしまいます。そして彼女はすぐヴェローナに連れて行かれる分けですが、この時からペトルーキオによるカタリーナの調教が始まります。彼は決して暴力を振るう分けではありませんが、彼が行うことはあまりに無茶苦茶で、やがて彼女は疲れてしまい、さらに彼女の既成の価値観そのものがずたずたに打ち砕かれてしまいます。その結果、彼女はしだいに従順になり、「妻が夫に負う義務は、臣下が君主に負う義務と同じ」とまで言うようになり、ハッピーエンドとなります。
 シェイクスピアの作品については、どれも様々な議論がなされますが、この作品についても色々な意見があります。一番多いのは女性蔑視であるという批判であり、これに対してヒステリー的暴力を振るうカタリーナに対して、ペトルーキオの巧みな方法が必要だった、という見解もあります。こうした議論は私にはどうでもよい様に思われます。私が観た限りでは、全体として、それ程女性蔑視のように思えませんでした。むしろ男女の機微を、幾分誇張して、よく描かれているように思いました。また、このドラマは劇中劇であり、最初から絵空事である、ということが前提になっているのだと思います。

ロミオとジュリエット

1968年に制作されたイギリスとイタリアによる合作映画です。「ロミオとジュリエット」は多くの映画化作品がありますが、ここであげる1968年版が最も評価が高い様に思います。その一つは、従来成熟した女性がジュリエットを演じることが普通だったのですが、この映画では、ロミオとジュリエットを演じた役者が実年齢に近かった、ということがあると思います。ロミオは16歳、ジュリエットは14歳ですが、ジュリエットはあと2週間で14歳になると言っていますから、実際には13歳です。彼女を演じたオリビア・ハッセーは、当時17歳でした。ネット上には15歳と書かれているものが多いのですが、彼女が生まれたのは1951年ですから、17歳ということになります。ただそれでも、まだあどけなさの残る少女の顔でした。ちなみにオリビア・ハッセーは、これより35年ほど後にマザー・テレサを演じています。(このブログの「ガンディーとマザー・テレサ」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015_03_01_archive.htmlを参照して下さい)。なお、「ウェストサイド物語」は、「ロミオとジュリエット」のニューヨーク版です。


 この映画の舞台となったのは、前の映画の舞台となったパドヴァの西にあるヴェローナで、時代は14世紀です。ヴェローナは交通の要衝にあるため、しばしばイタリア支配を目指す勢力の争いの場となりました。13世紀に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がイタリアに侵攻した際(このブログの「映画で西欧中世を観て バルバロッサ―帝国の野望」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/07/5.html)を参照して下さい)、イタリアの都市は教皇派と皇帝派に分かれて対立し、ヴェローナは皇帝派に与していました。しかしその後、ヴェローナの内部で皇帝派と教皇派が対立し、血みどろの争いが展開されることになります。そして、これが「ロミオとジュリエット」の物語の背景です。
 物語では、ヴェローナで皇帝派のモンターギュ家と教皇派のキャピュレット家が激しく対立していたという所から始まり、ロミオはモンターギュ家であり、ジュリエットはキャピュレット家であったことから悲劇が始まります。ドラマは、二人が出会ってから心中するまでの5日間を描いています。1日目に二人はパーティーで出会って一目惚れし、2日目にロレンソ神父の立ち合いで二人は密かに結婚します。しかしロミオはふとしたことからキャピュレット家の人物を殺してしまい、3日目にロミオはヴェローナから追放されます。4日目に、嘆き悲しむジュリエットにロレンソ神父は、不思議な薬を与えます。その薬を飲むと42時間仮死状態となり、葬儀をして遺体が教会に運ばれれば、ロミオが助けに来るということです。そして彼女はこれを決行し、ロレンソ神父は事情を記した手紙をロミオに送りました。5日目に、ジュリエットの葬儀が行われ、彼女の遺体は墓地に移されます。ここまでは予定通りだったのですが、手違いでロレンソ神父の手紙はロミオに届かず、ジュリエットの死の知らせのみが届きます。ロミオは墓地に駆けつけ、ジュリエットが死んでいると思い、絶望して自ら毒を飲んで死にます。やがて、ジュリエットが目覚め、ロミオの死体を見て、自ら剣で胸をついて自殺します。
 シェイクスピアの他の悲劇が、主人公の罪故に悲劇に至りますが、「ロミオとジュリエット」では、本人たちには何の罪もなく、周囲の愚かさ故に悲劇が発生します。その結果、両家の人々は今後決して争わないことを誓い、事実15世紀に入るとヴェローナの闘争の時代は終わります。また「ロミオとジュリエット」では、軽妙なジョークが飛び交い、さらに二人の幾分気恥ずかしくなるような美しい愛の言葉が淀みなく語られますので、この物語は悲劇というよりは、幼い男女の純愛の物語というべきかも知れません。

 ただジュリエットの14歳という年齢は気になりますが、この時代には女性は1415歳くらいで結婚するのは珍しいことではありませんでした。フランスのマリー・アントワネットは14歳でブルボン家に嫁ぎ、日本の八百屋お七も放火した時は14歳でした。ただし八百屋お七については、存在そのものが疑われています。

ヴェニスの商人

2004年に制作されたアメリカ・イタリア・ルクセンブルク・イギリスによる合作映画で、1596年に執筆された喜劇「ヴェニスの商人」を映画化したものです。驚いたことに、これ程有名な「ヴェニスの商人」が映画化されたのは、この作品のみです。古代ギリシア以来、同じ作家が喜劇と悲劇を両方書くことはなかったようですが、シェイクスピアはその両方を書きました。この時代に、「詩」とか「演劇」に革新的変化が起こったようですが、私にはよく分かりません。「ヴェニスの商人」は喜劇として扱われていますが、一概に喜劇とは言い切れないものがあります。「ヴェニスの商人」という作品のもつ、こうした複雑さが、映画化を困難にしていたのかもしれません。
映画の舞台となったのは、16世紀末のヴェネツィアで、このブログの「三人の女性の物語 娼婦ベロニカ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1222.html)と同じ時代です。バサーニオは、大富豪の女相続人ポーシャと結婚するため、親友のアントニオから金を借りました。しかしアントニオは全財産を貿易に投資していたため、ユダヤ人の金貸しシャイロックから金を借りて、それをバサーニオに貸しました。シャイロックは、前々から自分を軽蔑し侮辱するアントニオに復讐するため、借用書に返済できない場合自分の体の肉1ポンドを渡す約束をさせます。これでバサーニオはポーシャと結婚しますが、まもなくアントニオの船がすべて沈没したという知らせが届き、シャイロックはアントニオに契約通り肉1ポンドを渡すよう裁判に訴えます。この間、シャイロックは娘がキリスト教徒の男性と駆け落ちしたこともあって、怒りを募らせていました。裁判では法律に従って契約を実行せねばなりません。ここで、ポーシャが男装して法律学者として登場し、1ポンドの肉を取ってもいいが、一滴の血も流してはならないと判定します。この判定に諦めて帰ろうとしたシャイロックに裁判官は、肉を取らないなら全財産の没収とキリスト教への改宗を命じ、シャイロックはそれに従うしかありませんでした。
ドラマは、ユダヤ人を思い切り貶し、笑い飛ばすという話です。強欲で、冷酷な異教徒というのが、この時代のユダヤ人に対するほぼ共通した認識でしたので、人々はシャイロックが苦しむ姿を見て腹を抱えて笑ったことでしょう。しかし、さすがにシェイクスピアは、彼を単なる悪役としては終わらせておらず、シャイロックを徹底的に痛めつけることによって、いかにユダヤ人でもここまで蔑まれたよいのか、という問題を提起しているように思います。シャイロック自身が言います。「ユダヤ人は目なし、手なし、臓腑なし、感覚・感情・情熱、すべて無し。何もかもキリスト教徒とは違うとでも言うのかな? 毒を飲まされても死なない、だからひどい目にあわされても仕返しはするな、そうおっしゃるんですかい? だが、他の事があんた方(キリスト教徒)と同じなら、その点だって同じだろうぜ。キリスト教徒がユダヤ人にひどい目にあわされたら、(右の頬を打たれたら左の頬を差し出せという)御自慢の温情はなんと言いますかな? 仕返しと来る。それなら、ユダヤ人がキリスト教徒にひどい目にあわされたら、我々はあんた方をお手本に、やはり仕返しだ」(ウイキペディア)
ヴェネツィアなどヨーロッパの港市の東方貿易は、ユダヤ人によって担われていました。ローマ教皇がイスラーム教徒との交易を禁止したため、ヨーロッパの商人たちは東方のユダヤ人を介して交易を行い、当然ヨーロッパの商人の中にもユダヤ人が多数含まれていました。したがってヴェネツィアなどの発展にはユダヤ人が大きな役割を果たし、多額の税を払って都市の繁栄に貢献し、なおかつ彼らはゲットーに住むことを強制されました。ヴェネツィアのゲットーは、世界最古のゲットーだそうです。あまりにもひどい扱いです。
そしてこの映画は、ユダヤ人シャイロックに焦点が当てられています。アントニオは好青年でしたが、大のユダヤ人嫌いで、いつもシャイロックに唾を吐きかけたり、侮辱したりしていました。シャイロックがアントニオに憎しみを抱くのは当然です。しかも法学博士に変装したポーシャは、法律の抜け道を巧みに操ってシャイロックを陥れ、全財産を奪い、キリスト教への改宗を強制し、そして晴れてバサーニオと結ばれてハッピーエンドとなります。このような非道が許されるでしょうか。彼はユダヤ人であるという以外、何の罪もありません。シャイロックの側から見れば、この物語は悲劇そのものです。

ヘンリー5世 アジンコート(アジャンクール)の戦い

 「ヘンリー5世」は、シェイクスピアが1595年頃から1599年にかけて書いた史劇四部作、「リチャード二世」(1595年)、「ヘンリー四世 1部」(1596年)、「ヘンリー四世 2部」(1598年)に続く最終作で、1599年に執筆されました。私が観た映画は1945年版で、他に1989年版があります。1945年といえば、前年のノルマンディー上陸作戦の後、イギリス軍を含む連合軍がフランスに侵攻していた時代であり、この映画もイギリス軍がフランスに侵攻するという話です。
 この映画の背景となった時代は、イギリスの大きな転換点となった時代です。イギリスでは、11世紀以来ノルマン朝やプランタジネット朝というフランスの貴族が国王となっていました。フランスの貴族がイングランド王になっていたのか、それともイングランド王がフランスに領地をもっていたというべきか、よく分かりませんが、少なくともプランタジネット朝のジョン王が大陸の多くの領土を失うまでは、プランタジネット朝の君主はフランスに住んでいることが多かったようです。当時の国家の在り方は、人と人の繋がりによって成り立っており、当時としては、こうしたことは特に奇妙だとは言えなかったようです。
 イングランドでは、13世紀中頃エドワード3世がフランスの王位を要求して百年戦争を始めますが、その50年に及ぶ治世の間に嫡子が次々と死んでしまい、1377年にエドワード3世が死ぬと、まだ10歳の孫であるリチャード2世が即位します。そして彼が、シェイクスピアの四部作の最初の主人公であり、プランタジネット朝の最後の君主ということになります。彼は人望がなく、1399年にランカスター家のヘンリの反乱で捕らえられて王位を剥奪され、やがて暗殺されます。ここにプランタジネット朝は消滅し、ランカスター朝が誕生する分けですが、その創始者ヘンリ4世が、第二部と第三部の主人公です。彼は、正統な君主を倒して王位についたため、常に自らの王権の正統性に苦しみつつ、国内の安定に努め、1413年に死にます。
ヘンリ5世については、「ヘンリー4世 第2部」でハル王子として登場し、若い頃はごろつきたちと居酒屋などで遊び回っていたそうです。ひいき目に見れば、彼は形式的なことが嫌いな豪胆な性格だったと言えるかもしれません。しかし、やがて彼は王の仕事を手伝うようになり、その能力が発揮されるようになります。1413年に王が死ぬと、ヘンリ5世が即位します。これが、シェイクスピア四部作の最終作です。彼は王族ではありましたが、フランス語があまり得意ではなく、宮廷でも英語が話されるようになり、公文書も英語で書かれるようになります。その結果、300年以上続いたフランス文化の影響の時代は終わり、イギリス独自の文化が形成されていくことになります。
 ヘンリ5世は即位すると、直ちに百年戦争を再開します。イギリス自身の政情が不安定だったこともあって、百年戦争は20年ほど中断していたのですが、彼はフランスの内部紛争に乗じて、1414年に軍隊をノルマンディーに上陸させます。この映画が制作されていたころ、連合軍はノルマンディー上陸作戦を開始しますので、この映画の制作には、そうしたことが影響しているのかもしれません。なお、これより2年ほど前にジャンヌ・ダルクが誕生します。いずれにせよ、1415年にはヘンリ5世はアジンコート(アジャンクール)の戦いで、4倍の兵力を持つフランス軍を破り、1420年に和平を締結します。その結果、皇太子シャルル7世は不倫の子として追放され、ヘンリ5世は王女キャサリン(クリスティナ)と結婚し、シャルル6世の死後フランス王位を継承することになります。そして1422年にシャルル6世が死にますが、この年にヘンリ5世も急死します。35歳でした。
 その後のフランスの情勢については、このブログの「映画で西欧中世を観て(7) ジャンヌ・ダルク」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/08/7.html)を参照して下さい。イギリスでは、ヘンリ6世の時代にヨーク家との間に薔薇戦争が勃発(1455年)、1461年にヘンリ6世はヨーク家のエドワード4世に王位を奪われ、幽閉されてしまいます。その結果ヨーク朝が成立するわけですが、やがてランカスター朝の傍系であるヘンリ7世がヨーク朝に勝利して、テューダー朝を興します。この劇が上演されたのは、テューダー朝のエリザベスの晩年でしたので、この四部作はテューダー朝のルーツを語る演劇だった分けです。さらにエリザベス女王には後継者がなく、しっかりした後継者がいないと国が亡びるという警告だったのかもしれません。エリザベスも、さらにエリザベスに謀反を企てたグループもこの劇を観ていますが、それぞれどんな思いで観ていたことでしょう。
 この劇は、1599年に開業されたばかりのグローブ座で公演されました。この劇場は木造で、20角形の円筒型をなしており、中央の中庭部分は、立ち見客用の平土間と、建物から土間に突き出す形で設置された舞台からなっていました。それはエリザベス朝時代を代表する劇場でしたが、1642年の清教徒革命で閉鎖され、取り壊されました。しかし、1997年に復元されました。この映画は、このグローブ座での上演という形で進められ、映画の半分は舞台上での場面でした。もちろんこの時代にグローブ座はまだ復元されていないので、撮影用のセットが作られたわけですが、それでもグローブ座の雰囲気はよく出ていたと思います。

ハムレット

「ハムレット」は1600年に執筆され、シェイクスピアの代表作であるとともに、四大悲劇の最初の作品です。四大悲劇とは、「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」です。「ハムレット」は何度も映画化され、さらに「ハムレット」を題材とした映画も沢山あります。このブログて取り上げた「女帝 エンペラー」(2006年)もその一つです(「「王家の紋章」と「女帝(エンペラー)」を観て」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_9035.html)。私が観たのは、1948年にイギリスで制作された映画で、前に述べた「ヘンリー5世」と同様、ローレンス・オリヴィエが監督・主役を務めていました。さすがに彼は名優として知られるだけあって、ヘンリ5世とハムレットが同一人物であるとは、わからない程でした。







北海帝国(ウイキペディア)

この戯曲の題材は北欧伝説にあるようで、12世紀末に編纂された「デンマーク人の事績」という歴史書にアムレットを主人公にした話があり、内容も「ハムレット」と似ているそうです。「ハムレット」の舞台となったデンマークは、古くからイギリスとの強い関わりをもっていました。11世紀にはデンマークを中心とした北海帝国が成立し、イギリスもその一部を構成していました。戯曲でもデンマーク王がイギリスを臣下のように扱う場面がありますが、それは、こうした歴史的な背景を前提としているものと思われます。ただ、アムレットの話はかなり古いものと思われますが、「ハムレット」では大砲が登場していますので、15世紀以降となります。
こうした時代考証は、数えきれない程、行われてきたことでしょうが、「ハムレット」に関しては、こうした考証はあまり意味がないように思います。なぜなら「ハムレット」は、時空を超えた人間の内面世界を描いているからです。「ハムレット」は、歴史上初めて人間の内面世界と向き合った作品だそうです。歴史上初めてかどうかは知りませんが、「ハムレット」は人間の内面の迷宮と混沌を見事に描いており、観客を内面世界に引き込み、一つ一つの言葉が、それを聞く人々の心に突き刺さります。そこで語られた多くの言葉が、ほんど独立した格言のようになって、今日に至るまで人間精神の形成に大きな役割を果たしてきたと思います。
物語は、夜な夜な宮殿の屋上に殺された前王(ハムレットの父)の亡霊が現れる、というところから始まります。やがてハムレットは亡霊と語り、父が父の弟に殺されたことを知ります。そして弟が王位を継ぎ、さらに父の妻(ハムレットの母)を自分の妻とします。これを知ったハムレットは父への復讐を誓い、それを隠すために狂人のような振る舞いをし、ふとしたことから、彼を愛していたオフィリアの父を殺してしまいます。そのためオフィリアは発狂し、溺死してしまいます。そして色々って、ハムレットは父の敵を討ち、彼自身も死んでいきます。要するに、関係する人々はほとんど死んでしまうという、壮絶な悲劇です。
ただこの映画は、一つの観点で制作されています。映画の冒頭に、原作にはない次の言葉が語られます。「ただ一つの欠点のために、どれほどの美徳をもっていようと、無となってしまう。……これは一人の男の悲劇である。優柔不断だった男の。」ハムレットには、王を殺すチャンスがありました。王が、自分の犯した罪を恐れて祈っている時、たまたまハムレットがその後ろを通りかかったのです。しかし、もし王が祈っている時に殺せば、王は天国にいくかもしれない。それに対して自分も父も地獄で苦しむことになるかもしれないと考えたのです。この一瞬のためらいが、王を殺すチャンスがあったにも関わらず殺せず、この逡巡が、やがて王も母も、そしてオフィリアとハムレット自身をも死に至らせる悲劇を生み出しました。
「ハムレット」は非常に複雑な内容なので、この映画のように観点を絞って捉えると分かりやすくなります。映像も内容もきわめて重厚で、評判の高い映画でした。

 シェイクスピアの四大悲劇の第2作目は、1604年に執筆された「オセロ」です。ヴェネツィアの将軍だったオセロが妻の不貞を疑って殺害し、やがてそれが誤解であることが分かって自殺する、という話です。この戯曲が異色だったのは、主人公のオセロがムーア人、つまり北アフリカのムスリムであったということです。ヴェネツィアは、15世紀末から1571年までキプロスを領有しており、戯曲では、オセロはキプロスの守備隊長となっています。当時、キプロスはオスマン帝国による猛攻を受けており、そんな中でヴェネツィアは、能力さえあれば誰でも登用していたようです。イスラーム教徒とキリスト教徒との対立という構図は、それ程単純ではないようです。
 「オセロ」の映画も沢山ありますが、私はどれも観ていません。ここに掲載した写真は、1995年にイギリスで制作された映画です。先に述べたローレンス・オリヴィエも、1965年に「オセロ」を制作しています。なお、オセロという名のゲームがありますが、これは、黒人のオセロと白人の妻との関係が目まぐるしく変わる展開であることから、こう名付けられたらしいのですが、何となく人種差別的な感じがします。


リア王

 シェイクスピア四大悲劇のうち三番目の作品で、1605年頃に執筆されました。その内容があまりに悲劇的で複雑だったためか、映画化が進まず、1970年にソ連で制作されたこの映画が最初のもののようです。ロシア人は、イギリス人に次いでシェイクスピア好きだそうで、「ハムレット」も制作しています。日本では黒沢監督が、「リア王」をもとに「乱」という映画を制作したことは、よく知られています。
 リア王については、12世紀に編纂された「ブリタニア列王史」にウェルズの伝説的な王として記載されているそうで、時代については不明です。リア(レイア)王は60年間統治し、嫡子がいなかったため、3人の娘に領土を分割して与えることにしました。その際、娘たちによる自分への愛情の深さを語らせることにしました。上の二人の娘は、口を極めて愛情の深さを語りますが、リア王が最も寵愛した末娘のコーデリアは、「娘が父親を愛するのは当然で、わざわざ口に出して言うものではない」と言ったため、激怒したリア王は彼女に領地を与えませんでした。そのため彼女は持参金なしでフランス王に嫁ぎます。リア王は、娘たちに面倒を見てもらい、余生を悠々自適に暮らすつもりだったのですが、娘たちは父の面倒を見るのを嫌がり、結局リア王は無一物で放浪することになります。
 ここから、「ブリタニア列王史」とシェイクスピアの「リア王」とで、内容が異なります。「ブリタニア列王史」では、リア王はコーデリアとフランス王に援助を求め、彼らの協力で二人の娘と婿たちを倒し、やがてコーデリアが王位を継ぎます。ハッピーエンドです。これに対して、シェイクスピアの「リア王」では、父を助けに来たコーデリアは敵に捕まって殺され、リア王も殺されるという、最悪の結末となります。「ハムレット」の悲劇性には多少なりとも爽やかさがありましたが、「リア王」の悲劇性には救いようがありません。
 この文章を、どのように締めくくったよいのか分かりません。ドラマには、弟の罠で家を追われて放浪する青年や、つねにリア王の側にいる道化などが複雑に絡み合い、これらが一つの演劇空間を創っているようですが、多分、何度観ても私には分からないと思います。


 「マクベス」は、シェイクスピアの四大悲劇の最後の戯曲で、1606年頃執筆されました。マクベスは、11世紀のスコットランドに実在した王で、先王を殺して自ら王になりますが、しだいに疑心暗鬼となって暴政を行い、最後は殺されるという物語です。1603年にスコットランドのステュアート家ジェームズ6世がイギリス王となっており、この事件に触発されて、この戯曲が執筆されてと思われます。ただ、当時スコットランドでは暴力による王位簒奪はよくあることで、実在したマクベスは17年間在位し、名君として知られていました。
ここにあげた写真の映画は、1971年のイギリス・アメリカの合作映画で、かなり血みどろの映画のようです。私はこの映画を観ていませんが、あまり観たいとも思いません。






テンペスト

 1611年頃に執筆された戯曲で、シェイクスピアの事実上最後の作品となり、この映画は、この戯曲執筆の400周年を記念して、2011年にアメリカでファンタジー映画として制作されました。「テンペスト」というのは「嵐」という意味で、このドラマが嵐から始まるため、このタイトルが付けられたのだと思います。以前には、この作品は、日本では「嵐」というタイトルで紹介されることが多かったようです。NHKで「テンペスト」という連続ドラマが放映されていましたが、これは「幕末期の琉球王国を襲った時代の荒波」というような意味で用いられているようです。
 この戯曲の主人公は、ミラノ侯爵プロスペローですが、映画では女公爵プロスペラに変更されています。12年前、プロスペラはナポリ王と結んだ弟のアントーニオによってミラノから追われ、3歳の娘ミランダとともに孤島に漂着しました。島には、キャリバンという怪獣と、エアリエルという空気の精が住んでいましたが、魔術を研究していたプロスペラは彼らを操って島を支配します。そして12年の歳月が流れ、ナポリ王と、その息子と弟、さらにミラノ侯爵を乗せた船がこの島の近くを通りがかりました。そこでプロスペラは魔法で嵐を起こさせて、ナポリ王たちを島に引き入れます。
 ミランダは漂着したナポリの王子を発見しますが、人間の男を初めて見たミランダは、ナポリの王子に一目惚れし、プロスペラは王子に試練を課した上で、二人の結婚を許します。他の者たちに対しては、プロスペラは魔術を使って苦しめ、その間にナポリ王の弟が兄を殺して自ら王となろうと画策しますが、プロスペラがこれを妨害します。やがてプロスペラに追い詰められたナポリ王たちは、初めてプロスペラが生きていることを知り、ナポリ王は彼女に謝罪しますが、他の二人は謝罪しませんでした。しかし、彼女は反省しない二人を含めてすべての者を許し、怪獣も空気の精も解放してやります。そしてナポリでミランダと王子の結婚式をあげさせ、自らはミラノに帰って行きます。
 最後にプロスペラは、一人舞台に立ち、自分も自由の身にして欲しいと、観客に懇願して劇は終わります。これはシェイクスピアの引退表明ではないかと、長く議論されてきました。事実、彼は翌年に引退して故郷に帰ってしまいます。しかし、その後も共著という形で台本を書いているため、引退表明という説は今日ではあまり支持されていません。それよりも、この戯曲の問題点は、罪ある者をすべて許したということにあります。「ヴェニスの商人」で法律学者に扮したポーシャは、シャイロックに慈悲を示すように言いましたが、彼女自身はシャイロックにまったく慈悲を示しませんでした。これは明らかに欺瞞です。そして「テンペスト」では、プロスペラは、罪を反省する者も、反省しない者も、すべてを許し、さらに島を解放し、自らも解放されます。これがシェイクスピアの到達点ではないかと思います。
なお、1609年にヴァージニアへ向う船が嵐に巻き込まれ行方不明になりましたが、翌年、無事ヴァージニアに姿を現し、当時大変評判となりました。シェイクスピアの「テンペスト」も、この事件の影響を受けた可能性があります。

 シェイクスピアの世界に、2週間どっぷりと浸かり、一つ一つの言葉の美しさや鋭さに圧倒されました。シェイクスピアについては、数えきれない程の研究がなされ、これからも研究され続けるでしょう。ここで私が書いたことは、まったく浅はかな内容であり、多くの誤解や間違いがあると思います。ただ、50年ほど前にシェイクスピアの戯曲をかなりまとめて読み、その後ずっとシェイクスピアから離れていましたが、ここでは映画を通じて、自分自身のためにシェイクスピアをまとめてみました。


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